赤鬼によって再構築されたチームはナイジェリアで快進撃を見せる。1次リーグはカメルーン戦での逆転負けから始まったが、続くアメリカ、イングランドに連勝して1位通過を果たす。ラウンド16以降はポルトガル、メキシコ、ウルグアイに劇的な勝利を重ね、気づいてみればファイナリストになっていた。ムードメーカーの播戸竜二(当時G大阪)がトルシエの物まねをしてチームを盛り上げたり、指揮官が彼らを孤児院に連れて行ってアフリカの貧しい子供たちの実情を伝えるなどピッチ外での交流も進み、トルシエと選手たちの間のわだかまりも完全に消え去っていた。決勝ではシャビ(バルセロナ)率いるスペインに0−4の完敗したものの、2位という結果に彼らは大きな自信を得た。

 帰国後の取材対応で小野が「この監督の下でならやっていける」と言い切るなど、彼らには強い信頼関係が生まれた。トルシエもナイジェリア組への寵愛を隠さなかった。となれば、宮本、柳沢、中村俊輔ら年長者グループもウカウカしてはいられなくなる。双方のライバル意識の高まりもチームにいい相乗効果をもたらした。

 そのエネルギーが爆発したのが、1999年6〜7月に行われたシドニー五輪1次予選だ。香港ラウンドでは初戦のフィリピン戦を13−0で圧勝したのを皮切りに、ネパールに5−0、マレーシアに4−0、そして香港に4−1と圧倒的な力を示した。トルシエは毎回のようにメンバーを入れ替えるだけでなく、動きが悪ければすぐに下げ、試合中でも怒鳴りまくる。オーバーアクションともいえる行動で選手に刺激と危機感を与え続けたのだ。

 その際たる例がマレーシア戦である。まず動きの悪かった稲本がわずか22分で下げられ、ハーフタイムには中村俊輔が衆人環視の中で罵倒された。「お前らの負ける顔が見たいよ。自分勝手なプレーをするんじゃない。だったら1人で25点取ってこい!」と凄まじい勢いで罵られた俊輔は、目を真っ赤にしながら後半を戦っていた。

 俊輔がターゲットになったのは、彼がトップ下のポジションへの強いこだわりを隠さなかったからだろう。1次予選前のJヴィレッジ合宿でも「俺はクロスマシーンじゃない。左サイドをやるくらいならマリノスに帰った方がまし」とまで発言していた。にも関わらず、トルシエがトップ下で起用するのはナイジェリアで日本を準優勝に導いた男・小野伸二だ。2人は絶妙のハーモニーを奏でていたが、どうしても俊輔は納得できない。トルシエはマレーシア戦のハーフタイムにそんな10番を諌めるつもりだったのだろう。この時は俊輔が引く格好になったが、この火種はずっと残り、最終的に2002年日韓W杯のメンバー落選につながってしまう。当時の彼はそんなことは知る由もなかったが……。

 香港ラウンドでは、もう1つ大きな出来事があった。エースFWと見られた柳沢が4試合ノーゴールに終わったことだ。負傷で辞退した高原の代役として招集された吉原宏太(当時札幌)や平瀬智行(当時鹿島)が次々とゴールを重ねる傍らで、柳沢はチャンスを外しまくった。本人は「自分が点を取らなくても、チームとして点を取って勝てればそれでいい」という定番のコメントを繰り返していたが、重圧を感じていたのは間違いない。

 その柳沢が日本ラウンド初戦・ネパール戦でやっと得点を挙げた。日本は9−0で勝利し、本人もようやくプレッシャーから解放されたのだろう。その晩、彼は羽目を外しすぎてしまう。当時交際中だった女性タレントの梨花と合宿を抜け出して食事に行き、その姿を写真週刊誌に抑えられ、クラブへ強制送還されてしまったのだ。2日後のマレーシア戦に彼の姿はなく、チームも物々しい雰囲気に包まれた。が、南米選手権(パラグアイ)のためにチームを離れていたトルシエに代わって五輪代表を率いていた山本昌邦ヘッドコーチが何とか選手たちを試合に集中させ、4−0で勝利。チームは窮地を乗り越えた。

 次の香港戦に2−0で勝って最終予選進出が決定し、7月4日の1次予選最終戦・フィリピン戦は消化試合となった。通常なら主力を休ませ、出場機会の少なかった選手にチャンスを与えていいはず。しかしトルシエは主力の出場にこだわった。代表は活動できる期間が限られているから1試合もムダにしたくないという思いがあったのではないか。

 その思惑が裏目に出て、まさかの「悲劇」が起きてしまった。

 東京・国立競技場は蒸し暑く、生温い空気に包まれた。いくら若い選手たちでも、中1日のゲーム4試合も2度も続けたら、疲労がたまるのは当然のことだ。そんな最中の前半31分、小野がフィリピンのDFの強引なタックルをまともにくらった。苦渋の表情を浮かべ倒れ込む彼は微動だにしない。そのままタンカで運ばれ、スタジアムを去っていった。

 翌日、発表された診断結果は「左ひざ内側側副じん帯断裂」。全治3カ月の重傷だった。これで10〜11月の最終予選は出場不可能となり、小野を攻撃の中心に据えてきたチームに大きな誤算が生じてしまう。トルシエも頭を抱えたに違いない。しかし、彼はそこで引き下がる男ではなかった。選手たちも脅かせるような大胆な手を打ったのだ…。