ほんとうの祈りは、「他からこうしてほしい」とおねだりすることを超え、「自分が見出した意味のもとに何があってもこうするんだ」という覚悟である。祈りがそうした覚悟にまで昇華したとき、その人は、嬉々として、たくましく動ける。

 きょうは年始にふさわしく、「祈り」というテーマで書きます。正月3が日のテレビニュースの定番といえば初詣。世の中や生活が平和であれば益々の安泰を願い、不景気で不安定であれば、よりよくなることを願う。いずれにしても人びとの心の中から祈りが消えることはありません。

 しかし、私個人は、この年始イベントとしての初詣風景を、少し遠くから見ている一人です。一つには、一部の寺社に商業主義めいたものが目に付くこと。そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にあります。

 もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もありますし、真摯な信仰心で詣でる人はたくさんいます。私自身も仏教を信奉する一人ですが、私は近所の多摩川に出て、昇りゆく太陽に一人静かに祈りを立てるだけのスタイルでやっています。

◆請求書的祈り・領収書的祈り
 仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには2つの種類があることをこう表現します。

  「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、私は『請求書的祈り』と名付けていますが、本物の宗教心というのは、“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という『領収書的祈り』なんです」。
                 ――――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より


続きはこちら