歌のある風景(その1:島原の子守唄と「からゆきさん」)
今回は、歌のある風景(島原の子守唄と「からゆきさん」)を散歩します。 国語辞典などによると、子守唄とは、「母親や祖母などが赤ん坊を背負いながら寝かしつけるときに歌うもの」と説明されていますが、島原の子守唄の場合は、ちょっと意味合いが違っていました。明治時代、日本の資本主義経済の発展と人口増加に伴って、商人や地主などの中間層に雇われる「子守娘」が全国的に発生しました (赤松啓介,女の歴史と民俗)。貧しい農漁村出身の幼い「子守娘」は、乳児を背負い家庭内奴隷のような辛い境遇に置かれ、いつしか悲嘆や反抗の思いが込められた子守娘唄が流行しました。つまり、島原の子守唄は、「子守唄」ではなく、「子守娘唄」だったわけです。
♪おどみゃ島原の梨の木育ちよ・・・
♪鬼の池久助どんの連れんこらるばい・・・
(早く泣き止んで寝ないと鬼の池久助どんに連れていかれるぞ)。
鬼の池は天草港に実在する地名で、「久助どん」は、若い娘を買い、外国に売り、娼婦として働かせる「女衒(ぜげん)」という商売の男でした。娘たちは、中国やシンガポール、マニラ、などの東南アジアに売られ、「からゆきさん」と呼ばれました。
実は明治日本において、「からゆきさん」は生糸や茶、石炭と並ぶ外貨を獲得するための重要な輸出品で、中には、金の指輪を2個以上もはめ、故郷に錦をかざった女もいました。
♪あすこん人は金の指輪をはめとらす
(あすこの人は分厚い金の指輪をしています。)
♪金は何処んけん唐金げなばよ・・・
(あの金の指輪は何処の金でしょう。きっと唐からもってきたのでしょうよ)
島原にある大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、からゆきさんが寄進した玉垣が残されていますが、このような成功をおさめたのは少数で、中には異境の地で生涯を終えたケースもありました。島原の子守唄にうごめくのは、そんな女たちの心の奥の叫びの歌でした。「泣きやまないと鬼の池久助どんに連れていかれる」と赤ん坊に聞かせながら、本当はいつ自分も そんな人生を送ることになるのだろうと子守娘は泣きました。(合田道人,懐かしき日本の歌・第一集 付録「鑑賞アルバム」)
「からゆきさん」という呼び名は、1980年代、「じゃぱゆきさん」という呼び名を生みました(山谷哲夫,じゃぱゆきさん)。「じゃぱゆきさん」は、当時急増した日本に出稼ぎに来る東南アジア人女性のことで、区立西大久保公園から山手線ガードに至る通りは、街娼の「じゃぱゆきさん」がたむろする場所として有名でした。
(からゆきさんの写真の掲載については、口之津歴史民俗資料館の了解を頂きました。)
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