独立の錯覚から共生の自覚へ/純丘曜彰 教授博士
/話題をさらって一人勝ちをしても、その内実はおうおうに空虚だ。根の無い花は、すぐ枯れる。全体の部分にすぎないにもかかわらず、その背後を顧みることがなければ、業界ごと壊滅してしまう。むしろ裾野の広がりがあってこそ、繁栄を支えることができる。/
アドリア海に浮かぶ水の都、ヴェネチアは、ヨーロッパの人々のだれもがあこがれる歓楽の街だった。カネのある貴族の子弟たちは、遠くイングランドやデンマークなどからも、家庭教師に率いられ、グランドツアーとして、この街を訪れた。しかし、20世紀初頭の哲学者のジンメルは、そのヴェネチアを、摘み取られた花のようだ、と酷評した。その場ではすべてが美しく思えるが、心に浸み残るほどのものは何もない。
人工的で閉鎖的なテーマパークだけではない。現代の文化の多くもそうだ。見かけ倒しの映画や小説を、話題沸騰、たちまち重版、などと、洪水のような宣伝で煽り立て、売りまくる。そのときは、おもしろい、かのように思え、見てきた、読んだ、と、人に自慢すれば、それで用済み。筋もろくに思い出せない。半年もしないうちに古書店に本は山積み。運転手や美容師、水商売など、人に話題を合わせなければならない仕事ならともかく、一般の人々は、こんなもの、人生に何の関わりがあろうか。木戸の呼び込みのうまさに騙されて、ただカネを巻き上げられるだけの昔ながらのインチキ見せ物小屋と同じ。
仕事もそうだ。華やかに経済誌やテレビの特集を飾っている新事業の風雲児も、数年で化けの皮がはがれ、見せかけだけの虚業の実体が露呈してしまう。伝統ある立派な巨大企業ですら、芯から腐って、全社これ不良債権の塊まりというありさまだったり。かと思えば、品質管理は納入業者任せで、正体不明のものを売っていたりする。それどころか、不良在庫処分の確信犯ということさえある。
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アドリア海に浮かぶ水の都、ヴェネチアは、ヨーロッパの人々のだれもがあこがれる歓楽の街だった。カネのある貴族の子弟たちは、遠くイングランドやデンマークなどからも、家庭教師に率いられ、グランドツアーとして、この街を訪れた。しかし、20世紀初頭の哲学者のジンメルは、そのヴェネチアを、摘み取られた花のようだ、と酷評した。その場ではすべてが美しく思えるが、心に浸み残るほどのものは何もない。
仕事もそうだ。華やかに経済誌やテレビの特集を飾っている新事業の風雲児も、数年で化けの皮がはがれ、見せかけだけの虚業の実体が露呈してしまう。伝統ある立派な巨大企業ですら、芯から腐って、全社これ不良債権の塊まりというありさまだったり。かと思えば、品質管理は納入業者任せで、正体不明のものを売っていたりする。それどころか、不良在庫処分の確信犯ということさえある。
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