“自由”であることの負荷/村山 昇
【沖縄発】
「〜からの自由」に甘えることは簡単だが、「〜への自由」を獲得することは難しい。個々の生きる力が脆弱化すればするほど、「自由であること」は危うさを増す。
==========
先週末から沖縄・本島に短期滞在しています。
今回も休み半分、仕事半分・・・といいますか、
私の場合、「仕事と遊び」、あるいは「働くことと休むこと」の境目はなく、
両者が和合している『ライフワーク・ブレンド』の状態なので、
まぁ、気が向けば仕事をするし、ときに気が向けば観光するし、
また、その出かけた足で、移住場所の土地探しもやるといった過ごし方をしています。
南国ではすでに始まった「桜祭り」。
末部の写真は、北部にある今帰仁城址で撮った1枚です。
* * * * * * *
さて、日本人にとって、沖縄といえば、今では観光地としての顔が濃くなっていますが、
忘れてならないのは、沖縄が“祈りの地”であることでしょう。
沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔に出向くたびに
戦争に駆り出され、命を散らしていった若い男女のことが想い出されます。
(合掌)
狂気の中で狂気を強要された時代、
当時の青年たちに「自由」などというものはなかった。
個々の才能をひらく自由、職業選択の自由などは
国家権力によっていとも簡単につまみつぶされ、
紙切れ1枚で、「殺し合い」という役務に身を投げるしかなかった。
さて、それから、約60年以上が経ち、世は平成ニッポンの時代。
現在の私たちには、自由が溢れるほどあります。
これは過去の人びとが苦労して獲得してくれた賜物なのですが、
そんな歴史的認識や恩などは、ほとんどの人の頭から抜け、
「自由であること」が空っぽになり、重荷にすらなっているように思えます。
「やりたいことがわからない」、
「どう生きたいか特に希望はない」、
「とりあえずこの会社に入ったが、あとは何となく生きている」・・・などなど、
続きはこちら
「〜からの自由」に甘えることは簡単だが、「〜への自由」を獲得することは難しい。個々の生きる力が脆弱化すればするほど、「自由であること」は危うさを増す。
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先週末から沖縄・本島に短期滞在しています。
今回も休み半分、仕事半分・・・といいますか、
私の場合、「仕事と遊び」、あるいは「働くことと休むこと」の境目はなく、
両者が和合している『ライフワーク・ブレンド』の状態なので、
まぁ、気が向けば仕事をするし、ときに気が向けば観光するし、
また、その出かけた足で、移住場所の土地探しもやるといった過ごし方をしています。
末部の写真は、北部にある今帰仁城址で撮った1枚です。
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さて、日本人にとって、沖縄といえば、今では観光地としての顔が濃くなっていますが、
忘れてならないのは、沖縄が“祈りの地”であることでしょう。
沖縄平和記念公園、ひめゆりの塔に出向くたびに
戦争に駆り出され、命を散らしていった若い男女のことが想い出されます。
(合掌)
狂気の中で狂気を強要された時代、
当時の青年たちに「自由」などというものはなかった。
個々の才能をひらく自由、職業選択の自由などは
国家権力によっていとも簡単につまみつぶされ、
紙切れ1枚で、「殺し合い」という役務に身を投げるしかなかった。
さて、それから、約60年以上が経ち、世は平成ニッポンの時代。
現在の私たちには、自由が溢れるほどあります。
これは過去の人びとが苦労して獲得してくれた賜物なのですが、
そんな歴史的認識や恩などは、ほとんどの人の頭から抜け、
「自由であること」が空っぽになり、重荷にすらなっているように思えます。
「やりたいことがわからない」、
「どう生きたいか特に希望はない」、
「とりあえずこの会社に入ったが、あとは何となく生きている」・・・などなど、
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