記者が見た田村師とは アスクビクターモアの急死に涙、高かったスタッフへの要求水準
日本調教師会は30日、田村康仁調教師=美浦=が29日午後8時14分に茨城県つくば市の筑波メディカルセンター病院で病気のため死去したと発表した。63歳だった。生前お世話になったデイリースポーツの美浦担当・刀根善郎記者が、田村師を追悼した。
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重賞に有力馬を送り出す時、記者の囲みの冒頭では決まって「胸を借りる立場ですから」と腰を低くした。それなのに、話しているうちに言葉は熱を帯びていく。語気が強まり、目に火が入る。囲みが解けて私と2人になると、「負けるつもりは毛頭ないから!」。そちらが本音だと、私は知っていた。田村師がデビュー前から「モノが違う」とほれ込んでいたメジャーエンブレムが桜花賞の敗戦から巻き返し、NHKマイルCを勝った時は心から喜び、アスクビクターモアが急死した時は、目に涙を浮かべるほど打ちのめされていた。
スタッフへの要求水準は高かった。とりわけ追い切りには厳しく、わずかな時計のズレも見逃さずに声(しっせい)が飛んだ。だが、その裏には確かな信条があった。「追い切りには、スタッフと所属騎手以外はできる限り乗せない。たとえルメールさんでもね。うちのスタッフは日本一だと思っているから。後悔したくないから」。それは調教師としての美学だった。その厳しさは時に私の取材姿勢にも向いたことがあったが、今思えば、それも目をかけてくれていた証しだった。
私が育成牧場で働いていた頃、クラシックを狙う田村厩舎の馬の背に、私は乗せてもらっていた。その縁もあり、記者になってからも、ずっと気にかけてくれた。
今年のNHKマイルC。追い切り日の早朝、電話が鳴った。「エコロアルバの取材はありますよね?取材の対応はどうすればいいですか?」。あの強気な人が、こちらを気遣うように尋ねてきた。体調を崩しがちと聞いていたが、あの日は取材を受けるためにトレセンに来たように思えてならない。追い切り後にはG1共同会見にも対応した。
あれからひと月半。胸を借りるどころか、最後の最後まで、背中を見せてもらった。

