齋藤彰俊がリングを去る決意と三沢光晴からの手紙「死んでお詫びをするしかないと考えていた」
安定を手にすると、なぜか自分でそれを壊したくなる──。齋藤彰俊(59)は常に挑戦し続けていないと気が済まない異色のファイターだ。そんな彼を突然の悲劇が襲う。引退どころか自死まで頭をよぎった齋藤は、なぜノアでの継続参戦を決めたのか? そしてあれから15年が経ち、リングを去る決意をした理由とは……?(前中後編の後編)
【中編はこちら】引退直前・レスラー齋藤彰俊が語る“虎ハンター”小林邦明「 “レスラーはナメられたらおしまい”と教わった」
【写真】現役生活にピリオドを打つ齋藤彰俊
2000年6月、全日本プロレスの社長だった三沢光晴は同社を退社し、新団体「プロレスリング・ノア」を設立。多くの全日本所属選手やスタッフがこの動きに賛同し、当初の目論見とは違って大所帯での旗揚げとなる。齋藤彰俊も参戦を直訴した1人だった。
「日本のプロレスというのは、新日本と全日本という2大メジャーが中心に成り立っていたじゃないですか。自分は実際に新日本を体験することで学んだことがたくさんあったんですけど、全日本を知らないままだとプロレスラーとして中途半端じゃないかと考えたんです。とはいえ、ノアは想像以上に新日本とは違いましたね。ファイトスタイルも違うんだけど、道場の雰囲気も全然違っていて……。新日本は派閥とかがあからさまに存在するんですよ。“こっちとあっちのグループは混ぜるな危険”みたいな空気が控室にいてもビンビン伝わってくるんです。それに比べると全日系のノアは一見穏やかなんだけど、水面下ではすさまじい潮の流れがありまして。最初はそこに気づかなくて戸惑いましたね」
ジャイアント馬場が身体の大きい選手を優遇していたこともあり、ノアには190cm近い巨漢ファイターがゴロゴロしていた。当たり負けしないように、齋藤も懸命に体重を増やしたという。タフな試合が続いたが、ファイターとしての充実感がみなぎっていた。
「ノアに上がるようになって、初めてベルトというものを意識するようになりました。プロレスを離れていた頃、バーのお客さんが“ベルトも獲っていないようでは、プロレスラーとして何を言っても響かない”と漏らしていたことがあって、その言葉がずっと頭の隅にあったんですよね。たしかに世間から見たらそういうものなのかなって。結局、この頃に本当の意味でプロレスラーになれたのかもしれません。フリーの立場で参戦していたのが、途中からは正式に所属選手になりましたし。少なくても格闘3兄妹の時代とはファイトスタイルもプロレスへの考え方も別人みたいになっていました」
2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ。GHCタッグ王座選手権の試合中に悲劇は起こった。齋藤が三沢にバックドロップを放ったところ、三沢がリング中央で意識不明の心肺停止状態に。救急車で病院に搬送されたが、午後10時過ぎに死亡が確認される。
「三沢さんのことは本当に尊敬していたし、三沢さんだからこそ“この人の下で頑張っていきたい”と考えたわけで……。どうやって責任を取ればいいのか想像もつかなかったです。プロレスからの引退? いや、それどころか自分で命を断とうと思い詰めていました。広島の川を眺めながら、もう死んでお詫びするしかないなって……。ただ一方で次の試合は組まれていたので、そこは出ないわけにいかなかったですし」
受け身に定評のあった三沢だが、社長業に忙殺されて晩年のコンディション不足は明白だった。加えて、過酷な試合を繰り返した四天王プロレスのダメージ蓄積もある。齋藤が放ったバックドロップ自体はとりたてて危険なものではなかったし、三沢もきちんと受け身を取れていたのだが、リング禍は起こってしまった。プロレスが格闘技とは比較にならないほど危険だとされるゆえんは、このあたりにある。
「覚悟はしていましたが、世間からの逆風はすさまじかったです。一夜にして“人殺し”というレッテルを貼られることになりました。“齋藤は悪くない”とフォローしてくれる関係者がいる一方で、現役選手やOBの中からも“あんな投げ方をしたら死ぬだろ”と非難する声が挙がりましたね。でも、いいんです。自分はすべてを受け入れるんだって決意しましたから」
有名な話だが、事故の2年前に三沢は友人に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、そのときの相手に伝えてほしい」とメッセージを託していた。
《きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う。それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない。それでも、お前にはプロレスを続けてほしい。つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい》
その手紙を今も齋藤は巡業用のバッグに入れている。
「もし自分がこの世からいなくなったとして、それは責任を取っているようでいて無責任なのかなと思い直したんです。だって残された人の怒りはどこにぶつければいいんですか? だったら自分が正々堂々と“受け身”を取るしかない。いまだに自分のSNSには“人殺し”とか“三沢を返せ”といったメッセージが届きますが、それには全部返信するようにしているんですよ。それがいいことかどうかはともかくとして、逃げたくはないので」
あれから15年の月日が経った。所属する団体・ノアも一時は深刻な経営危機に陥ったが、若手選手の台頭やサイバーエージェント社の連結子会社となったこともあり、ここに来て再び活況を呈している。そして齋藤の心にも、ある変化が生じた。
「三沢さんからの手紙は何度も何度も読み返しました。だけど、年々、感じ方も変わってくるんですよね。たとえば手紙の中では《俺とのことを糧にしてほしい》とも書かれていました。でも糧って何かと考えると、“自分のプラスにしてほしい”という解釈もできるし、“苦しんで答えを見つけることが修業となり、ひいてはそれが生きるうえでの糧になる”という捉え方もできる。そういう意味では、十分にやりきったのかなという気持ちが強くなっていったんです」
今年7月17日に行われた日本武道館での試合直後、潮崎豪に敗れた齋藤は会場のマイクで引退を告げる。
「あの天におられる偉大な方の足元には及ばないが、2009年6月13日、あの広島の地で心に誓ったこと、約束したこと……。15年という長い時はかかったけど、俺なりに今日果たせたのかなと思う。だから引退を決意した! 潮崎! チームノアを、プロレスリング・ノアを、プロレスを、よろしく頼む!」
11月17日、愛知県名古屋市・ドルフィンズアリーナでの「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」が行われる。齋藤は「彼の背中に三沢さんを感じる」として、対戦相手に丸藤正道を指名。集大成となるファイトが展開されるのは間違いない。
「特にプロレスを長く見てきた人は、“プロレスってこういうものだよね”ってなんとなくわかった気になっていることも多いと思う。でも、違うんですよ。本当にプロレスって何が起こるかわからないし、人生そのものが現れるんです。それを自分は試合で伝えたいんですね。自分は本当に不器用な選手だったと思うし、それで損をしてきた部分もあるのかもだけど、自分の生き方に嘘だけはつきたくない。11月17日は自分の生き様をすべてさらけ出すつもりです」
大会の様子はABEMAでも生中継されるとのこと。全プロレスファン必見の試合となりそうだ。(文中敬称略)
【中編はこちら】引退直前・レスラー齋藤彰俊が語る“虎ハンター”小林邦明「 “レスラーはナメられたらおしまい”と教わった」
【5・充実の日々と突然の悲劇】
2000年6月、全日本プロレスの社長だった三沢光晴は同社を退社し、新団体「プロレスリング・ノア」を設立。多くの全日本所属選手やスタッフがこの動きに賛同し、当初の目論見とは違って大所帯での旗揚げとなる。齋藤彰俊も参戦を直訴した1人だった。
「日本のプロレスというのは、新日本と全日本という2大メジャーが中心に成り立っていたじゃないですか。自分は実際に新日本を体験することで学んだことがたくさんあったんですけど、全日本を知らないままだとプロレスラーとして中途半端じゃないかと考えたんです。とはいえ、ノアは想像以上に新日本とは違いましたね。ファイトスタイルも違うんだけど、道場の雰囲気も全然違っていて……。新日本は派閥とかがあからさまに存在するんですよ。“こっちとあっちのグループは混ぜるな危険”みたいな空気が控室にいてもビンビン伝わってくるんです。それに比べると全日系のノアは一見穏やかなんだけど、水面下ではすさまじい潮の流れがありまして。最初はそこに気づかなくて戸惑いましたね」
ジャイアント馬場が身体の大きい選手を優遇していたこともあり、ノアには190cm近い巨漢ファイターがゴロゴロしていた。当たり負けしないように、齋藤も懸命に体重を増やしたという。タフな試合が続いたが、ファイターとしての充実感がみなぎっていた。
「ノアに上がるようになって、初めてベルトというものを意識するようになりました。プロレスを離れていた頃、バーのお客さんが“ベルトも獲っていないようでは、プロレスラーとして何を言っても響かない”と漏らしていたことがあって、その言葉がずっと頭の隅にあったんですよね。たしかに世間から見たらそういうものなのかなって。結局、この頃に本当の意味でプロレスラーになれたのかもしれません。フリーの立場で参戦していたのが、途中からは正式に所属選手になりましたし。少なくても格闘3兄妹の時代とはファイトスタイルもプロレスへの考え方も別人みたいになっていました」
2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ。GHCタッグ王座選手権の試合中に悲劇は起こった。齋藤が三沢にバックドロップを放ったところ、三沢がリング中央で意識不明の心肺停止状態に。救急車で病院に搬送されたが、午後10時過ぎに死亡が確認される。
「三沢さんのことは本当に尊敬していたし、三沢さんだからこそ“この人の下で頑張っていきたい”と考えたわけで……。どうやって責任を取ればいいのか想像もつかなかったです。プロレスからの引退? いや、それどころか自分で命を断とうと思い詰めていました。広島の川を眺めながら、もう死んでお詫びするしかないなって……。ただ一方で次の試合は組まれていたので、そこは出ないわけにいかなかったですし」
受け身に定評のあった三沢だが、社長業に忙殺されて晩年のコンディション不足は明白だった。加えて、過酷な試合を繰り返した四天王プロレスのダメージ蓄積もある。齋藤が放ったバックドロップ自体はとりたてて危険なものではなかったし、三沢もきちんと受け身を取れていたのだが、リング禍は起こってしまった。プロレスが格闘技とは比較にならないほど危険だとされるゆえんは、このあたりにある。
「覚悟はしていましたが、世間からの逆風はすさまじかったです。一夜にして“人殺し”というレッテルを貼られることになりました。“齋藤は悪くない”とフォローしてくれる関係者がいる一方で、現役選手やOBの中からも“あんな投げ方をしたら死ぬだろ”と非難する声が挙がりましたね。でも、いいんです。自分はすべてを受け入れるんだって決意しましたから」
有名な話だが、事故の2年前に三沢は友人に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、そのときの相手に伝えてほしい」とメッセージを託していた。
《きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う。それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない。それでも、お前にはプロレスを続けてほしい。つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい》
その手紙を今も齋藤は巡業用のバッグに入れている。
「もし自分がこの世からいなくなったとして、それは責任を取っているようでいて無責任なのかなと思い直したんです。だって残された人の怒りはどこにぶつければいいんですか? だったら自分が正々堂々と“受け身”を取るしかない。いまだに自分のSNSには“人殺し”とか“三沢を返せ”といったメッセージが届きますが、それには全部返信するようにしているんですよ。それがいいことかどうかはともかくとして、逃げたくはないので」
【6・そして最後の闘いへ…】
あれから15年の月日が経った。所属する団体・ノアも一時は深刻な経営危機に陥ったが、若手選手の台頭やサイバーエージェント社の連結子会社となったこともあり、ここに来て再び活況を呈している。そして齋藤の心にも、ある変化が生じた。
「三沢さんからの手紙は何度も何度も読み返しました。だけど、年々、感じ方も変わってくるんですよね。たとえば手紙の中では《俺とのことを糧にしてほしい》とも書かれていました。でも糧って何かと考えると、“自分のプラスにしてほしい”という解釈もできるし、“苦しんで答えを見つけることが修業となり、ひいてはそれが生きるうえでの糧になる”という捉え方もできる。そういう意味では、十分にやりきったのかなという気持ちが強くなっていったんです」
今年7月17日に行われた日本武道館での試合直後、潮崎豪に敗れた齋藤は会場のマイクで引退を告げる。
「あの天におられる偉大な方の足元には及ばないが、2009年6月13日、あの広島の地で心に誓ったこと、約束したこと……。15年という長い時はかかったけど、俺なりに今日果たせたのかなと思う。だから引退を決意した! 潮崎! チームノアを、プロレスリング・ノアを、プロレスを、よろしく頼む!」
11月17日、愛知県名古屋市・ドルフィンズアリーナでの「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」が行われる。齋藤は「彼の背中に三沢さんを感じる」として、対戦相手に丸藤正道を指名。集大成となるファイトが展開されるのは間違いない。
「特にプロレスを長く見てきた人は、“プロレスってこういうものだよね”ってなんとなくわかった気になっていることも多いと思う。でも、違うんですよ。本当にプロレスって何が起こるかわからないし、人生そのものが現れるんです。それを自分は試合で伝えたいんですね。自分は本当に不器用な選手だったと思うし、それで損をしてきた部分もあるのかもだけど、自分の生き方に嘘だけはつきたくない。11月17日は自分の生き様をすべてさらけ出すつもりです」
大会の様子はABEMAでも生中継されるとのこと。全プロレスファン必見の試合となりそうだ。(文中敬称略)