《ICUで眠る師匠の人工肺を外した日》笑福亭笑瓶さんを看取った弟子が明かした最期「『今までごめんな』搬送直前まで会話していたのに…」
「遺品整理をしていますが、落語のCDや出演した番組のビデオテープ、テレビで使った着ぐるみなんかを大事に保管していたみたいです。モデルガンや模造刀なども出てきて、2年近く経ってもまだ片づけているところです」──2023年2月22日、急性大動脈解離で66歳の若さで天国へと旅立ったタレントの笑福亭笑瓶さん。トレードマークの黄色い縁メガネと笑顔で親しまれた笑瓶さんは、『HAMASHO』(日本テレビ系)や『ものまね王座決定戦』(フジテレビ系)、『噂の!東京マガジン』(TBS系)など、多くのバラエティー番組でお茶の間に笑いを届けた。
【写真】笑福亭笑瓶さんのゴルフバッグには黄色い縁メガネと同様に個性的なネームプレートが。唯一とった愛弟子・笑助氏とのツーショットほか
テレビでは決して見せなかった素顔を知るのが冒頭のように語る、笑瓶さんの唯一の弟子で落語家の笑福亭笑助氏(48)だ。1997年に入門し、師匠のもとで芸事の修行を積んだ笑助氏は現在、上方落語の寄席などを中心に活動している。今回は笑助氏に笑瓶さんとの思い出を語ってもらった【前後編の前編。後編を読む】
笑瓶さんが自宅で倒れた当日、連絡を受けた笑助氏は「9年前に同じ病気で倒れて一命を取り留めことを思い出しました」と語った。
「師匠の趣味はゴルフでした。2015年12月29日にゴルフのプレー中に師匠が胸の痛みを訴えて倒れ、そのままドクターヘリで搬送されました。当時、私は“東北住みます落語家兼山形住みます芸人”として拠点を山形に置いていましたので、翌朝すぐに病院へ向かいました。師匠はICUで器具をつけられてベッドで寝ていましたが、しゃべれる状態でした。『師匠、びっくりました!』と語しかけると、『おう、俺もびっくりした……』と応じてくれたので少し安心しました」
手術はせずに投薬治療で約2週間後に退院した笑瓶さん。奇跡的に助かったが、ドクターヘリで搬送される際に妻への想いを残そうとしていたという。
「初めての痛みで死を予期した師匠は、一緒にプレーしていた神奈月さんに『嫁はんに今までありがとう。ごめんって言っておいて』と最後の言葉を託そうとしました。すると神奈月さんは『嫌です。ダメです。そんなこと言わないでください、大丈夫ですよ。死ぬかもしれないみたいなことは考えないでください』と、師匠の言葉を受けとらずに励まし続けたそうです。その甲斐あって、大事に至らずに済みました」
病気で倒れて以降、ヘビースモーカーだった笑瓶さんはタバコを止め、健康に気を使って好きな食べ物も控えていた。しかし、2023年2月21日の朝に自宅で再び倒れた。
「朝起きた師匠は奥さんと『よく寝れたわ』『ほんま? よかったな』などと、何気ない会話を交わしていました。師匠は習慣にしているストレッチのためにリビングに行きましたが、異変を感じた奥様が向かうと倒れていたそうです。『胸が痛い』と訴えて、奥様が急いで救急車を呼んだ時、師匠は『今までごめんな。ありがとう』と直接感謝の言葉を伝えました。その直後に師匠の意識はなくなっていったそうです」
大阪に住んでいた笑助氏は笑瓶さんの妻から連絡を受け、倒れた当日に都内の病院へと向かった。ICUで眠る笑瓶さんの回復を信じて、妻、所属していた太田プロの社長、マネージャー、そして笑助氏らで見守った。
「病院の方から『小康状態なので一旦お帰り下さい。何かありましたら奥様に連絡します』と言われ、夕方頃に病院を後にしました。次の日の朝、病院の先生から奥さんに『症状がよくならないのでECMO(体外式膜型人工肺)を外すので看取りに来てください』と連絡がありました」
連絡を受けた笑助氏も病院に到着。ICUには昨日と同じように眠り続ける笑瓶さんの姿があった。
「師匠に繋がれていた管が外され、先生が時計を見て朝8時頃に『ご臨終です』と。師匠の最期を奥さんと一緒に立ち会い、奥さんは泣きながら師匠の顔を撫でて、『笑助くんも触ってあげて』と。それまで僕はずっと手を握り、弟子が師匠の顔を触れるなんて……と躊躇しましたが、尊敬する師匠を前にたまらず、顔を触らせていただきました。いろいろな言葉を掛けたかったのですが、泣きながら『師匠、ありがとうございました』の感謝の言葉しか出てきませんでした」
生前、笑瓶さんは誰にも語ることなく、長年に渡って福祉施設への寄付を続けていた。笑瓶さんの死後、大阪府肢体不自由者協会の理事長は次にようにコメントしている。
《昭和57年から「渡士洋」の名前で毎月多額のご寄付をいただいておりました。その期間は、40年にもおよびました。(略)笑瓶さんが27歳という若さで、寄付をしようと思って、実際に寄付を継続されたことは、感謝しかないです》
笑助氏が振り返る。
「以前、師匠の奥さんから寄付していることを少しだけ聞いたことがありました。若い頃から社会福祉活動には興味があったみたいで、『自分は好きな仕事ができてありがたいけど、世の中にはそうじゃない人もいる。本当は自分がもっと足を運んでできたらいいんだけど、少しでも役に立てれば』と、40年間で一軒家を購入できるくらいの金額を寄付していたようです。師匠との付き合いは27年、もう増えることはありません」
最愛の師匠の旅立ちから1年半──。『お笑い芸人やからな、いつも幸せそうな楽しい顔しとかないかんで』。笑瓶さんの教えを守り、笑助氏は亡き師匠との思い出を笑顔で語り続ける。
後編では、テレビ局で弟子入りを志願した時の笑瓶さんの反応、笑助氏の運転中に師匠が激怒した日などについて語っている。
(後編に続く)