夫に「毒」、そして「拘束」…ロシア政府の圧力を受けながらも勇敢に反体制活動を続ける、ナワリヌイ氏の妻とその強靭な「覚悟」

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「プーチンを追い詰めた男」として知られるロシア・反体制派リーダーのアレクセイ・ナワリヌイ。彼の命懸けの獄中記『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』が世界19ヵ国で同時発売され、英米でAmazon第1位など、ベストセラーとなっている。

プーチン政権と汚職にまみれた政治家たちの「罪と嘘」を次々と暴き、動画配信したことで一躍注目され、クレムリンの「敵」に認定されたナワリヌイは、2020年に航空機内で毒殺未遂にあう。獄中生活をおくったのち、2024年2月、極北の収容所で殺害された。

夫の死の真相究明と、その遺志を引き継ぐ決心を表明した妻 ユリア・ナワルナヤ。

「ロシアに帰国することができたなら、大統領選に出馬します」

夫の生前は当局による自宅捜索で自身や子どもの携帯、PCを押収され、自らも神経剤で命を狙われた過酷な経験をしながら、なぜ彼女は怯まずにいられるのか。

「恨み言は決してこぼさず、私より急進的で、私以上にロシアの権力者を憎んでいる」とナワリヌイに言わしめたユリア。2人の子供の生活を守り、毅然として政治活動を続ける彼女の素顔に、共訳者の星 薫子が迫る。

『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』連載第11回

『大いに感銘を受けた「日本人神経外科医」は存在すら幻覚だった…“毒”を盛られたロシア反体制指導者が病院で体験した「向精神薬の恐ろしさ」』より続く

不屈の闘志

2024年2月、ナワリヌイの死亡説が流れた。家族が遺体の確認に向かうなか、ユリアはミュンヘン安全保障会議に登壇し、「夫の死が本当ならば、その裏にいるのはプーチンだ」と訴えた。この時点でナワリヌイとの対面は叶っておらず、メディアの嘘に慣れている家族は当初、死亡の知らせに半信半疑だったという。ユリアは時に涙を浮かべて演説を終えたが、決して諦めない闘志を瞳の奥に燃やしていた。

3月1日、ロシアで行われた葬儀には数千人が集結。ナワリヌイの両親に寄り添ったが、ユリアと2人の子供は国外に住んでいるため参列できなかった。葬儀のあと、夫の遺志をついで反政府活動を続けると宣言したユリアは、7月に人権財団(ニューヨークの非営利団体)の議長に就任。同月、ロシア政府はユリア・ナワルナヤを過激派と認定し、逮捕状を出した。

現在も国外で亡命生活を送っているユリアは、積極的にメデイアに登場し、プーチン政権の横暴を非難している。23歳になった娘のダーシャは2024年アメリカ大統領選挙のカマラ・ハリス陣営でボランティアをしている。ナワリヌイの不屈の精神は家族に受け継がれている。

ユリアはプレハーノフ記念ロシア経済アカデミーを卒業後、大手銀行ロスバンクで働いていたときに、トルコで社員旅行中のナワリヌイと出会う。90年代後半のトルコはロシア人に人気の観光地。新入社員のナワリヌイは毎年恒例の無礼講に大いに期待して参加。

ところがブッフェでたらふく食べ、大酒を飲むばかりの親睦会に辟易した彼は、オプショナルツアーのボウリングに参加する。「1998年のロシアでは、ボウリングはまだ珍しかった」という言葉からもわかるように、西側諸国との格差が色濃かった時代の話である。

銀行の社員旅行だったのか個人旅行だったのかは不明だが、ユリアもオプショナルツアーに参加。白いセーターを着た彼女にナワリヌイは一目惚れした。帰国後、すぐに同棲を始めた2人は、2年後に結婚する。

弁護士として働きながら、ナワリヌイは野党「ヤブロコ党」に入党し、除名され、企業の汚職に巻き込まれ、イェール大学に留学。政治活動にのめり込み、体制への憤りを募らせていく。

文字も読めないほど衰弱

度重なるクレムリンの圧力と妨害で、ナワリヌイはやがて反政府活動の主戦場をインターネット上に移す。プーチンはPCが使えず、「インターネットはCIAの陰謀」と決めつけていたため、その隙をついたのだ。不正を暴く動画は、やがて100万人が視聴する人気コンテンツとなり、自由を求める叫びが市民に広がっていく。

ユリアは初期から「政治家の妻になる覚悟ができていた」と語るように、銀行は早々に辞め、夫のサポートに回った。流暢な英語で外国メディアとの調整をするなど、「君とチェスをすると負けるから嫌だ」とナワリヌイが言うほど頭の切れる女性だ。毒殺未遂の際も、夫の搬送されたロシア・オムスクの病院に執拗に面会をかけあった。

2日後、彼女の訴えが国際社会の注目を集め、無視できなくなった政府は、やっと面会を許可する。その後ナワリヌイはベルリンの病院で治療を受けられることになったが、オムスクに留まっていたら、再び毒を盛られていたか、適切な治療を受けられずに亡くなっていた可能性は高い。

神経剤ノビチョクで認知機能が著しく低下したナワリヌイは、意識が戻ったのちも、ユリアが誰なのかわからなかった。病室に「ある女性」が現れ、朗らかに、時には笑い声をあげて身の回りの世話をしているのを、好ましいと思いながら眺めていた。

ユリアは夫の前で涙を見せたり、嘆き悲しんだりすることなく、ホワイトボードにハートマークを描いて帰って行く。ナワリヌイは文字も読めなくなっていたが、ハートだけは認識でき、ホワイトボードのハートを数えるようになった。

認知機能が戻り、杖をつきながら歩けるまでに回復したナワリヌイは、「ロシアでクリスマスを迎えたい。すぐにでも帰国したい」と願ったが、ユリアはやんわり諭す。「連中はまた毒を盛るかもしれない。万全の体調で戻ったら、仮にそうなっても生き残れるチャンスが少しはあるでしょ」と言って、帰国を1月17日まで延期させた。

ユリアが引き延ばした4カ月間が夫婦にとって、自由の身で過ごせる最後の時間となった。帰国後、アレクセイは入国審査のカウンターで身柄を拘束され、二度と解放されることはなかった。

アレクセイの収容先は、拘置刑務所、矯正労働収容所、と変わっていく。それぞれの施設によって、家族との面会や小包を受け取ることができる頻度は異なる。また、同じ施設でも懲罰棟に入れられた場合にはそのルールが変わる。

ユリアは新鮮なトマトやキュウリ、オリーブオイルなどを箱一杯に詰めて送り、検閲で夫の手元に届かないとわかっていても手紙を書き続けた。数ヵ月ぶりの面会に備えて準備をしていたのに、「懲罰棟に入っているから面会はなくなった」と告げられたこともある。

減り続ける体重

ナワリヌイの釈放を求める市民のデモが開かれるようになると、ユリアも街頭に立ち、逮捕された。その裁判中に刑務所から電話があったとき、ユリアは「5分間休憩をください」と落ち着いて裁判官に訴え、法廷の外から刑務所に折り返した。夫が限られた機会でかけてきた電話を無駄にしたくなかったのだ。

自分が2万ルーブルの罰金刑を科されそうになっていることや、心配する子供たちの様子は話さず、「こちらは万事順調。あなたは大丈夫?」と明るい声で夫の様子を尋ねている。

ナワリヌイがハンガーストライキで20キロも痩せたときは、回復期に食料を送ろうとしたが、収容所には「もう十分にあるから」と断られてしまった。その間、ナワリヌイは適切な治療を受けられないまま、体重が減り続けていた。

2022年3月、ナワリヌイは禁固9年の刑を下された。度重なる超法規的な裁判ののちに不当に科された長期刑だったので、夫婦は、これが事実上の終身刑なのだと悟った。面会のときにナワリヌイが「ここから出られない可能性は高い」と告げると、ユリアは「わかってる。私も同じことを考えていた」と静かに答えた。期待を持たせて妻を苦しめたくないナワリヌイを、一歩先回りしたユリアの気遣いだった。

ユリアは『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』の世界同時発売にあたって、読者に向けてこう言っている。

「アレクセイは暗殺未遂後に執筆を始め、獄中で最期を迎えるまで書き続けました。ここには彼の希望と闘いが記されています。彼は、祖国とロシアの人々を愛していました。私にとって、これは単なる本ではありません。彼が世界に向けた最後のメッセージであり、みなさんとわかち合える彼の心の一部です」

字幕:星 薫子

『「現実と夢の寄せ集めの記憶」…“毒”を盛られ、九死に一生を得たナワリヌイ氏が体験した、想像を絶する過酷な「試練」』へ続く

「現実と夢の寄せ集めの記憶」…“毒”を盛られ、九死に一生を得たナワリヌイ氏が体験した、想像を絶する過酷な「試練」