京都御所(写真: けんじ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は道長が記した「御堂関白記」を紹介します。

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道長が継続的に書き続けた日記

藤原道長は、995年頃から日記をつけていたと言われています。途中、中断を挟みながらも、1004年以降は継続的に書き続けていました。

この道長の日記は『御堂関白記』と呼ばれています(998年から1021年、道長33歳から56歳までの日記が現存しています)。

日記の名称の由来は、道長が晩年に法成寺(平安時代を代表する寺院でしたが、何度か火災にあい、鎌倉時代末期に廃絶)を建立したことで、自身が「御堂殿」「御堂関白殿」と呼ばれたことによります。

今では『御堂関白記』として広く知られていますが、「入道殿御暦」「入道殿御日記」「御堂御日記」「御堂御暦」「御堂御暦記」などと呼ばれたこともありました。

これらの名称のなかに「御暦」との言葉があります。これは「1年分を、春夏を上、秋冬を下とした2巻からなる具注暦の隙間に書いた暦記が36巻存在」したと考えられていることに関連するものでしょう。

この具注暦の日付と日付の空白部分に、道長は日記をつけていました。

道長は空白部分に、3行から4行ほどの文章を書き記しています。そこに書ききれない場合は、紙の裏側へと続きます。

日記のなかには「この日記は披露(公に発表すること)するべきではない。早く破却するべきものだ」(1010年)との一文もあります。道長は、自分の日記を後世の子孫に残そうとは考えてはいなかったのです。

朝廷で行われる数々の仕事や儀式。それらは、作法や手順が事細かに決められていました。そして、儀式や仕事を過去(昔)の手順通りに、間違うことなく行うことが重視されていました。

先例(以前からの慣例)通りに儀式などを進めることが、朝廷ではよしとされてきたのです。家柄により、朝廷での地位が決まりますし、その地位によって担当できる儀式(仕事)も異なります。

そのため、貴族のなかには、自分の子孫のために日記をつけていました。子孫がスムーズに仕事ができるようにするためです(例えば、平安時代中期の公卿・藤原師輔は、日記をつけておくことを子孫に言い残しています)。


法成寺跡(写真:ogurisu_Q / PIXTA)

しかし、道長はそうではなく、備忘録として日記をつけていたのでした。ここが『小右記』(藤原実資の日記)や『権記』(藤原行成の日記)と、道長の日記の大きな違いでした。

道長は自分の日記を後世に残すつもりはありませんでしたが、その願いはかないませんでした。意図に反して、摂関家の最高宝物として、現代に至るまで、大切に保存されてきたのです。時の摂政・関白でも簡単に見れるものではなかったようです。

道長の自筆本が残っている

そして道長の孫・師実の時に、1年分を1巻とする写本16巻が成立しています。

『御堂関白記』の凄いところは、古写本だけでなく、道長の自筆本が残っていることです。

あまり知られていませんが、これは日本最古、いや世界最古の自筆日記なのです。欧州にも朝鮮にも中国にも、これほど古い時代の日記は今に残っていません(ちなみに『小右記』は平安末頃の写本、『権記』は鎌倉期の写本があります)。

自筆日記がそのまま残っているのですから、なかには、誤記や抹消、書き換えなどもあります。しかし、そこから道長の精神を垣間見ることもできるのですから、自筆本『御堂関白記』の貴重さと魅力は大きいと言えるでしょう。

日記から書いた人の性格がわかることもあります。では、道長はどのような人だったのでしょうか。日記からは、道長は感情を露わにすることが多かったことがわかります。その感情の1つは怒りです。

藤原顕光(関白・藤原兼通の嫡男)は家柄はよかったのですが、無能の大臣として有名でした。自分勝手に儀式や仕事を進めようとしたり、他人の忠告も聞かず、人々からも軽蔑されていました。

そんな中、1010年1月に敦良親王(一条天皇の第3皇子。母は道長の娘・彰子)の、誕生50日目のお祝いが行われます(五十日の祝)。

その儀式の際、顕光は、天皇の御前の食膳を取ろうとして、それを打ち壊すという粗相をしてしまうのです。

これには、道長も「無心」(分別がない)と日記に、呆れとも、怒りともとれる想いを記しています。

呆れた感情も日記に残す

1012年には、大臣以外の官を任ずる朝廷の儀式(除目)に遅刻することもあった顕光。普通ならば「すみませんでした」と謝ることでしょうが、顕光は違いました。

「これまでにも、大臣の遅刻の際はこのようなものだった」「花山天皇のときの源雅信と藤原為光の例を自分は見たのだ」と、儀式に遅刻したことを、「先例」らしきものを持ち出して、正当化しようとしたのです。

道長はそのような先例はないとして、顕光のことを「目の前の非難を避けるために、ないことでも作る人だ。時々、このようなことを言う人だ」とまたまた呆れて日記に書いています。

ちなみに、顕光は何でもかんでもやりたがるところもあったようです。1016年1月、顕光は、逢坂・鈴鹿・不破の3関を固め警備体制を敷く「固関・警固の儀」の担当者になりたいと願い出て、許されます。しかし、またもや、儀式の進行でミスを連発しました。

これを見た道長は「無理矢理に上卿(儀式を担当する公卿)を務め、多くの失態をして、ほかの公卿に笑われるとは。大馬鹿の中の大馬鹿だ」と顕光を罵倒したとされます。このエピソードは小右記に書かれている話です。

道長は陰でコソコソと人の悪口を言うのではなく、本人の前でもしっかり叱っていたようです。そうした意味で、サッパリした性格だったのではないでしょうか。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)