「西武2位指名」大商大・渡部聖弥の父親が明かす…息子の「才能」と「育て方」

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始まりは「バント職人」

24日のプロ野球ドラフト会議で西武から2位指名を受けた大商大の渡部聖弥外野手。広角に長打を打てるだけでなく、守備、走力でも高い評価をされているが、渡部の魅力はそれだけではない。

16日の関西六大学秋季リーグ最終戦の1点ビハインドの無死1、2塁の9回裏の打席。ヒットを放てばリーグ通算120安打の新記録だったが、みずからの意思でバントを選択。いかなるときもチームを最優先に考えることができるのだ。

そこにも繋がる子育てで大切にしたことを、父親の泰明さんが明かしてくれた。

「その最終戦の試合後、聖弥が『記録はどうでもよかった。勝つことだけを考えた。打って(走者を)還せる自信はあったけど、一死2、3塁を作ったほうが勝ちに近いと思った』とコメントしているのを見て、ちょっと感動しちゃいました。野球小僧が少し大人になったかなって」

息子の成長に声を弾ませながら、泰明さんは聖弥が少年野球チームで試合に出始めたころを思い返していた。

「小学1年生でチームに入って、3年生から試合に出してもらうようになったんです。学年を分けてチームを編成したりしないので、6年生に交じって一生懸命やっていました。打つほうもちょこちょこは打てていたんですけど、力では体格のいい上級生には及ばないのでバントが多かったんです。

たしか2番センターとかで、送りバントの場面がよく回ってきて、それを確実に決めていた。そのころはチームの中でバント職人って言われていたんです。だから、この前も『さすがバント職人』ってLINEを送りました(笑)」

小学4年生になると強肩を買われてピッチャーを始める。

「肩はかなりよかったと思います。小学生だと球の速い子がピッチャーを任されますよね。中学まではピッチャーとキャッチャーがメインで、ショートに入ることもありました。親バカかもしれませんが、身体能力には恵まれていたと思いますし、野球センスというところでも他の子と違うように見えました」

小学6年生のときにはフリーバッティングで100mほど打球を飛ばして、長年チームを見ているコーチが「ここまで飛ばした子は見たことがない」と目を丸くしたこともある。

体育座りができない太もも

中学生に上がっても、その存在は際立っていたという。聖弥が通った広島・府中市立第一中学校の3年時の軟式野球部監督だった榮谷嶺教諭は「ずば抜けていた」と証言する。

「足の速さにしても、投げるボール、打った打球の速さも他の子とは比べようがなかった。打球の飛距離なんて、倍くらい飛んでいたんじゃないですかね。ファールでしたけど、軟式でも球場のフェンスを越えたりしましたからね。ピッチャーで投げているときは130km/hくらい出ていたと思いますし、ショートを守れば抜けたと思うような打球もさばいてアウトにする。

体つきもすごくて、特に太ももの筋肉。あんな太い生徒はあとにも先にも見たことがありません。学校の集会で生徒は体育座りをするのですが、聖弥だけは太ももがパンパン過ぎてできないんです。足や膝が崩れていると教員が注意しに行くんですけど、できないものは仕方がないですよね(笑)

普段の部活の練習では『しんどいな〜』みたいな様子も見せるんですけど、陰ではかなりやっていたはずです。みんなの前では見せたりしませんでしたけど、手のひらのマメとか、相当、練習していないとできないものでしたから」

中学1、2年生のときに監督をしていた水井洋教諭は今も目に焼きついているシーンがあるという。

広陵関係者がうなったプレー

「中体連の大会の成績で言えば2年生の夏の中国大会ベスト4が一番いいんですが、聖弥がいろいろな高校の方から目をかけてもらえるようになった一つのきっかけがこの大会でした。ショートを守っていて、三遊間のすごく深いゴロに追いついて、ノーステップで1塁へノーバウンド送球したんです。広陵の関係者の方も見ていて、『あの子ええな』と声をかけてもらったんですけど3年生だと思っていた。『まだ2年生です』と返すと、驚いていましたね。

性格はどちらかというと大人しいほうだったと思いますが、優しくて友だちを大事にする子で、みんなに慕われていましたよ。先頭に立ってというタイプではないですが、『せいちゃん、せいちゃん』と、いつも友だちに囲まれていました。

学校での生活態度もきちっとしていましたし、勉強も一生懸命で、その動機づけが明確だったのが印象に残っています。『生徒指導を受けたり、提出物や宿題をやらないで補習にでもなると野球の練習時間を取られてしまう』と言うんです。目標に向かってやるべきことができる子でした」

そこは父・泰明さんの教育の賜物といえそうだ。

「野球だけということではないのですが、自分で考えて、自分の言葉で説明できるようになってほしいと思っていました。ですので、『試合で打てなかったけど、なんでだと思う』とか、『プロ野球選手になるんだから、今どうしたらいい』とか、どんどん問いかけをして、考えさせて、自分なりの答えを話させるというのは意識的にやっていました。

高校を決めるのも『プロに行くには甲子園に出られるところがいい。甲子園出場に一番近いのは広陵』と考えて、家を出て寮生活になる覚悟も早めにできていたと思います。

実際、寮生活が始まるといろいろ大変なこともあったようですが、私たち夫婦のほうが『野球に子供を取られた』なんて話をして寂しさを感じていたと思います(笑)」

土日の休みがつぶれても…

サポートも全力で行っていた。水井教諭は「練習試合や大会に行くとなれば車を出してくれたり、審判をやっていただいたり、積極的に役割を担ってくれるご家庭でした」と感謝しながら振り返る。

「正直、最初に聖弥が『野球チームに入りたい』と言ってきたときは、土日の休みがつぶれてしまうと内心では戸惑ったところもありました。土日は普通に子供を連れて、どこかに遊びに行きたいじゃないですか。でも、本人がやりたいことでしたからね。それに3歳上のお兄ちゃんも一緒にチームに入ったんです。

私は野球は小学校のときしかやっていなかったのでド素人です。わからないこととかはインターネットでいろいろ調べたりしました」

聖弥が小学校高学年になると防球ネットを買ってきて、家の庭に張って夜は親子でティーバッティングをするようになるが、そこでも非凡な才能を示していたという。

つづく記事「『西武2位指名』大商大・渡部聖弥外野手を育てた父が語る、子育ての『信念』と『コツ』」では、父・泰明さんの子供を育てる上での信念、みずからの理想を超えた聖弥の一面を伝える。

「西武2位指名」大商大・渡部聖弥外野手を育てた父が語る、子育ての「信念」と「コツ」