昨今、都内中心に「中学受験」人気は過熱気味です(写真:Fast&Slow/PIXTA)

こんなタイトルの記事ですが、これを書いている私は中学受験反対派ではありません。私は長年、学習塾や単位制高校を運営していますが、実際、中学受験をやってよかったねという子どもたちにたくさん出会ってきましたから。

中学受験のいいところ

その子たちにとって何がよかったかっていろいろあるのですが、やはり受験を経て中学校に入っているから、自分の通う学校に誇りを持っている子が多い。また、私立中は公立に比べて生徒を型にはめない自由な校風を持った学校が多いし、ぶっちゃけ先生の質も高いことが多く、さらに家庭環境も似た子が集まりやすいので、学校が子どもそれぞれの適性に合っていると実感しやすい点などが挙げられます。

中学受験と高校受験、どちらのタイミングの受験を選ぶかというのは、子どもの学校生活の中身や、勉強との向き合い方を選ぶことに直結します。

中高一貫校は一度入ってしまえば6年間入試がありませんから、その点は気楽です。人生で最も輝かしく、一方で心身の変化も大きく不安定になりやすいこの時期を自分のペースで過ごすことができるのは、子どもにとって大きなギフトでしょう。

中だるみする心配をされる方も多いのですが、むしろ中だるみこそが中高一貫校のギフトなんですから仕方がありません。自分の欲望を耕しながら少しずつ将来を見定めていく時期ですから、焦ってはいけないのです。

高校受験のいいところ

一方で、公立中に進学して高校入試を頑張ることにもメリットがあります。

まずは何といっても小学校時代を最後までのんびり過ごせることです。人間が本来的に自由な心で過ごせる時期は子ども時代だけです。子どもは「いま」を生きる存在であり、大人のように過去の出来事を思い出して意気消沈したり、将来のためにいまの自分を犠牲にしようという考えを持っていないからです。

ルソーは「真に自由な人間は、自分ができることしか望まず、自分が望むことを行う」(『エミール』)と述べましたが、子どもはまさにそういう存在であり、大人のように自分の能力を超えた欲望を持って、それによって苦しんだりすることはないのです。

小学校時代は理性よりも感受性を育むべき時期であり、そんな子ども時代を中断させて行動を規範化し、勉強を強制するのはよほどのことです。幼い子どもに勉強を課す大人は、そのことから目を逸らしてはいけません。

また、高校入試を頑張った子どもたちに、高校入学後も勢いがあるのは確かで、中高どちらのタイミングでも受け入れもある学校では、高校における学年上位は高校入試組が席巻していることも珍しくありません(もちろんそうでない高校もあります)。

高校入試で高い倍率をくぐり抜けて入った子たちは、親との二人三脚で中学受験を乗り越えた子どもたちと比べても、自らを律して勉強することに長けている子どもが多いですから当然です。

また、中高一貫校では公立中で習わない高校内容を先取りしたり織り交ぜたりしながら指導できるメリットがあるのですが、結果を見ると必ずしも公立を卒業した後に合流した子どもたちが不利だとは限りません。

受験勉強には「向き不向き」がある

私の新刊(2024年10月刊行)の『「学び」がわからなくなったときに読む本』の中で古賀及子さん(エッセイスト)と話したことなのですが、中学受験というのは率直に言って子どもたちによる「地頭競争」みたいなところがあります。「地頭」という言葉はセンシティブなので、私は子どもたちの前では使わないようにしていますが、だからといってそれはこの事実自体を否定することにはなりません。

実際のところ、中学受験というのは、大谷翔平選手や藤井聡太棋士はスゴイねと盛り上がるのと同じ感覚で、あの子は勉強ができてスゴイねと盛り上がる感じがあります。

だから中学受験というのは、受験に適性が高い子、受験を面白がれる子のためのものであるという一側面は否定できないでしょう。もちろんこれは、努力が新たな可能性を生むことを否定するものではありません。才能がない子はチャレンジしてもムダという話でもありません。しかし、受験勉強に向き不向きがあるのは間違いありません。

こういう話をすると、とたんに暗い顔になる大人がいます。あからさまに反発される方さえいらっしゃいます。でも、待ってください。そういう方は、まずご自身がせまい価値観の中でしか物事を捉えられていないことを問題にすべきです。中学受験に不向きな子どもだからといって、そこにいったい何の問題があるというのですか。それは大人が問題をでっちあげているだけなのです。

子どもにとって最悪なこと

子どもが中学受験に向いていないことは、子ども自身の価値に影響しません。これは決してきれいごとではありません。中学受験が当たり前という環境にいると、そこらへんがバグってしまう。中学受験のヒエラルキー上位者が輝かしい人間に見えてしまうけれども、そんなわけがないのです。

そんなわけがないのに、成績上位者は人間的にエラいという価値観を親が持つだけでなく、子どもに与えてしまう。成績がよいあの子に対してあなたは何なのという視線を向けることで、半ば無意識にそういうことをやってしまう。これが最悪なのです。

親は自分の子どもの価値を誰よりもよく知っているはずです。何度も言いますが、これはきれいごとではありません。子どもの価値は中学受験をはるかに飛び越えた先にあります。受験がうまくいかないだけで、親は子どもの人生が行き詰まったような気持ちになることもありますが、これも一時的な気の迷いにすぎません。人間が幸せになる要素なんて、複雑すぎてまったく把捉できないのに、そんなに急ぎ足で何を達成しようとしているのでしょうか。

とはいえ、親としてはそれほど乗る気でなかったのに、周りの友達に影響されて子どもが中学受験をしたいと言い出すこともあるでしょう(このパターンは本当に多いです)。そんなときには、多くの親は子どもの希望を叶えるためにいっしょに頑張ってみようとするでしょう。その気持ちは尊いものです。

子どもとしばらくやってみて、この子は中学受験で輝くタイプではないと気づいたとしましょう。そんなときに親ができることは、子どもの受験をできるだけよい経験にしてあげるような方向づけを行うことです。具体的には、複数校の受験をして、全ての学校に受からないということがないようにすることで、結局公立に行くことになったとしても、子どもがやってよかったと思えるようなプロセスと段取りを組んであげることです。中学受験において、そのための情報収集は親の務めです。

ないがしろにされる「最大のリスク」

とにかくよくないのは、中学受験を通して子どもに苦手意識を植え付けること、そして、勉強嫌いにしてしまうことです。子どものその後のことを考えると、中学受験ではこのリスクこそを一番に気をつけるべきなのに、そこを蔑ろにしてしまう家庭が後を絶ちません。

子どもは日々変化する存在ですから、小学校時代の苦手意識はまったくあてにならず、中学以降にいくらでも改善の余地があります。本人が苦手と思い込みさえしなければ、何度でも出会い直せるからです。それなのに親は簡単に「あなたは算数が苦手ね」なんてことを平気で言って、子どもに苦手意識を植え付けてしまう。そうやって一度植え付けられた苦手意識は中学・高校に進学しても子どもを縛りつけます。新たにチャレンジしようと思っても、どうしても消極的になって思考が働きません。

この苦手意識は、学生時代どころか大人になってもその人を縛り続けます。大人は普段意識しないようにしていますが、これを読んでいるあなたも子どもの頃の苦手意識がいまもどこかにくすぶっているはずです。大人になっても成仏しない苦手意識が子どもの頃に植え付けられたものであることを考えると、小学校時代の勉強との出会い方が人生の輪郭を作る側面があることに気づいて驚かされるばかりです。

親が「不安な現実」をでっちあげている

都内の中学受験の過熱ぶりなどを見ていると(今後は少し落ち着いてくる気がしていますが)、場合によっては中学受験を「しない」勇気がいかに必要かと実感します。親から自身の能力を超えた要求をされることで不幸になる子ども(これもルソーが『エミール』で指摘したことです)が後を絶ちません。あるがままで満足することもできたはずなのに、親がでっちあげた「不安な現実」の中で息をすることを強制された子どもたちが、いまたくさんいるのです。

重要なことは、選択を過度に特権化しないことです。選択に期待しすぎる人は、うまくいかなくなったときに、それを選択のせいにしがちです。しかし、人はどんな選択をした後でも、それを肯定して進んでいく力を持っています。その力を信じてください。最終的には「これでよかった」と思えるのですから、心配する必要はありません。

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(鳥羽 和久 : 教育者、作家)