高卒プロ契約も「3年で結果出ないと満了」…“Jリーグバブル”の陰にあったプロ生活の不安【前園真聖コラム】
キャリア初期は「高級車を買って遊びに行くなんて、とても考えられない生活」
Jリーグは発足当時の「Jリーグバブル」がたびたび取り上げられる。
どのスタジアムも超満員でチケット争奪合戦が激しく、また選手たちは派手な車に乗り、夜の繁華街で遊んでいたというように伝えられるのが定番だ。だが、本当に選手たちは「浮かれて」いたのだろうか。その時代に現役スター選手として活躍した元日本代表MF前園真聖氏に当時の心境や何が凄かったのか聞いてみた。(取材・構成=森雅史)
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1993年にJリーグがスタートし、その後、とても華やかな世界があったとよく報じられます。たしかにそういう面もありました。ですが、実際はそういう華々しい世界だけではなかったことも語り継がなければいけないと思います。
僕が横浜フリューゲルスに入団したのは、1993年の開幕から1年前でした。実際にプロになってみるとやはりとても厳しく、1年目は試合に出ることができませんでした。その当時、「高卒は3年、大卒は2年で結果が出ないと契約満了になる」という噂があって、1年目に出番がなかったことですごく焦りました。とにかく試合に出ることだけを考えて毎日過ごしていたことを覚えています。
その頃の監督はのちの日本代表を率いる加茂周監督で、当時はまだ日本に導入されていなかった「ゾーンプレス」をいち早く取り入れていました。口数が多い人物ではなかったのですが、とにかく先進的で、いろいろなことを試していらっしゃいました。
Jリーグが開幕した1993年も、例えば開幕戦などはベンチにも入っていませんでした。でもそこからやっと少しずつ出番をもらえて、少しずつ活躍することができるようになりました。それでもまだ自分のプロ生活は3年で終わるのではないかと不安がつきまとっていましたね。
だから高級車を買って遊びに行くなんて、とても考えられない生活を送っていました。1994年になってやっと先発になり、それで一安心したのですが、それでも気を抜くことができない日々を過ごしていたと思います。
今になると私生活の派手な部分が取り上げられますが、実はその当時のリーグそのものがすごく輝いていたのを忘れてはならないと思います。強豪国の現役代表選手がいろいろなチームでプレーしていたのです。
森保監督も着目した“昇格組”町田を取り巻くスポンサーのバックアップ体制
横浜フリューゲルスで言えば、1995年にMFジーニョ、ボランチのセザール・サンパイオ、FWエバイールというブラジル代表トリオが加入しました。彼らの練習での集中力と技術の高さ、正確さを目の前で見られたことは良かったと思います。
中盤のジーニョ、サンパイオに認めてもらわないとパスが出てこないので、なるべく彼らとコミュニケーションをとって信頼してもらおうとしていました。
1996年は前半戦ですごく調子が良く、シーズンを半分終えた時点で首位でした。ところが1996年は1シーズン制で、それまでの2ステージ制だったらファーストステージ優勝ということでチャンピオンシップに進めたのですが、それはできませんでした。
結局、優勝した鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトと勝利数は同じだったのですが勝ち点は届かず(当時は90分勝ち、Vゴール勝ち、PK戦勝ち、Vゴール負け、PK戦負けで勝点が違った)、残念ながら3位で終わりました。横浜フリューゲルスはすごくいいチームでしたが、天皇杯で2回優勝(1993年度、1999年度)しただけで終わったのは、もったいなかったと思います。
先日、日本代表の森保一監督がJ1初年度のFC町田ゼルビアが優勝争いをしていることについて、「多くの投資をしているチームは勝っていくということは、クラブの価値を上げる、選手の価値を上げる、Jリーグの価値を上げる」と、スポンサーのバックアップ体制について称賛していました。
今は多くの資金が集まっているヨーロッパのリーグに名選手が集まっていますが、また日本もたくさんの各国現役代表選手が集まるようになってほしいと願っています。(前園真聖 / Maezono Masakiyo)