ドラマ『坂の上の雲』再放送人気で”注目”が集まる、伝説的名著『手榴弾入門』の”ヤバすぎる中身”を公開する…!

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NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の再放送が人気を博している。日露戦争の迫力ある戦闘シーンを覚えている視聴者も多いだろうが、そのリアルさの再現に貢献した専門家の一人が、「砲術指導」を担当した旧陸軍兵器研究の大家・佐山二郎氏だ。佐山氏といえば、老舗軍事雑誌「丸」の版元・潮書房光人新社が“異例復刊”をしてベストセラー化し、紀伊國屋書店新宿本店でフェアが開催されるほど人気になっている「日本軍教本シリーズ」の編者としても知られる。

日露戦争といえば、手榴弾戦が各国の観戦武官らに注目され、第一次世界大戦で「近接戦闘の華」となるが、そうした中で佐山氏が刊行した『手榴弾入門』(光人社NF文庫)が、いままさにその歴史と各国の手榴弾の特徴を余すところなく描いているとして注目されているのだ。

読書界に反響を巻き起こす日本軍教本シリーズの“番外編”として、これまでほとんど注目されなかった軍事技術史を掘り起こした「知る人ぞ知る名著」を一部抜粋・再構成してお届けする。

日本軍は当初、牛肉や鮭の空き缶に火薬を詰め込んだ

手榴弾の「先祖」は中国・宋の時代(11世紀)に発明され、文永の役(1274年)に元寇軍は攻撃に爆発物を使用し、これを日本では「てつはう」と名付けた。

欧州で初めて手榴弾を戦闘に用いたのは1450年頃だ。1853年に勃発したロシアとフランス・イギリス・オスマン帝国などが戦ったクリミア戦争では大いに手榴弾が使用されたが、19世紀後半における欧州各戦役には手榴弾は使用されなかった。

1904年の日露戦争旅順攻囲戦において日本軍は対壕作業により徐々に前進し、近いところでは敵とわずか数メートルまで近接した。日本軍の将兵は勇躍敵陣に突入し肉弾戦を挑んだが多大な損害を受け撃退された。

ここにおいて日本軍は近接戦闘手段として手投爆薬を創意した。これは牛肉や鮭の空き缶に火薬を詰め緩燃導火索を付けたもので、これに点火して敵線に投げ込んだ。

この攻撃が意外に効果を挙げ、旅順攻撃に一進歩をもたらした。日本軍が手榴弾を使用したので露軍もこれを真似し、手榴弾戦は世界軍事界の注目を集めた。各国の観戦武官による報告書の中には日露両国の各種急造手榴弾を紹介したものがある。その結果やがて来る世界大戦において近接戦闘の華となった。

露軍の手榴弾は「えんどう豆」「くるみ大」に分裂!

露軍は旅順において榴霰弾および榴弾の頭部を使って炸薬と導火索を有する手榴弾を急造し、次いで炸薬を有し木蓋から爆裂信管が突出した手榴弾を使った。

これは日本軍の抛った手榴弾の破裂しなかったものの弾底を利用した。導火索は1秒間に18ミリ燃焼するので、6〜7秒の飛行後に敵が手榴弾を投げ返す前に、爆裂する程度の長さとした。

爆裂に際し手榴弾はえんどう豆ないしくるみ大の小片に分裂し、発生するガスも害毒を生じる。

手榴弾による損傷は1〜2パーセント

ただ、日露戦争での手榴弾の殺傷効力については実験成績の確実なものはない。

日露戦争においても手榴弾の効力は一定しなかった。統計上よりわが軍武器のため露軍が受けた一部の損傷を類別すれば、歩兵が損傷した数9434の中で、手榴弾によるものは96、約1パーセントにすぎなかった。

沙河では露軍の歩兵負傷者1966のうち手榴弾による傷者は39、約2パーセント。奉天では露軍の歩兵負傷者2475のうち手榴弾による傷者は48、約1・9パーセントだった。

手榴弾による物質上の効力は大きくないことが分かる。

しかしその轟然たる爆音と凄絶な戦友の死傷とは敵の心胆を寒からしめ、大いに士気を挫折するであろう。日露戦争中の手榴弾の効果は一にここにあったといえる。ゆえに操典に手榴弾を投擲後直ちに突撃すると示されているのは、敵の士気が恢復しないうちに攻撃しなければ、損害は大きくない敵は数分の後には士気を恢復し、依然としてわが軍に抵抗するからである。

「総じて手榴弾の用法は甚だ拙い」

満州事変や日中戦争では、手榴弾に対する十分な知識が欠如したがゆえに起きた作戦上の失態や事故が相次いで報告されている。

歩兵第二十三聯隊満州出動史(昭和7年12月〜8年10月)によると、夜襲の際敵の逆襲に対して手榴弾の不発のためその威力を発揮できなかっただけでなく、かえって自分を危険に陥らせた。

具体事例としては、夜戦において高い城壁上より約30メートル位の土壁の陰に密集した敵に対し、投擲法が不十分であったため、大きな損害を与えることができなかったことは遺憾である。満蒙では市街村落は通常堅固な囲壁を有するのみならず、家屋は通常レンガ造りであるので、手榴弾は有効な兵器である。

なかんずく投擲距離の増大、窓内に対する投入法、囲壁内の敵に対する投擲法を十分教育することを要する。この教育は平素非常に不十分であることを痛感する。

総じて手榴弾の用法は甚だ拙い。用法に熟練していない結果使用する好機があっても使用しないことがある。

敵軍兵の遺体から手榴弾奪取、高粱畑が不発要因にも

戦場のリアルな実態も報告されている。

陸軍技術本部の「支那事変兵器蒐録」第二・三輯(昭和13年2月)によると、補給が困難であり使用法に成熟する必要がある手榴弾の威力は敵軍に及ばない。支那軍の棒付銑手榴弾は日本軍に対しはるかに優秀である。その証拠としてわが兵は支那兵の遺体から競って棒状手榴弾を蒐集し、これを唯一の近接戦闘兵器としているが、補給がないので見す見す突撃を不成功にし、敵に逆襲の機会を与えつつある。

断尾式の手榴弾は効力が極めて僅少である。その理由は不発が非常に多いことにある。即ち土地に作物があるために信管の打撃が弱く、投擲に際し十分上方に向って投げる必要があるために、遠距離まで届かず、しかも投擲が困難である。

第二十師団兵器部からは、壷形手榴弾を廃止し、曳火手榴弾専用とする方がよい、としている。壷形手榴弾は高粱畑あるいは山地などにおいて不発が多く、一般に不評の声が高く、鹵獲手榴弾を賞用している。

死んだふりして手榴弾を投げる欺瞞作戦も

手榴弾の重要性が認められた日中戦争では、中国軍兵士が手榴弾を使う際のクセや特殊作戦が明らかになった。

◆支那軍は陣地にいる兵が分隊長の号令などにより一斉投擲をするようで、投擲の直前一時的に敵は概ね同時に頭を下げることがあるので、この瞬時を巧みに利用して疾駆突入する着意が必要である。

◆支那軍は突撃にあたりわれとの距離が概ね40メートルの線に近迫すれば、突入前われに向い手榴弾を投擲するのを通常としているようである。

◆防御における対手榴弾戦闘法は主義において攻撃の部と同様であり、敵に手榴弾投擲の機会を与えないことと、敵の投擲を無効にすることに帰着する。

◆市街戦、部落戦で囲壁上、屋上あるいは家屋の上層窓より敵に対し連続投下する。

◆攻防を問わず、敵の射撃などに対し仮死を装い、敵兵が近接すれば不意に乗じ手榴弾を投擲するような方法もしばしば実行する。殊に斥候あるいは歩哨などのような少人数で行う戦闘において、このような欺騙行動を好んで採用している。

◆支那軍は手榴弾を常に投擲する戦法を採るほか、さらに手榴弾を利用してこれを敷設し、地雷的に使用することがある。

各種教本で叫ばれる「手榴弾教育」

とりわけ日中戦争以降、「手榴弾教育」の充実が重要視されるようになる。

昭和17年刊行の「歩兵操典詳説」初級幹部研究用第1巻には、手榴弾教育として、手榴弾の投擲は突撃と連繋し、目標の状態、距離に応じて投擲姿勢を選択することが以下のように明記されている。

手榴弾の投擲法には小銃射撃姿勢と同様に立投(たちなげ)、膝投(ひざなげ)、伏投(ねなげ)があり、投擲距離は軍装した立投で30メートル、膝投および伏投で二20メートルを標準とする。

目標の五メートル以内に落達させることが求められた。

さらに連載記事『日本軍「密林戦サバイバル本」が“まさかの復刊”で話題、その「生々しすぎる中身」を見よ…!』では、伝説の日本軍教本シリーズの中身をさらに紹介しよう。

■佐山二郎(さやま・じろう)

昭和22年、岡山市に生まれる。拓殖大卒業。旧陸軍の兵器・器材を中心とした軍事技術史を研究。著書に「陸軍火砲の写真集」、共著に「日本の大砲」(出版協同社)、共同執筆に「近代日本戦争史」(同台経済懇話会)などがある。刊行中の光人社NF文庫「復刻版 日本軍教本シリーズ」では「山嶽地帯行動ノ参考 秘」「密林戦ノ参考 迫撃 部外秘」「輸送船遭難時二於ケル軍隊行動ノ参考 部外秘」の編者をそれぞれ担当。

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