昭和天皇がご覧になった“沿線案内図”とは 先の大戦中は軍事機密として制作中止に
昭和天皇の時代、お召列車を利用する機会といえば、戦前では「陸軍特別大演習」といった軍事にかかわる地方への移動がほとんどだった。そうした列車の中では、車窓を楽しむといった雰囲気ではなかっただろう。戦後になり、車窓を楽しむ余裕が出てくると、お召列車に乗車中の昭和天皇に車窓風景を楽しんでもらおうと、沿線の立地や景色などを紹介した「鳥瞰図(ちょうかんず)」を、鉄道側で用意するようになった。では、こうした”沿線案内図”としての鳥瞰図はいつから用意されたのか、現在も用意されているのか。その実情に迫ってみたい。
※トップ画像は、1947(昭和22)年8月の東北6県巡幸の際に新潟鉄道局が制作した鳥瞰図=絵図/宮内公文書館蔵
鳥瞰図を初めて手にしたのは
昭和天皇が、皇太子でいらした1914(大正3)年3月のこと、弟宮の秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王と高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王を伴い、明治天皇山陵をはじめ皇室陵墓への墓参と海軍施設を見学のため、京都府と広島県南西部の江田島(現在の江田島市)方面へ向かわれた。しかし、江田島では病気が流行していたため、立ち寄りを取り止め、京都へと戻られた。
京都滞在中には、平等院鳳凰堂(宇治市)などの施設をいくつか見学され、その移動に京阪電気鉄道を利用した。その車中では、鳥が空から見下ろすように沿線風景が描かれた絵図が掲載された「京阪電車御案内」をご覧になった。この絵図は「鳥瞰図」と呼ばれるもので、裕仁皇太子であった昭和天皇はこれを大変気に入られ、東京へ持ち帰ったそうだ。
この鳥瞰図を描いたのは「吉田初三郎」という、のちに有名な“鳥瞰図絵師”になった人物である。この京阪電気鉄道の鳥瞰図は、吉田絵師にとっても最初の作品だったという。これをきっかけに、その後は鉄道省から日本各地を走る路線の鳥瞰図制作の依頼を受けるなど、全国各地の鳥瞰図を描いている。
全国巡幸で再び手にした鳥瞰図
鳥瞰図は、容易に地形や港湾施設が見てとれるため、先の大戦中は”軍事機密に反するもの”とした軍部の判断により、制作を見送るようになったという。昭和天皇が、戦時中に乗車されたお召列車の中で、「鉄道沿線図」をご覧になった記録も残されてはいるが、それが鳥瞰図であったかはわからない。
1947(昭和22)年8月に行われた東北6県巡幸で、運輸省新潟鉄道局が鳥瞰図の”山形・秋田編”を制作し、お召列車の車中に備えた。この絵図には、秋田、山形、福島、新潟の4県を走る路線が描かれており、8月14日(秋田)から17日(福島)の間、乗車されたお召列車の中で昭和天皇がご覧になられたものだろう。この絵図の作者は、鳥瞰図絵師の吉田初三郎氏の作ではなく、「文治作」とだけ裏表紙に記されていた。
いまも鳥瞰図は制作されているのか
鳥瞰図が最後に制作されたのは、1987(昭和62)年5月に佐賀県で走ったお召列車に備え付けられたものといわれる。平成の時代になっても、御料車を使用したお召列車は何度か運行されているが、長距離の移動は飛行機や新幹線となり、乗車したとしても距離が短いことが多く、結果、乗車時間も短くなった。そのため、鳥瞰図の必要性がなくなったと伝え聞く。私鉄では、昭和の時代にごくわずかだが制作されている。
現代では、「Google Earth(グーグルアース)」などで容易に地形を確認することができる時代である。時代の移り変わりとともに、お召列車での鳥瞰図の役目は終わりを迎えたのかもしれない。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。