江口のりこさんが『しゃべくり007』に出演。19歳で上京してからの下積み時代を語る「高校へは進まずに女優を目指して」
2024年9月9日放送の『しゃべくり007』に女優の江口のりこさんが登場。19歳の時に「劇団東京乾電池」の試験に受かり、地元・兵庫県から上京した江口さん。家賃2万円台の木造アパートに住んでいたという下積み時代について語ります。今回は、江口さんの幼少期から今後の活動について伺った『婦人公論』2019年7月23日号の記事を再配信します。******話題のドラマ『半沢直樹』で強烈な国土交通大臣役を演じる江口のりこさん。ある時は中国なまりの日本語を喋る中華料理店の店主、ある時は地味で真面目な校閲者など、独特なキャラクターを演じ分ける江口さんだが、女優になってからの20年、この仕事一本でアルバイトもせずに続けてこられたという。その理由は──(構成=上田恵子 撮影=木村直軌)
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高校へは進まずにアルバイト生活を
出身は兵庫県の明石市です。きょうだいは兄2人と姉と私、そして妹の5人。賑やかな家庭で、毎日暗くなるまで外で遊ぶ活発な子ども時代でした。
学校に通ったのは中学までで、高校には進学していません。自分のなかに「もうこれ以上勉強したくない」という気持ちがあって。一番上の兄も高校に進まずに働いていたし、父も「行きたくないなら行かなくてもいい」という考えでした。
代わりにやりたかったのは、お金を稼ぐこと。我が家にはお小遣いという制度がなかったので、私は早くから「お金を稼いで、自分で生活して、自分がやりたいことをしたい」と思い続けてきました。とにかく仕事を得て自活したかった。そして役者になりたいという気持ちは、すでにこの頃には持っていました。
中学を卒業して春休みに入ると、すぐに仕事探しを開始。駅前をうろうろしながら、「アルバイト募集」という貼り紙のある店に行き「働かせてもらえませんか?」と交渉するのです。
初めての職場はうどん屋さん。でも、そこでのアルバイトは1ヵ月しか続きませんでした。お金を稼ぐために働いているのに、ふとした瞬間に「なんでこんなことしているんだろう」と、気持ちが落ちてしまうのです。うどん屋さんは早々に辞め、今度はカラオケ屋さんで働き始めました。
そこでの仕事は、受付や掃除、ご飯作りなど、レジ以外の仕事全般。レジを任せてもらえなかったのは、信用されていなかったからなのかな(笑)? 時給は800円台。自分の中で750円は許せなかったので、どんな仕事でも820円のラインだけは死守しようと決めていました。
今の自分を見られるのは恥ずかしい、という思い
カラオケ屋さんで働くうちに、またもや「なぜ私は朝から晩まで、こんなことやっているのだろう」と思うようになり、結局そこも2ヵ月半で退職。
次に始めたのがレストランのウェイトレスで、これは3ヵ月続きました。理由は、常連さんの中にすごく素敵な土木作業員の男の子がいたから。勇気を出して「好きです」と書いた手紙を渡したものの、その現場の工事期間が終わって彼らが来なくなり、思いは成就せず。それを機に、私も店を辞めてしまいました。わかりやすいですね。(笑)
地元の友達と会って話したり、遊んだりということは一切していませんでした。中学の同級生の多くは高校に進学し、私は自分で選んでアルバイトをしていたわけですが、「今のどっちつかずの自分を見られるのは恥ずかしい」という思いは常に自分の中にありました。
その後も、駅前のファッションビルの洋服屋さん、レコード屋さんなど地元の店を転々としたものの、どれももって1〜2ヵ月。しかも母にバイト代の一部を渡し、一番上の兄にお金を貸したりしていたため、働いている割に貯金が増えないんですよ。次の仕事が決まるまでの間、自分でもちょこちょこ使っていましたし。16歳から18歳の終わりまで続いたバイト生活ですが、最終的に手元に残ったのはほんの2万円程度でした。
地元を離れたのは19歳の時です。「劇団東京乾電池」の試験に受かり、バイトで得た2万円を持って、入所式に出席するために上京しました。奇しくもその日は私の誕生日。「これでやっと自分の好きなことができる。やったー!」という思いでいっぱいで、東京で食べていけるかどうかなどという不安は一切感じなかったですね。
新聞配達員として住み込みで働いて
子どもの頃、NHKのBSで映画を観ることは大きな楽しみでした。その延長で「将来、演技の仕事をするにはどうしたらいいんだろう?」と考えるようになり、「そうだ、どこかの劇団に入ればいいんだ」とひらめいたのは中学生の時。それ以来、折にふれ、気になる劇団や劇作家さんの作品をチェックするようになりました。
なかでもいいなと思ったのが、柄本明さん率いる「劇団東京乾電池」です。もともと私は、正面きって「汗かいてます!」みたいな熱い舞台が苦手。どうしても気恥ずかしくなってしまうんですよ。その点、乾電池には押しつけがましいところがなく、「ここなら私でもやれるかも」と思ったのです。
柄本さんのことはよく映画やドラマで観ていましたし、劇団の作家である岩松了さんが書いた本も図書館で借りて読んでいました。当時『あぶない刑事』に出ていたベンガルさんも好きでしたね。
念願叶って東京乾電池の研究生になり、上京して最初にしたことは仕事を探すことでした。家賃節約のために住み込みで働ける新聞販売店に面接に行ったところ、飯田橋の専売所にすんなり採用が決定。従業員用のアパートで生活しながら、新聞を配達する日々が始まりました。
仕事は規則的で、まず朝の4時に起きたら自転車で3〜4分のところにある専売所に向かいます。その日自分が配る新聞に折り込みチラシを入れて、部数を数えカゴに入れて配達。途中に中継ポイントがあるので、そこでまた新聞を積んで、ぐるっと回って。専売所に戻ってくるのは6時半頃だったでしょうか。
そこには福島から出てきた、私と同い年の女の子がいて、賄いの朝食を作ってくれるんです。それを食べてアパートに戻り、午後2時くらいまで寝て、2時半にまた専売所に行きます。
5時過ぎに夕刊を配り終えて専売所に戻ると、今度はお弁当が用意してあるのですが、それを食べるには1日につき数百円を払わないといけない。私はそのお金を払うのがもったいなくて、お弁当は食べずに朝の残りをちょっとだけもらって帰っていました。
劇団の授業は月曜と木曜の週2回、夜6時から9時まで。授業がある日は早めに夕刊を配り、そのまま自転車で30〜40分かけて稽古場のある幡ヶ谷に行きます。自分のペースで、しかも1人でできる新聞配達の仕事は私にぴったり。お給料は多い時で11万円くらいだったと思いますが、当時の私には十分でした。
アルバイトをせずにやっていくと決めて
新聞配達の仕事は1年続けました。新聞奨学金の60万円をもらったタイミングで正式な劇団員になれたので、芝居に専念するために辞めたのです。研究生になる時に借りた、劇団の入所金12万円を販売店の所長に返したので、手元に残ったのは48万円。アパートを借りてもおつりがくる金額で、初めての大金にワクワクしたことを覚えています。
そこからはもうきまったアルバイトをせずにやっていくと決めて、お金がなくなると1日限りの交通量調査の仕事を受けたり、仲のいい映画製作会社で領収書の計算を手伝ったりしながらやりくりしていました。
定期的なバイトを入れてしまうと、急なオーディションに対応できなくなるんですよ。女優でやっていくためのアルバイトなのに、それで本来の仕事を逃すなんてばかばかしいですから。ただ、何だかんだでうまくまわっていて、蓄えが尽きるとCMが決まってまとまったお金をいただけたりして、結構やっていけるものだなと思いました。
アパートのグレードも少しずつ上がり、新聞配達の後に住んだ部屋は風呂なしの3畳一間で2万7000円。ここに5年くらいいて、次がいよいよお風呂付きの6畳間。ガスコンロも2口あり、この頃ようやく自炊するようになりました。それまでは菓子パンとかかじってましたから。
その次に引っ越したのはきれいなマンションでしたが、青梅街道沿いで車の音がうるさくて2年で退去。その次の次の次が今住んでいるところです。横になると窓から空しか見えなくて、朝は太陽の光で目が覚める明るい部屋。ものすごく気に入っています。
最初から、女優として食べていけると思っていた
私は地元にいる自分が嫌で、楽しいことなんかひとつもなくて、自分の居場所を求めて東京へ行きたい、でもお金がないってずっと思ってて。劇団の研究生になって、東京に行こうと思った時には2万円しかなかったけど、いざ一歩踏み出してみたら何とかなった。だから覚悟さえ決まれば、どんな状況でも動けると思うんです。動くまではいろいろ考えて怖くなるけど、やってしまえば案外なんとかなる。
女優として食べていけるかと不安になったことは一度もありません。もう他の仕事はしないと決めていましたし。今だって一生やっていける自信があるわけではないですが、お金がないならないなりに、あるお金で暮らせるように、家賃も食費も抑えて生活を合わせていけばいいだけの話。
ただ最近は忙しすぎて「誰か助けて!」というのはありますね。去年なんて、夜中に泣いたりしてましたもん。「なんでこんなことしてるんやろ。こんなはずじゃない」って。この時期は全然楽しくなかったです(笑)。
でも仕事って案外そんなものなのかもしれません。みんな自分の希望で好きな仕事を選んでいるはずなのに、職場に着いた瞬間から帰ることを考えていたりして。「お金がもらえる」とか、「一日の仕事を終えて、ようやく家に帰れる」とか、「あと2日行ったら会社が休みだ」とか、「今日はこの人がいるから頑張ろう」とか。
そういう日々の小さな楽しみを見つけることが、働く楽しみになるんじゃないでしょうか。褒められることや成果が出ることって、なかなかないですしね。どんな仕事だって、全部が全部楽しいわけではないですから。
仕事をしていて一番楽しいなと思うのは、好きな役者さんや監督さんとご一緒できている時。結局は人ですね。「この人がいるから今日は楽しいな」とか「観る人が喜んでくれるから頑張ろう」とか、そういうことでしかないような気がします。
私が女優をしていることに対する家族の反応ですか? 何もないです。父はもう亡くなっているのですが、母からも「この前のドラマ観たよ」と連絡をもらったことは一度もありません。そもそも東京に行くと言った時も「あっそう」という感じでしたから。
きょうだいもそれぞれの生活で忙しく、私の活動に興味を持っている暇はないようです。特に姉はアメリカで主婦をしているので、日本の芸能人のことなんて全然知らないんじゃないかな。一度、妹に芝居を観せてあげようと招待したら、1幕で帰りましたからね、美容院の予約があると言って。二度と呼ぶかと思いました。(笑)
私は19歳の誕生日に上京して劇団に入り、現在も籍を置いています。ひとつの劇団に入って辞めてまた別の事務所に入ってという役者の人が結構いるんですが、私は初めてお世話になったところに今もいる。これってものすごく幸せなことだと思うんです。自分、よくぞこの劇団を選んだなって。
今後演じてみたいのは男の役でしょうか。楽器を演奏する役もいいですね。練習が楽しそうなんで。でもこういうことを言うと本当にそういう依頼が来たりするんですよね。すいません、適当に言っただけなんで聞き流しておいてください。(笑)