新しい研究成果によって、歴史教科書の記述が変わることは珍しくない。歴史作家の河合敦さんは「鎌倉幕府の成立が『イイクニ(1192)つくろう』から『イイハコ(1185)つくろう』に変わったという話をよく聞くが、これはウソだ。いまでも多くの教科書に1192年説が掲載されている」という――。

※本稿は、河合敦『逆転した日本史 聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Korkusung
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Korkusung

■邪馬台国は畿内にあった? それとも九州?

ある日、客員教授をしている多摩大学に出勤すると、職員から「佐賀県の男性から、邪馬台国が大和(奈良県)にあった根拠について河合先生のご高説をお伺いしたい」という電話があったと連絡を受けた。これを聞いて、すぐにピンときた。

その数日前、私が出演したBS-TBSの「諸説あり!」(MC:堀尾正明・吉川美代子)が放映された。「邪馬台国はどこにあったのか」と題して諸説を紹介する内容で、堀尾さんに「河合先生は邪馬台国がどこにあったと思いますか」と尋ねられたとき、「どちらかというと、大和の可能性が高いと考えています」とコメントしたのだ。

佐賀県には、吉野ヶ里遺跡という巨大な弥生時代の遺跡があり、そこを邪馬台国だとする有力な説がある。おそらく電話をしてきた男性は、わざわざ佐賀県の名を出しているほどだから、熱烈な邪馬台国九州説の支持者で、私の発言を腹立たしく思って連絡をとろうとしてきたのだろう。

■100年以上続いている古代史ファンの論争

「あまりに大人げない人だ」と思うなかれ。こと邪馬台国の所在地については、明治時代の京都大学(内藤虎次郎の畿内説)と東京大学(白鳥庫吉の九州説)の対立から始まって、いまも古代史ファンの間で畿内か九州かをめぐってホットな議論が続いているのだ。

その歴史は、野球の巨人VS阪神よりずっと古い。だからテレビで邪馬台国を取り上げると視聴率が良く、歴史番組では鉄板なのである。実際、『諸説あり!』の邪馬台国回も好評で、その後、何度も再放送された。

ちなみに、いまも邪馬台国の所在地がわからないのは、すべて『魏志』倭人伝のせいなのである。倭人伝は、邪馬台国について記した唯一の書だが、魏から邪馬台国に至るルートがいい加減で、記述のとおりに進んでいくと、日本列島を通り越して海上に達してしまう。

■日本史教科書は畿内説を推しはじめた

邪馬台国は、女王・卑弥呼が30もの小国をしたがえており、日本国家の成り立ちを知るうえで極めて重要だから、邪馬台国論争はすべての日本史教科書に掲載されている。けれど近年、そんな教科書の記述に変化が現れてきた。これまでは畿内説と九州説の両論を平等なかたちで併記していたが、次のような文章が登場したのだ。

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍、2018年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院、2017年)

明らかに畿内説(大和説)に偏ってきているのがわかるだろう。そして、その根拠が纒向遺跡であることが理解できるはずだ。

■鍵はヤマト政権の発祥地・纏向遺跡

纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部、三輪山の麓に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの地域(面積は約2.7平方キロメートル)。域内には箸墓古墳など初期(3世紀半ば)の巨大な前方古墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権の発祥地だと考えられてきた。

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓、奈良県桜井市箸中)(写真=© 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院/国土航空写真/Wikimedia Commons)

ヤマト政権は大和政権(倭王権)とも呼ばれる、日本初の全国政権である。大王(おおきみ)(のちの天皇)を中心とする豪族の連合政権であり、やがて朝廷と呼ばれるようになっていく。この纒向遺跡に出現した巨大な前方後円墳は地方へ拡大していくが、それがヤマト政権の全国平定の過程だと考えられている。

そんな纒向遺跡で、スゴい発見が相次いでいるのだ。

同遺跡内の箸墓古墳は、昔から卑弥呼の墓だとする伝承があったが、古墳周辺から出た土器の付着炭化物を、国立歴史民俗博物館の研究グループが放射性炭素年代測定法で調べたところ、驚くべき結果が出た。西暦240年から260年という数値をはじき出したのだ。これはまさに卑弥呼の活躍していた時期と合致する。

■卑弥呼時代の古墳や建物など「都市」の痕跡

しかも同博物館の春成秀爾名誉教授は「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と発表、考古学界はもとより世間も騒然となった。その前後には、纒向遺跡から卑弥呼時代の大型建物跡や濠跡なども発見された。

また、纒向遺跡からは、九州から関東におよぶ各地域の弥生土器や朝鮮半島製の壺も出土する。そのうえ、田畑を耕す鍬(くわ)(農具)はほとんど発見されず、土木工事に用いる鋤(すき)が大量に出てくる。つまり農村ではなく計画的につくられた「都市」であり、ここに大きな政治権力があったと考えられるのだ。

纒向遺跡辻地区 建物群(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons)

そんなわけで近年がぜん、邪馬台国畿内説が注目されているというわけ。

きっと九州説を支持する人々は面白くないだろうが、もちろんこれで畿内説に確定したわけではない。今後、新発見や新説の登場によって「やはり九州に邪馬台国があった」となるかもしれない。だからあまり目くじらを立てないで、諸説を通観して古代のロマンを楽しんでほしいと願う。

■「イイハコつくろう」に変わった! はデマ

「みなさん、鎌倉幕府の成立は、いまの教科書では1192年ではなく1185年に変わっています。イイクニつくろうではなくて、イイハコつくろうなんですよ!」

たまたまテレビのチャンネルを回したら、ちょうどある歴史学者がバラエティ番組で得意げに芸能人に語っていた。それを聞いた芸能人たちは「えーっ」と大げさに驚いた。

一緒にテレビを見ていた妻が「またやってるね」といい、私はそれを聞いて苦笑いした。

何度このフレーズをパクられたことだろう。日本で最初に鎌倉幕府の成立が「イイハコ(1185)」に変わりつつあるとバラエティ番組で話したのはこの私だ。いまから19年前、日本テレビの「世界一受けたい授業」の収録でのことだ。

ただ、相当なインパクトがあったのだろう、このネタは毎年のようにテレビやラジオで語られ続けている。でも、はっきりいってこの話、ウソなのである。

■「1185年」説も「1192年」説も定説ではない

武家政権としての鎌倉幕府が成立した年については、現在も定説なんてないのだ。

1185年は源頼朝が平氏を倒し、家臣を守護・地頭として全国に配置する権利を朝廷から獲得したり、兵糧米を徴収できるようになったから、武家政権が成立した年として有力であることは確か。けれど、まだ決まったわけではない。

それは、日本史の教科書をきちんと読んでみればすぐわかる。いまでも多くの教科書に1192年説が掲載されているからだ。

「1185年は実質的な武家政権の誕生、1192年は源頼朝が征夷大将軍になったことで、名実ともに鎌倉幕府が成立した年」、そんなふうに2段階に書いてあるのだ。

また、東京書籍の教科書『新選日本史B』(2017年)では「鎌倉幕府の成立時期」というコラムをもうけて、6つの幕府成立説を取り上げ、まだ1185年説が定説でないことを暗に示している。

■中世史の大家が「1221年」説を唱えた理由

ちなみに幕府の成立年については、個人的な思い入れがある。

河合敦『逆転した日本史 聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える』(扶桑社)

私は青山学院大学文学部史学科に入ったが、大学1年生のとき「史学概論」という歴史学に関する必修科目を受けた。このときの担当が中世史の大家で名誉教授の貫達人先生だった。貫先生は言った。

「鎌倉幕府の創立は、1221年と覚えなさい」

その言葉に驚いたが、言われてみれば納得だ。この年、西国を支配する朝廷の後鳥羽上皇が挙兵して幕府に敗れ、幕府は西国にも勢力をのばし、名実ともに全国政権となったからだ。でもそうなると、幕府をつくったのは源頼朝ではなくなってしまう。

なぜなら頼朝は1199年に死んでしまっているからだ。まるで笑い話だ。

そんな貫先生の授業で、いまも忘れられない講義がある。

イケメンでモテモテの平貞文という平安貴族がいた。そんな彼にも本院侍従(ほんいんのじじゅう)と呼ばれる女性はなびかなかった。彼女も絶世の美女だった。何度もアタックしたが相手にされない。そこで、あきらめるために貞文がとった行動が彼女の箱を奪うことだった。

■平安貴族が食べたものはなんだったのか…

樋箱(ひばこ)という携帯トイレである。当時の貴族女性は便意をもよおすと、屛風などをひきまわし、侍女に樋箱を持ってこさせ、そこで用を足していた。貞文は「樋箱の中のモノを見れば、さすがにいくら惚れた女でも嫌いになれるだろう」と考えたのだ。

そして侍女から箱を奪い取り、そっと中を開けてみた。「いい匂いがした」という。箱の中の液体を飲み、浮いている物体を食べてみた。するとなんと、おいしく感じたのである。

じつはこれ、本院侍従があらかじめこうしたことを予測し、食材を使って尿や排泄物をつくっておいたのだという。そこまで話したとき、急に貫先生が私に向かって質問した。

「あなたはこの話を信じますか? このおしっことうんこは、ニセものだったと考えますか?」

■いい授業とは、あとからじわりと沁みるもの

にわかに指名されたので、私は慌てた。しかも質問の意図もよく理解できない。だからとりあえず私は「逸話が残っているのですから、事実なんじゃないですか」と答えた。

すると貫先生は、私に向かって「あなたはまだ、本当の恋をしたことがありませんね」と言ったのである。

そう指摘され、私はムッとした気分になったが、あとになって、先生の言わんとしたことが理解できた。おそらく貫先生は「本当に人を愛すれば、相手の排泄物であっても汚いとは思わない。それほどすべてを好きになれるものなんだよ」そう教えたかったのだ。

だから私も、学生たちによくこの話をする。良い授業とは、このようにあとからじわりと心に染みてくるものなのだろう。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)