『光る君へ』で求婚した宣孝。当時3人の女性と子をなし、長男は紫式部と2歳違い…わずらわしくなった紫式部が送った歌とは【2024年上半期BEST】
2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年06月18日)******現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。
【書影】古記録で読み解く平安時代のリアル。倉本一宏『紫式部と藤原道長』
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派手で明朗闊達
藤原宣孝は長徳元年(995)に筑前守の任期を終え、その年の内には帰京しているはずである。
その後、右衛門権佐(えもんのごんのすけ)に任じられた(『権記』)。その宣孝から、長徳3年(997)が明けると、紫式部に求婚の書状が届いた。
宣孝はそれ以前から、「新年になったら(越前に安置された)唐人を見に行こう」と言っていたのであったが、越前にやっては来ないで、「(春には氷が溶けるように)あなたの心も、とざしていずに私(宣孝)にうちとけるものだと是非知らせてあげたい」と言ってきたのである。
それに対し、紫式部は、
春なれど 白嶺(しらね)のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな
<春にはなりましたが、こちらの白山の雪はいよいよ積って、おっしゃるように解けることなんかいつのことかしれません>
と言って送ったのであった。すでに旧年中に宣孝からの求婚はあったのであろう。
宣孝の長男隆光は、長保元年(999)に29歳となっており(『枕草子』勘物<かんもつ>)、紫式部の2年前の天禄2年(971)の生まれである。
隆光が仮に宣孝20歳の時の子とすると、宣孝はこの長徳3年にはすでに46歳となっている。
曾祖父の定方(さだかた)は右大臣にまで上り、醍醐天皇の外戚であった人で、父為輔は権中納言にまで至っている。
また、道長の嫡妻である源倫子(りんし)とも縁戚にあたる人物である。
紫式部とは又従兄妹にあたり、為時とは元同僚で、懇意の仲であったはずである。
宣孝の性格
有能な官人であり、賀茂祭(かものまつり)の舞人をしばしば務めるなど、宣孝は雅な一面も持っていた。
長保元年(999)の賀茂臨時祭調楽(かもりんじさいちょうがく)では神楽の人長(にんじょう)を務め、「甚だ絶妙である」との評も得ている(『権記』)。
『藤原宣孝記』という日記も記録している(『家記書目備考(かきしょもくびこう)』)。
『西宮記(さいきゅうき)』『祈雨日記(きうにっき)』に天元5年(982)から長保2年(1000)までの逸文(いつぶん)六条が残されているが、いずれも右衛門権佐として、著だ政(ちゃくだのまつりごと。「だ」はかねへんに大。囚人にあしかせを付け、検非違使<けびいし>が鞭打つまねをした公事<くじ>)、神泉苑(しんせんえん)の祈雨御修法(きうみしほ)、市政(いちのまつりごと)といった公事を丁寧に記録しているものである。
その一方では、派手で明朗闊達、悪く言えば放埒な性格でもあったようである。
永観2年(984)の賀茂臨時祭では御馬を牽(ひ)く役を務めずに召問され、除籍の処分を受けているし(『小右記(しょうゆうき)』)、寛和元年(985)に丹生社(にうしゃ)に祈雨使(きうし)として発遣(はっけん)された際には大和国の人の為に小舎人(こどねり)および従者を陵轢(りょうれき)され、そのためか殿上人の簡を削られて昇殿を止められ、官も追われそうになっている(『大斎院前御集(だいさいいんさきのぎょしゅう)』)。
この時は文名の高い大斎院選子(せんし)内親王の女房たちから慰めの歌を贈られるなど、その人気のほどが知られる。
正暦元年(990)にも「きっとまさか『身なりを悪くして参詣せよ』と御嶽の蔵王権現(ざおうごんげん)はけっしておっしゃるまい」などと言って隆光とともに、「紫のとても濃い指貫(さしぬき)に白い狩襖(かりあお)、山吹色のひどく大げさな派手な色の衣」といった装束で金峯山詣(きんぶせんもうで)をおこなったことが、『枕草子』第115段「あはれなるもの」に描かれている。
また、長保元年8月18日には、宣孝の所領である大和国田中荘(たなかのしょう)の預である文春正(ふみのはるまさ)を首魁とする賊党が、大和国城下郡東郷から朝廷に上納される早米使の藤原良信を殺害し、随身していた物を強盗するという事件を起こした(『北山抄(ほくざんしょう)』裏文書)。
以前から集団で殺害・強盗・放火をおこなっていた連中とのことであるが、これなども宣孝のいわばいい加減な性格がもたらしたものとも言えよう。
わずらわしくなった紫式部は…
そういった性行の一環でもあろうか、当時宣孝は、すでに子を生(な)した女性が3人いるにもかかわらず、近江守(おうみのかみ。源則忠か)の女(むすめ)にも求愛していたらしい。
それなのに「あなた以外に、二心はない」などとつねに言ってくるというので、わずらわしくなった紫式部は、
(写真提供:Photo AC)
みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十(やそ)の湊(みなと)に 声絶えなせそ
<近江の湖に友を求めている千鳥よ、いっそのこと、あちこちの湊に声を絶やさずかけなさい。あちこちの人に声をおかけになるがいいわ>
と言って送った。また、海人が塩を焼き、投木(なげき。薪のこと。「嘆き」と掛ける)を積んだ様子を描いた「歌絵」とともに、つぎの歌も送っている。
紫式部が描いた絵が残っていれば、是非とも見てみたいものである。
よもの海に 塩焼く海人の 心から やくとはかかる なげきをやつむ
<あちこちの海辺で藻塩を焼く海人が、せっせと投木を積むように、方々の人に言い寄るあなたは、自分から好きこのんで嘆きを重ねられるのでしょうか>
このような返歌をするほどに、二人の仲は接近していたという解釈がもっぱらである。
いよいよ女が優位に立っていて、多情をなじるのも女の側の傾斜の表われであるとのことである(清水好子『紫式部』)。そんなものなのであろうか。
手紙の上に朱を振りかけて…
これに対し宣孝は、手紙の上に朱を振りかけて、「涙の色を見て下さい」と返したが、紫式部はつぎの歌を返すのであった。
くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば
<あなたの紅の涙だと聞くと一層うとましく思われます。移ろいやすいあなたの心がこの色ではっきりわかりますので>
この歌につづけて、「相手の人(宣孝)は、ずっと以前から、人の女(しっかりとした親の娘)を妻に得ている人だったのだ」という注が記されている。
この注がどの時点で記されたものなのか、知る由もないが、いずれにしても紫式部は、たとえ宣孝と結婚しても、自分がどのような立場に置かれるか、はっきりと認識していたことであろう。
※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。