新聞記事が空間に浮かび上がる(筆者撮影)

Apple Vision Proの日本発売(2024年6月28日)に合わせて日本経済新聞が専用アプリ『日経空間版』をリリースしたのをご存知だろうか。

筆者もそうなのだが、新聞、雑誌など、紙メディアを作っていた人間にとっては、テキスト情報のウェブメディア化には残念に思っている部分もあった。

紙の新聞や雑誌には記事の位置、大きさ、フォント、タイトルのデザインや配置、写真の大きさなど、“テキスト+写真”だけではない、多くの情報が含まれていた。

記事のデジタル化に新しい提案を行う『日経空間版』

しかし、デジタルニュースになるとすべてのニュースが等質な“テキスト+写真”になってしまう。何よりも伝えたい大切なニュースも、いち早く伝えたい短い記事も、深く読み込んで考えてほしい長めの記事も、美しい写真を大きく見せたい記事も、すべて同じサイズの文字と写真の記事になってしまう。Apple Vision Proで読む『日経空間版』は、そんな記事のデジタル化の問題を解決する新しい提案だといえる。

とはいえ、Vision Proは日本円で約60万円もする”高嶺の華”だ。日経は、まだ決して大きなユーザーベースが見込めないこのマシンに、専用のアプリをどういう意図で開発したのか。『日経空間版』を開発した日経の社内エンジニアであり、プロダクトマネージャの猪飼大志氏と、開発を支えた慶応義塾大学 大学院生の尾崎正和氏に話を聞いた。


プロダクトマネージャの猪飼大志氏(左)は「「日本でのVision Proの発売日にApp Storeに出したいと思って準備しました」と語った。隣は開発を支えた慶応義塾大学大学院生の尾崎正和氏(筆者撮影)

『日経空間版』ならではの機能を模索

昨年6月のWWDC(世界開発者会議)でVision Proが発表されてから、早いタイミングで日経空間版の開発が決まった。実機に触れない段階からシミュレータで開発を進め、去年の夏、開発者向けにVision Proの実機でテストを行えるデベロッパラボがスタートした時点で参加。実機でのテストも行った。

Apple Vision Proデベロッパラボ
https://developer.apple.com/jp/visionos/labs/

ちなみに、『日経空間版』の名称は、『日経電子版』というビッグブランドに呼応したもの。「新聞は紙で読むもの」と思っている人が多い時代に開発された『日経電子版』は多くの購読者を得て、今や同社の大きな収益源になっている。『日経空間版』も、そんな大きな存在になっていくことを想定したネーミングだ。

それにしても日経は、まだ決して大きなユーザーベースが見込めないVision Pro専用のアプリを、どういう意図で開発したのだろうか。

「最初は『まず試しに作ってみよう』ということで開発をスタートしました」と、猪飼氏。「すでにiPhoneやiPad用の日経電子版アプリはありましたし、バックエンドのサーバーも同じものが利用できます。なので、『どんな体験を作れるか?』という部分にフォーカスして開発しました」

Vision Pro用のアプリはiPhone、iPad用のアプリとベース部分を共用する。例えばiPad用『日経電子版』の紙面を空間に浮かべて見るだけなら、特段新たな開発を行わなわずとも実現できる。

「Vision Proならではの体験とは何か?」ということが開発のテーマとなった。

俯瞰と深掘りを両立させた体験

猪飼氏は「せっかく作るならVision Proに最適化したいと考えた」と語る。空間コンピューティングの考えを、いかに上手く取り入れるかにフォーカスした。

「スマホやタブレット、パソコンは、ディスプレイという枠の中にコンテンツを表示しますが、Vision Proは空間全体を使えます」と尾崎氏。「空間コンピューティングとして視野全体にコンテンツを配置できる。そこが大きな違いです。これまでのデジタルコンテンツでは、俯瞰してコンテンツを選ぶのが難しかった。空間コンピューティングによって、俯瞰と深掘りを両立させられる。そこが大きな特徴です」

日経空間版には、『Paperium (ペーパーリウム)』と『StoryFlow (ストーリーフロー)』の2つの表示が用意されている。


ペーパリウムを立ち上げたところ。その日の新聞の全紙面が空間に広がる。近寄って見ることもできる(筆者撮影)

『ペーパーリウム』は、“ペーパー”と“プラネタリウム”を組み合わせた造語。紙の新聞を視界一面に広げたように表示する新たなUIを提案している。そこからVision Proの視線入力機能を利用して、読みたい紙面に目線を合わせ、タップ(空間で人差し指と親指を、くっつける操作)すると、記事の見出しやテキストを拡大表示できるようになっている。一覧性、紙面での位置やサイズ、フォントなど、紙の新聞の特性を見事に再現しながら、デジタルならではの利便性を付加している。


特定の記事をタップすると、その記事が拡大表示される(筆者撮影)

ちなみに、公開された日経空間版を体験した人からは、「『ページ』ではなく、『見開き』ごとに表示してほしい」という要望が数多く寄せられたそうだ。もちろん、見開き表示は今後の機能として計画に入っているが、『Vision Pro発売日のローンチ』を優先するため搭載を見送った。今後のアップデートで実装予定だという。

『ストーリーフロー』は、スマホのような画面表示を、読者を取り囲むように表示。空間上でタップした記事の関連記事群を人工知能(AI)を利用して、空間上に時系列に並べて表示する機能。関連記事や過去記事などを、自在に引き出して扱える感覚は、デジタルならではの機能だといえる。


関連記事を空間に表示する『ストーリーフロー』(筆者撮影)

これらの記事のメタデータは過去の日経電子版で蓄積されたものを使っているが、それだけでは過去記事を『いい感じ』に出せなかったそうで、日経空間版のために新しい条件を付加しているとのこと。

これぞ空間コンピューティング体験

もう1つ圧巻なのが、『「地震列島」日本』という立体コンテンツだ。

目の前に日本列島が浮かび上がり、過去100年に起きた地震が、その位置と震源に加えてサイズを反映し、時系列に表示される。いかに多くの地震がこの日本列島に沿って起こってきたのか、Vision Proの機能を十全に活かしたコンテンツといえる。2011年3月11日の東日本大震災が大きく広がる瞬間には、まさに息を飲む思いがする。震源の位置、意外な浅さ、その凄まじい規模感が一目瞭然だ。


100年間に起きた13,680の地震を、時系列に表示する『「地震列島」日本』。Vision Proで体験すると立体的に空間に浮かぶように表示され、その中に立ち入り、のぞき込める(筆者撮影)

今後、こうしたコンテンツを追加していく計画だという。将来の計画については教えてはもらえなかったが、この技術を使えば、さまざまな情報を見やすく、理解しやすく表示できそうだ。筆者の想像だが、株価の推移や、他銘柄との比較なども、空間コンピューティングで扱うことができれば、新たなトレーダーのスタイルが誕生するのではないだろうか?

visionOS 2ローンチでアップデート

尾崎氏は、中学2年生からプログラミングを始め、個人としてさまざまなアプリやアート作品を産み出している。

アップル製品に強く衝撃を受けたのが中学2年生の時。お正月のラッキーバック(福袋、現在は販売していない)で、iPod touch(iPhoneと同じOSを搭載したiPod=現在は製造中止)を手に入れ、そのユーザー体験に惹かれたという。以来、アップルのすべてのソフトウェア開発の指標となっているHuman Interface Guidelinesなどのドキュメントを深く読み込んでいる。


アメリカでの発売日にニューヨークまでVision Proを買いに行ったという尾崎氏(筆者撮影)

今回のVision Proも個人で所有してるものは、アメリカでの発売日にニューヨークまで単身赴き、購入した(現在は日経にも開発用に複数台のVision Proがある)。わざわざニューヨークまで行ったのは、同日発売なら東海岸のほうが早く発売されるからという筋金入りのアップルマニアだ。ちなみに、このニューヨークのFifth AvenueのApple Storeに訪れたアップルのティム・クックCEOを尾崎氏が撮った写真が、日経電子版の記事に使われたそうだ。

今秋リリース予定のvisionOS 2に向け、新機能を活かしたアップデートも準備しているという。Vision Proを体験する機会があれば、『日経空間版』を覗いてみてほしい。メディアの未来を実感できるかもしれない。


Vison Proを装着した猪飼さんと尾崎さん。さまざまな機能やコンテンツを、自ら楽しみながら開発しているという印象を受けた(筆者撮影)

(村上 タクタ : 編集者・ライター)