鮫島彩がサッカー人生で経験した頂点とどん底の振れ幅「逆にそれがないと物足りない」
今季引退・鮫島彩インタビュー(3)
東京電力女子サッカー部マリーゼに所属していた鮫島彩にとって、今もなお心に深く刻み込まれている2011年の東日本大震災。周囲の協力でアメリカ移籍を果たし、さらに日本代表で世界を制し、なでしこジャパンブームを引き起こした。その後フランスで研鑽を積み、マリーゼ(※震災の影響で休部)の移管先がベガルタ仙台レディースに決まると迷うことなく帰国した。鮫島の再スタート――しかし振り返ると、それはさらなる波乱万丈なキャリアのスタートでもあった。
鮫島彩インタビュー。長いサッカー人生を語ってもらった photo by Hayakusa Noriko
――ベガルタ仙台レディースに移籍した際に、鮫島さんの「ここから始めないと何も始まらない」という言葉に、覚悟を感じたのを今でも覚えています。
W杯優勝やロンドン五輪のあとだったので、当時なでしこリーグ2部のチームへの移籍には正直、周囲からはいろんな声がありました。でも私自身はあの時のメンバーと、どうしてももう一度やりたかったので。その後再度アメリカへ移籍することになったけど、結局ケガでそれも流れてしまって、一時期無職になりました。あの頃はどん底だったかも。待っている人、チームメイトもいないなか、ひとりなのでパーソナルトレーナーさんを雇って、それでワールドカップの賞金はすべて使い果たしました(笑)。
途中でなんのためにやっているのかわからなくなって、私、2週間くらいアメリカに逃亡してるんです。ある日トレーナーさんに「無理! リハビリやめる!」って言ってボストンに遊びに行きました。でもその2週間は私にとって必要だったようで、帰国してからすごくスムーズに行きましたね。時には逃避も大事です!
――どん底から這い上がって選んだ先が、INAC神戸レオネッサという強豪チーム。これはちょっと意外でした。
今までと真逆のチームですよね。やっぱりINACは環境的にはいちばんよかったんです。常に女子サッカーの頂点にいないといけないクラブで、環境をよくしていったらこうやって結果も出ますよね? っていうことを示していかないといけないチームだと思いました。
勝つサッカーとプレッシャーを併せ持つというのを代表以外のチームではやったことがなかったから、その厳しさとプライドを体感できたのはすごく貴重でした。ただ、私自身はリーグで1回も優勝していないんです。皇后杯を獲っただけなので、そこは貢献できていなくて申し訳ないんですけど......。
【大宮にはINACとは違う楽しさがあった】――初のプロリーグであるWEリーグでは、新規チームである大宮アルディージャVENTUSでの挑戦を選びました。これはINAC移籍の時より驚きました。
INACは環境的にも慣れてるし、代表活動を考えたらそのまま残るほうがベストだったのかもしれません。だけど、大宮は新規チームでゼロからのスタート。大変そうだと思ったし、実際に大変でした(苦笑)。ほかのチームでなかなか出場機会がない選手や、ほかのカテゴリーで頑張っていた選手の集まりでした。だからこそINACとは違う楽しさがありました。
――そこで『87メンバー(1987年生まれの仲間の愛称)』の面々(有吉佐織、上辻佑実、阪口夢穂)と再会を果たしました。「新規チームだから来た」と、87組はほぼ全員そう言っていた気がします。今、ここにいる自分たちしか味わえないことだと。生みの苦しさのほうが大きいように見えましたが、その苦しさがいいんでしょうか。
マリーゼがあったら、ずっとマリーゼでやっていたと思うんです。いろんな想定外のことがあって、(ワールドカップ)優勝とかもさせてもらって輝かしいこともあれば、どん底もあった。それだけ振れ幅があるサッカー人生を経験してきちゃうと、逆にそれ(振れ幅)がないとしんどいんですよ。ちょっと物足りないというか。常に新しいストレスが欲しい! ってなる。ストレスってマイナスなことばかりじゃないですから。
――それを打ち破るパワーが出てきますからね。そんなストレスを全部笑い飛ばすパワーが、鮫島さんたちのすごさだと感じます。
何があっても、楽しく乗り越えようっていうのは決めていました。また全く違う壁に出会った時、今度はいかに楽しく乗り越えるかを大切にして、この先いろいろ経験したいなって思っていたんです。それを叶えるための、最高のメンバーが大宮には揃っていました。
――87メンバーでは、お互いの進む先についてあまり話をしないんですよね?
そういうのは一切しないですね。
――時間の限られた代表活動ではなく、クラブのチームメイトとなった87メンバーとの日々はいかがでしたか?
それはもう、87メンバーがいなかったら、この3シーズンは乗り越えられなかったと思います。本当に楽しかった! でも87メンバーだけでなく、ほかの選手たちも同じようなマインドの人が多かったんです。もっとネガティブになってもおかしくない状況でも、みんなネタにしちゃう。笑っていた記憶のほうが多いです。
【好きなメンバーに囲まれて引退する】――最後のチームとなった大宮で得たものとは何でしょう?
得たものというのとは違うかもしれませんが、自分のなかにザックリながらも理想の引退の形というものがあって、そのひとつは自分が好きなメンバーに囲まれて引退したいということでした。難しいけど、新規チームだからこそ、同じ境遇で同じものを乗り越えてきた、そのメンバーにしかわからない想いがあって、絆がある。そういう3シーズンでした。そんな仲間に囲まれて最後を迎えられたのは、自分のサッカー人生にとって大きかったなって思います。
ラストゲームでスピーチする鮫島彩 photo by Hayakusa Noriko
――ラストシーズンはいい流れが最初にあったからこそ、終盤はなぜそれができないのか、どうすればいいのかチーム全員が自問自答しているように見えました。
それはプロの世界としては当然のものとしてありました。好きなメンバーに囲まれて引退したいと言いつつも、それは自分の根本的なものですから。プロとしては常に勝ちたい、勝たなきゃいけない、ファンファーストというのが一番だったし、そういった意味では苦しいシーズンでした。
――最終節は90分間で一瞬たりとも引退の感傷とかはなかったですよね? プレー中も、ちょっと時計が止まれば近くの選手と意見交換する姿にも、全くブレがありませんでした。
だからこそ、やっぱり悔しいですよね。ただただホームで勝ちたかったです。
(つづく)
(1)鮫島彩の高校時代「3日に1回は辞めたい!って思ってた」>>
(2)鮫島彩が2011年W杯優勝のなでしこジャパンで思ったこと>>
(4)鮫島彩からパリオリンピックを戦うなでしこジャパンへエール>>
鮫島 彩
さめしま・あや/1987年6月16日生まれ。栃木県出身。常盤木学園高校から2006年に東京電力女子サッカー部マリーゼ入り。2011年からはボストン・ブレイカーズ(アメリカ)、モンペリエHSC(フランス)でプレーし、2012年に日本に戻ってベカルタ仙台レディースに入ると、INAC神戸レオネッサ、大宮アルディージャVENTUSとチームを変えて長くプレーを続け、2023−24シーズンをもって引退した。2008年よりなでしこジャパンに選ばれ、優勝した2011年を含め、女子W杯に3度出場。