指揮官にブチギレ「何やっているんだ!」 食事も拒否、大荒れで出向いた所沢の夜
大差を追う無死満塁、カウント3-0からのヒッティングに「待たせな、アカンやろ!」
野球評論家の伊勢孝夫氏は1996年から1999年までの近鉄・佐々木恭介監督時代にヘッド兼打撃コーチ、2000年から2シーズンは梨田昌孝監督の下でヘッドコーチを務めた。ヤクルト打撃コーチ時代に野村克也監督に叩き込まれたID野球を近鉄にも注入した。そんななか「あいつは、よう勉強しとったよ」と褒めたのが中村紀洋内野手だ。近鉄は2001年に優勝を成し遂げたが、伊勢氏は中村を若い選手の手本にしたこともあったという。
伊勢氏が近鉄コーチになってからの順位は1996年4位、1997年3位と階段を上がったものの1998年5位、1999年6位、2000年6位と低迷。伊勢氏が推し進めた野村克也仕込みの野球は、ヤクルトとは環境も違いすぎたのか、近鉄ではなかなか結果を出せなかった。これには伊勢氏も歯がゆい思いだった。苛立ちもあったのだろう。試合中のベンチで梨田監督に対して、つい声を荒げたこともあったと明かす。
「西武球場での西武戦で確か10-0くらいで負けている展開で6回表だったかな、ノーアウト満塁でバッターは川口(憲史外野手)やった。スリーボールから梨田が打たせよったんよ。それでファウルフライ。思わず梨田に『何やっているんだ! あんなところでホームランを打ってもまだ足りんやないか! 待たせな、アカンやろ!』って言ったことがあった。『みんな勝ちたいと思って一生懸命やっているんだけど、そこを間違えたらいかん!』って話をね」
その怒りはなかなか収まらなかったようで「試合後、アホらしくて一緒に飯食えるかぁって言って外に飯食いに行った。(東京の宿泊先の)立川で、正田(耕三打撃コーチ)と石山(一秀バッテリーコーチ)がついてきてね。『あんなことしやがって』『そりゃあ怒るのは当たり前ですよ』なんて話をしながらね」と振り返ったが、さすがにコーチが選手の前で監督をしかるのはまずかったと後で思ったという。翌日、梨田監督とも話をして頭を下げたそうだ。
勉強家だった中村紀洋「ノートを何冊も作っていた」
思うようにいかず、伊勢氏にとっては苦しい時期だったかもしれないが、そんななかで感心するとともに、その成長がとてもうれしく思えたのが中村だったという。「そういうふうには見えないかもしれないけど、ノリはよう勉強していたんですよ。私のミーティングもちゃんと聞いてノートもとっていた。自分で(配球なども)研究してノートを何冊も作っていましたよ」。中村は年々、打力をアップさせ、2000年は39本塁打、110打点で2冠王になった。
「1度、ノリに去年のいらんページとかでいいから1枚破ってくれよって言って、それをもらって若い選手たちに見せたことがある。『中村紀洋クラスでもこれだけやっているんやで、それなのに何やお前らは』ってね。その時の若い選手には、何もノートに書いていない選手がいたんでね」。中村を手本に意識改革をさらに進めた。そんな作業が実を結ぶような形にもなって2001年シーズン、前年最下位から一気にリーグ優勝をつかんだのだ。
2001年9月26日のオリックス戦(大阪ドーム)で2-5の9回に、北川博敏内野手が代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。「あれも読み勝ちだった。北川はあの1本で一躍、有名になったよねぇ」と伊勢氏は笑みをこぼした。そして中村も2001年は打率.320、46本塁打、132打点。タイトルは打点王だけだったが、打率.327、55本塁打、131打点の同僚、タフィー・ローズとともに優勝の立役者になった。
「ノリはあくが強すぎるから、中日のバッティングコーチではうまくいかなかったみたいだけど、指導者としての知識や技術もかなりのものを持っていると思いますよ」。野村ID野球の伝承者である伊勢氏は、研究熱心だった近鉄時代の中村を思い出しながら、そう言い切った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)