近鉄などでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

写真拡大

伊勢孝夫氏は1989年に燕コーチ復帰…翌年に野村克也監督が就任した

 近鉄か、ヤクルトか、迷った末のことだった。伊勢孝夫氏(野球評論家)は1988年オフ、広島1軍打撃コーチを退任し、ヤクルトに2軍打撃コーチで復帰した。親交ある近鉄・仰木彬監督と中西太ヘッドコーチからの1軍打撃コーチでの誘いを断って決めた。東京に家族を残していたからだった。この時、近鉄を選んでいれば、のちに野村克也氏の下で“ID野球”を学ぶことはなかったかもしれない。振り返れば、指導者人生における大きな分かれ道だった。

 伊勢氏は1987年から広島・阿南準郎監督率いる広島の1軍コーチを務めたが、2シーズン目を終えた1988年オフに退任を決意した。「翌年から(山本)浩二が監督をやることが決まっていたので、シーズン終盤に球団から『来年は2軍の方で』と言われたんですが、2軍だったら(ウエスタン・リーグで)シーズン中に東京に行くことがないじゃないですか。家族を東京に残していたし、子どももちょうど進学の時期だったので、それはちょっとまずいかなと思ったんです」。

 そんな時に古巣の近鉄から声がかかった。「仰木さんと太さんが『近鉄に帰って来い』と言ってくれたんです」。本拠地は大阪でも近鉄1軍コーチなら東京遠征もある。「お世話になろうかなって思っていたんですよ。そしたら(ヤクルトの)若松(勉外野手兼コーチ)が『一度会いたい』って言ってきたんです」。1988年10月7日、名古屋で食事することになった。

 その日はヤクルトがナゴヤ球場で中日戦、広島は翌8日の中日戦(ナゴヤ球場)に備えて名古屋入りした日で、スケジュールが重なった。「名古屋で前に行ったことがあった北海道料理店で待っているから、来てくれってことでね。行ったら若松が『ヤクルトに帰ってきませんか』って」。近鉄に決めかけていた時の誘い。「迷いましたね」と言う。ヤクルトでは2軍打撃コーチだったが、最終的には東京にいる家族を優先した。

「当時のヤクルトの(1軍)監督は関根(潤三)さん。若松はコーチでもあるし、彼が言うのなら間違いないだろうとも思ってね。それで仰木さんと太さんに『東京へ、家族のもとに帰ります』と言って断ったんです」。こうして伊勢氏はヤクルトに復帰した。1989年シーズンで2軍打撃コーチを務めた後、1990年シーズンのヤクルト・野村監督誕生とともに1軍打撃コーチになった。伊勢氏の指導者人生における最大ポイントでもある“野村ID野球”との出会いだった。

味方の守備の間にデータ分析、資料作り…「間に合わないんですよ」

 それはハンパではない激務でもあった。「ノムさんには『俺のそばに(打者のデータなどを)まとめたヤツを置いといてくれ、とにかく俺がさっと見て、すぐわかるようにしてくれ』って言われました。だからでかいのを作りましたよ。1番・飯田(哲也)なら、飯田の4打席をずらーっと。1球目からの球種とかもね。全選手分ね」。試合前までに、そのデータを使って分析もするわけだが、それだけでは終わらない。

 試合中の結果もどんどん書き込んでいかなければいけない。「あの頃はスコアラーからの(試合中の)チャートのベンチ送りがOKだったですからね。次のイニングまでに前のイニングのヤクルトの選手のチャートをまとめたヤツをノムさんの横に置かなければいけないんです。それはヤクルトの守備の時に作るんですよ。『守っている時、バッティングコーチは用事あらへんやろ』って言われてね」。

 そんな作業を正確かつ丁寧に行わなければいけない。「でもね、(ヤクルトが)1イニングで10人攻撃とかすると、守っている時間だけでは次のイニングに(データ作りが)間に合わないんですよ。それでもノムさんは『おい、まだかぁ』とか言うんでね。まぁ、大変でしたね。4色のボールペンで1球ずつ色分けしてね。真っすぐは黒、スライダー、カーブは赤、ブルーは特殊球、チェンジアップとかフォークにして、緑がシュート。それをずっとね……」。

 伊勢氏は野村監督の下で1990年から1995年までの6年間、打撃コーチを務めた。その間に作り上げたデータ量は莫大なものになっており、その経験は指導者人生において大きなプラスにもなった。「広島をやめる時、若松に誘われていなかったら、私はデータ収集やまとめ方も何も勉強せんままに終わったんでしょうねぇ……」。伊勢氏はハードだった日々を懐かしみながら、笑みを浮かべた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)