ヤクルト時代の中西太氏(左)と武上四郎氏【写真:産経新聞社】

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伊勢孝夫氏は1980年限りで引退、翌1981年から長い指導者生活が始まった

 ヤクルト・伊勢孝夫内野手(現・野球評論家)は1980年シーズン限りで引退した。1963年に入団した近鉄で14年、1976年オフにトレード移籍したヤクルトで4年の計18年の現役生活だった。ラストシーズンは6月上旬に2軍落ち。「その時から辞めるつもりだった。球団に残れるなんて思ってもいなかった」という。そんな中、オフにコーチ就任要請を受けて、快諾。伊勢氏の指導者人生が始まったが、ここでも運命の出会いがあった。

 現役晩年の伊勢氏の出番は大幅に減少した。17年目の1979年は35試合、打率.143、1本塁打、5打点。18年目の1980年は6打数1安打、0本塁打、0打点だった。18年目は開幕6戦目の4月15日の大洋戦(横浜)、11-3の9回に代打で出場して大洋・宮本四郎投手からヒットを放ったが、それが通算570安打目。現役ラスト安打となった。17年目の1979年6月24日の大洋戦(横浜)での現役ラスト本塁打も、同じく宮本から放っている。

 ラスト出場は1980年6月8日の巨人戦(神宮)。代打で三振に倒れて2軍落ちとなった。「その時のことはあまり記憶にないけど、2軍では練習もしないで、草刈り機で草を刈ってばかりいました。もう今年で終わりだな、長いことやらせてもらったし、もういいだろうって思ってね。でも3日くらい経ったら小森さんに呼ばれたんです」。当時のヤクルト2軍監督は小森光生氏。伊勢氏が近鉄時代に投手から野手に転向した際、マンツーマンで指導してくれた恩師だった。

「小森さんに『最後までちゃんと全うするのがお前のええとこやないか。何やっているんだ、草刈りばかりしやがって』と言われたので『僕は草刈正雄ですよ』って冗談で返したら『バカヤロー』って怒られたんですけどね。まぁ、それで『そうだよな、こんなことをやっていたら駄目だよな。ちゃんとやろう』と思いましたね」。1軍から声がかかることはなかったが、2軍でも最後までプレー。すると球団から「現役を辞めてコーチをやらないか」との打診があったという。

「球団に今年で辞めますという話をするよりも先にコーチの話が来たんです」。この年のヤクルトは伊勢氏のほかに、福富邦夫外野手、船田和英内野手も現役を引退。「船田さんが2軍の守備コーチ、福富さんが2軍の守備走塁コーチ、私が2軍の打撃コーチになったんです。(1軍監督の)武上(四郎)さんのおかげですね。たぶんタケさんが球団に言ってくれたんだと思います」。そこから伊勢氏の長きにわたるコーチ人生が始まった。

 1981年シーズンも2軍監督は引き続き、恩師の小森氏。「いろいろと教わりましたよ」と伊勢氏は話す。近鉄時代から続く縁。その存在が心強かったのは言うまでもない。「埼玉の蓮田に家を買いました。(ヤクルト2軍本拠地の)戸田まで車で20分くらい。これは便利だなと思っていたら、(コーチ)2年目(1982年)から(1軍の)神宮に行ってくれって言われて、遠いやんかってなったんですけどね」。

中西太氏に学び出来上がった打撃指導のベース

 運命の出会いはコーチ3年目(1983年)シーズン。打撃指導の達人で名伯楽の中西太氏がヤクルトのヘッド兼打撃コーチに就任した。1軍打撃コーチの伊勢氏は「中西さんにバッティングコーチとして、こうあるべきだというのを教わりました。アメリカの(ユマ)キャンプでは四六時中、トイレと寝る時だけが別であとはずーっと一緒だった。バッティングの話、野球の話ばかりでしたね」。この時に学んだことが伊勢氏の技術指導法のベースになったという。

 中西ヘッド兼打撃コーチは1984年4月28日から、休養した武上監督の代行を務めたが、チーム状態は上がらず5月22日の大洋戦(神宮)を体調不良で欠場し、5月24日には辞意を表明。土橋正幸投手コーチが代行の代行を務め、その後、監督に就任したが、伊勢氏は「あれはね、中西さんが球団代表と荒木大輔(投手)のことでもめていたからですよ。(欠場する)前の晩、名古屋で長いこと代表と電話で話していましたから」と話す。

「中西さんは代表に『大輔は使えるようになるまで2軍に置いた方がいい。あいつのためや』と言ったんですけど、代表も松園(尚巳)オーナーに大輔のことを言われているので応じなかった。大輔の後ろ盾の人と松園さんがごっつーよかったみたいです。それで中西さんは『言うことを聞いてもらえないなら、代行もやめる』ってなったんですよ」

 ヤクルトは中日とのナゴヤ球場での3連戦を終えて5月22日に東京へ移動した。「神宮で試合があるから、チームはバスで移動するんですけど、中西さんはスタコラスタコラ八重洲口の方に行って『ほんじゃなぁ』と言って家に帰ったんです。そこからもう来ませんでした」。中西氏とは師弟関係にあっただけに、伊勢氏もその時の師匠の思いはよくわかっていたのだろう。

 この辞任劇によって伊勢氏はヤクルトでは中西氏と2年も一緒にいられなかったが、それまでの日々は貴重だったし、充実していたという。その後も関係はずっと継続され、その出会いがなければ伊勢氏のコーチ人生は違うものになっていたと言っても過言ではない。

「私が(2006年〜2007年に)巨人でお世話になった時、(監督の)原(辰徳)君に『伊勢さんって太さんとそういう仲だったの。ちょっと臨時コーチで来てもらうよう頼んでくださいよ』と言われて『1クールだけでも』ってお願いしたら来てくれたんですよねぇ……」。今は亡き中西氏とのことを思い出しながら、伊勢氏はしんみりと話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)