全仏オープンでのクリス・エバート(1975年)

写真拡大

 クリス・エバートは1970年代から80年代に君臨した「テニスの女王」。70年から89年まで四大大会決勝に34回進出(歴代最多)、18回制覇。全仏オープン優勝7回、全米オープン4連覇も最多記録だ。多くの企業の広告塔を務め、「女性アスリートで男子をしのぐ巨額契約を得た先駆け」とも語り継がれる。

 クリスにはライバルのナブラチロワや次代を担ったウィリアムス姉妹らと比べ大きな違いがあった。それは「見た目にすごい武器がない」という弱みとも思える特徴だ。サービスのスピード、ストロークの威力は他の選手と同程度。目立つ唯一の違いはバックハンドを両手で打つこと。これはクリスがコートに持ち込んだ革命的な技術だ。ストロークの正確さ、粘り強さ、勝利への執念は並外れていた。

全仏オープンでのクリス・エバート(1975年)

 加えて徹底したポーカーフェイス。アイス・ドール(氷の人形)と形容されたのは、コート上で表情を変えなかったからだ。アイス・ドールを貫くことは、女王であるための最大の武器だった。それは幼い頃からクリスを指導している父ジミー・エバートの教えだ。ドキュメンタリー番組「Biography」で後年クリスが回想している。

「試合中カッとなった私に父が言いました。腹が立っても相手に見せちゃいけない。表情に出さなければ逆に相手をイライラさせ、結局は自分が有利になる」

キング夫人も警戒

 クリスの最初の覚醒は、15歳の時。無名の彼女がノースカロライナ州の大会に出た。親友と二人で出かける初めての遠征旅行。

「親がいない旅行は初めてだから、前の晩は夜中の1時半まで起きていました」

 開放的な気分でプレーしたクリスは勝ち進み、女子で史上2人目の年間グランドスラムを達成したばかりのマーガレット・スミスと対戦。7−6、7−6で倒してしまった。15歳の少女が得意のクレーコートで演じた快挙は人々を驚かせた。60年代にウィンブルドン3連覇を飾り、女子テニスの地位向上の先頭に立っていた当時の女王ビリー・ジーン・キングもその一人だ。

「私は報せを聞いてクリスの名を頭の隅に置きました。そして71年の全米オープン1回戦でクリスがメアリー・アン・アイゼルと対戦する試合を見に行きました」

 初めての四大大会出場。世界4位のメアリーに6回マッチポイントを奪われながら諦めず、逆転勝ちした。キング夫人が言う。

「クリスは必ずスーパースターになると確信しました」

 17歳のクリスは準決勝でそのキング夫人と対戦。スコアこそ3−6、2−6で敗れたが、激しいラリーの応酬になった。マッチポイントでキング夫人がバックハンドボレーをクロスに決めた瞬間、両手を頭上に掲げて手を合わせ、安堵の喜びでネットに頭を垂れた姿が、新星クリスが与えた脅威を物語っている。

天才少女に敗れるも

 クリスは「恋多き女性」でもあった。「世紀の恋」の相手は、新星ジミー・コナーズ。二人の恋のクライマックスは婚約時代の74年ウィンブルドンだ。クリスは19歳。直前の全仏で初めて四大大会優勝を飾って臨んだ3度目のウィンブルドン。2年前(72年)は準決勝で前年覇者イボンヌ・グーラゴングに敗れ、前年はキング夫人に決勝で敗れた。74年、決勝の相手はオルガ・モロゾワ。一方21歳のコナーズは74年の全豪で四大大会を制したばかり。この大会は3年ぶり2度目の出場。71年は1回戦で敗退している。

 イギリスのブックメーカーは世紀のカップルのアベック優勝の賭け率を33倍に設定した。それだけ前評判は低かった。ところが二人はともに優勝を飾り、祝賀パーティーでダンスを踊った。幸か不幸か、この優勝は二人の恋路に影響を与えた。「結婚して引退」を考えていたクリスのテニス人生に先の長い未来が開けた。コナーズも同じ。二人は結婚に至らず別れを決めた。

 最初の全仏優勝から7度目の全仏優勝まで、13年にわたって毎年四大会のいずれかを勝ち続けたクリスには、いくつかの転換期があった。最初の試練は、自分と同じく「天才少女」と呼ばれたトレーシー・オースチンの出現だ。クリスは5試合続けてトレーシーに敗れた。79年全米オープン決勝でも苦杯をなめ、史上最年少優勝(16歳9カ月)を許した。注目はすっかりトレーシーに移った。ランキングも1位から3位に落ちた。二度とトレーシーに勝てないのではないか、焦りと自信喪失でクリスは引退を考えた。約半年、コートから離れ、テニス以外の人生を思い続けた。

 この時クリスを支えたのは、79年4月に結婚したジョン・ロイドだった。プロテニス選手だったロイドは競技を離れ、クリスのサポートに専念する道を選ぶ。ロイドの励ましを受け、クリスは80年春、復活への挑戦を決意した。

 その夏、再び全米オープンでトレーシーと対戦。第1セットを失うが諦めなかった。逆転で勝利を飾り、以後二度とトレーシーに負けなかった。それから89年まで第一線で活躍、後半はナブラチロワらと激闘を演じた。氷の仮面の奥に苛烈な努力と執念をたたえた真の女王だった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

「週刊新潮」2024年6月20日号 掲載