《源氏物語 Ⅰ 絵合》 2008年

写真拡大 (全13枚)

現代を代表する書家のひとり、石川九楊の60年以上にわたる画業の集大成というべき大規模展覧会『石川九楊大全』が、東京・上野公園の上野の森美術館で2024年6月8日(土)に開幕した。7月28日(日)まで約2か月間の会期を前後期に分けて展開される本展では、「書は筆触の芸術である」という思想のもと、文字と言葉への思索を続けながら書の新たな表現を切り開いてきた石川九楊の歩みを約300点の作品で辿る。開幕前日に行われたプレス内覧会には作家本人も来場し、開幕に際して喜びを語った。

現代を代表する書家の厳選300点を前期・後期で展示

本展の主役である書家・石川九楊(いしかわ・きゅうよう)は、昭和20年(1945)に福井県で生まれた。5歳から書塾に通った石川は、京都大学法学部在学中から学生書壇で活躍し、卒業後一般企業に勤務したのち、昭和53年(1978)に石川九楊研究室を設立。既存の書の表現を踏まえ、その先に現代の時代と共鳴する新たな書の地平を切り開き続けてきた。現在も精力的な活動を続け、来年放送の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』では題字を担当することが発表されたばかり。また、香港で春に開催されたアジア最大級のアートフェア『アートバーゼル香港2024』でも注目を集めるなど世界的に高い評価を受けている。

会場外観

2か月にわたって行われる本展では、6月8日(土)から30日(日)までの前期を「【古典篇】 遠くまで行くんだ」とし、古典文学を題材にした1980年代から2000年代ごろの作品を展示。7月3日(水)から28日(日)までの後期は「【状況篇】 言葉は雨のように降りそそいだ」とし、書にとってタブーともいえる灰色に染めた紙に書かれた初期時代の作品や現代社会を鋭くえぐる最新の自作詩作文などが展示される。前後期で全作品の展示替えを行い、2000点以上におよぶ制作作品のうち厳選された計300点余りの展示で、石川九楊のこれまでの画業を総覧する。

会場風景

この日は石川九楊本人が、関係者を前に挨拶。

会場で挨拶を述べた石川九楊

「ちょうど80歳を前にして、仕事のひとつの中締めという意味合いがこの展覧会にはあります」とはじめに述べた石川は、続けて「『石川九楊大全』といういささか大げさなタイトルになりましたが、そこに偽りなく、書に親しむこと75年、書に溺れること60年の成果をすべて見ていただきたい思いです」と心境をコメント。その上で「展覧会というのは、自分が自らの作品を作ったことを忘れ、客観的な視点から学びも得られる機会にもなります。本展で中締めを終えたら少し気休めにカラオケにでも行って、また次の新しい書への取り組み方を考えていきたいです」と、ユーモアを交えながらさらなる探求への意欲を見せた。

書業中盤に取り組んだ古典文学の作品たち

改めて説明すると、前期「古典篇」で展示されているのは1980年頃から2010年頃までの作品。年齢でいえば書業中盤の30代半ばから60代半ばまでに取り組んだ作品だ。灰色の紙で制作活動を行うなど、既存の書の価値観に抗うかのような表現に取り組んだ初期を経て、この時代の石川は、新たな書の在り方を見つけるために、あえて古典文学を書くことに挑んだ。

会場の入り口には主催者の挨拶文と並び、「お願いだから『書』と聞いて習字や書道展の作品を思い浮かべるのではなく、筆記具でしきりに文章を綴っている姿を思い浮かべてほしい。本展を鑑てのちは」という石川本人のメッセージが提示されている。

会場入り口に掲示された石川のメッセージ

「書は文字ではなく、言葉を書く表現である」と常々語る石川。さらに先の挨拶の中で述べられた本人の言葉を借りると「書の筆先と紙の間で起こる力のやり取りの時間的なプロセス。それは小説でいえば物語であり、声の延長線に音楽があるようなもの。よって、物語や音楽を作るかのように、ものを書いている姿を想像してほしい」といい、本展を巡るにあたり、鑑賞者はここでひとつの“課題”を受け取ることになる。

そして、最初の空間には「千字文」の展示がある。千字文とは、古代中国の梁という国で6世紀前半に作られた古詩。四字一句が250句、すべて違う文字で計1000文字が綴られた詩集は、日本でも古くから漢字のお手本として親しまれてきた。

初めの句である「天地玄黄 宇宙洪荒」が書かれた最初の作品の前に立つと、ただ綺麗な字をじっくり見る“書鑑賞のそれ”とは異なる体験がさっそく訪れる。繊細な線が形を作り、ところどころブラックホールかのような黒点が書かれた作品は、書という芸術に対して「太い筆致で何らかの文字を書くもの」という先入観を持っている人に驚きを与えることだろう。

《千字文 天地玄黄 宇宙洪荒/日月盈昃 辰宿列張/寒来暑往 秋収冬蔵》 2003年

一方で「鳴鳳在樹 白駒食場」の詩が書かれた作品は、書かれた文字の原型を留めつつも「鳴」や「鳳」の中に鳥の姿が見つかり、石川自身の言葉が表すように、平面に書かれた文字の中にその言葉が持つ物語を感じることができる。

《千字文 鳴鳳在樹 白駒食場》 2003年

次の大空間では、古代中国・唐の詩人で、「鬼才」と呼ばれた李賀の詩を書いた大作が見られる。

石川は、李賀の詩の世界観を「涙」と捉え、この作品群では滲みの表現を極限まで究めることに取り組んだ。その代表作である《李賀詩 贈陳商》は、一見して白の空間を墨で塗りつぶした作品に見えるが、間近で見ると濃淡の滲みの下に文字が隠れていることが分かる。

《李賀詩 贈陳商(十七連作)》 1992年

また、本作は「書は墨をするところから制作が始まる」としている石川が、何日も墨をすって作品作りに臨み、時には失敗したり、墨はできたが制作は先に進まないという経験を繰り返しながら完成に至ったものだという。

《歎異抄 No.18》(レプリカ) 1988年

続く空間には親鸞の『歎異抄』を書いた作品などが展示されている。そのうち《歎異抄 No.18》は8ヶ月を要して書かれ石川自ら“自身の代表作のひとつ”と位置付ける作品で、”書は音楽”という石川の思想を色濃く反映した、超絶技巧的な表現も見どころだ。

55帖全点展示「源氏物語」の物語を書で味わう

「東アジアの書は未然形の文学であり 西欧の音楽に相当する表現である」という石川の言葉に再び誘われながら2階へ上がると、次の空間には《源氏物語書巻五十五帖》の全作展示が待っている。

会場風景

源氏物語の物語に着想を得て書に書き起こされた55の連作はそれぞれに異なるアプローチがとられ、ここまで見てきた石川九楊の書の旅をより一層じっくり味わえる作品といえる。

《源氏物語 Ⅰ 賢木》 2008年

たとえば、序章である「桐壺」では複雑な人間模様が描かれる源氏物語のはじまりを複雑な線で告げ、また、源氏物語屈指の名場面とされる「賢木」では、光源氏と藤壺のすれ違う感情が一場面ごと無数の文字で表現されている。そのほかにも筆で書かれたことに驚きを覚える作品が続き、まるで一つひとつの線が言葉を紡ぐかのように、一作一作に源氏物語のストーリーを閉じ込められている。

《源氏物語 Ⅰ 胡蝶》 2008年

なお、本来全54帖で構成されている源氏物語だが、本作には巻名のみ伝わる幻の物語「雲隠」が加わっていることも注目ポイントとして付け加えておく。

展示作品全点掲載の公式図録にも注目!

そこから終盤は『徒然草』『方丈記』などの日本古典を題材にした作品のほか、先に登場した『千字文』を盃に書いた《盃千字文》の展示がある。特に展示ケースにずらりと並べられた《盃千字文》は、その規模に圧倒させられるはず。

展示風景

なお、前後篇で展示替えのある本展だが、公式図録では約300点の作品すべてが見られ、題材の原文も収録されているので、石川九楊の世界をより深く知りたい方はそちらにもぜひ注目を。

『石川九楊大全』は7月28日(日)まで東京・上野公園の上野の森美術館で開催中。普段、書に縁がないという人も、書というものの常識が覆されるというだけでも鑑賞の価値がある機会になるはずだ。


文・写真=Sho Suzuki