「テーマパーク化した大学」を経たZ世代の不都合
「大学のテーマパーク化」の真意と問題点を浮き彫りにします(写真:takeuchi masato/PIXTA)
「大学のテーマパーク化」というフレーズがある。大学の現状を揶揄し、学生が大学に遊びにきている、といった意味で用いられることが多い。とはいえ、これは最近の傾向というわけでもなく、老若男女問わず、「大学で勉強していた」と言う人のほうが少数派ではないだろうか。
企業組織を研究する東京大学の舟津昌平氏は、Z世代が身を置く現代の「テーマパーク化した大学」の意味合いの変化を、ビジネスの観点から指摘する。
本記事では、舟津氏の著書『Z世代化する社会』より一部抜粋・再構成のうえ、「大学のテーマパーク化」の真意と、その問題点を浮き彫りにする。
「大学のテーマパーク化」の真意
「大学のテーマパーク化」には、「大学に遊びにきている」の他にもう1つの意味がある。そして、そっちの意味の方がよっぽど怖くて、かつ大学生のリアルを描いている。
テーマパークといえば、ディズニーランドやUSJが想起できる。それらのエンタメは、経営学の視点から見ても舌を巻くほど高度で優れている。学生たちもテーマパークの虜になっていて、1回行くだけで教科書が3、4冊買える価格のチケットでも、なけなしのお金を払ってテーマパークに向かう。なぜ若者たちはテーマパークに熱狂するのだろうか。
ビジネスの観点から見れば、テーマパークはかなりの設備投資を行う必要があり、要は装置にとことんお金がかかっている。その規模は鉄鋼メーカーや自動車メーカーに匹敵し、大学の比ではない。ありていに言えば、相当のカネをかけることで非日常は創造されている。
また、エンタメを徹底的に追求していて、とにかく楽しい。不快なものが極力排除され、楽しさだけで満たされた空間がそこにある。まさに夢の国だ(ただし、有料である)。能登路雅子著「ディズニーランドという聖地」にも、関連する指摘がある。意訳すれば「ネズミの手は汚いもので、だから手袋をするのだ」。
大学のテーマパーク化とはすなわち、「大学を、不快を消し去ったとにかく楽しい場所だと見なす」志向を指す。不快を消し去るというテーマパークの特徴を、大学にも求めるのだ。
「テーマパーク化」にはもう1つの含意がある。学生を「客」に見立てているところだ。そもそも学生は大学に学費を払っているわけであり、その意味で顧客である。しかし、元来、学生は大学にとって客のようで客でない。テーマパークの客が(テーマパークの外で)犯罪行為をしでかしても、テーマパークが責められることはない。でも、大学生が問題を起こしたら、大学も責められる。学生は大学の一員としての自覚と責任を求められる。お金を払っていながら組織の一員として振る舞う、不思議といえば不思議な関係である。
しかし学生がお客様になってしまうと、様々なことが成り立たなくなる。「金を払ってるんだから」。「誰のおかげで食えてると思ってるんだ」。こうした傲慢な客の論理が許されてしまうのであれば、大学ができること、やるべきことは、かなり意味内容が変わってくる。
たとえば、語学で発音を直すのは失礼だ。仮に発音が間違っていようが、いい発音だね、と言って帰すのがよかろう。だって、お客さんだから(このエピソード、詳しくは拙著参照)。
若者が「いい子化」している?
話変わって、金間大介著『先生、どうか皆の前でほめないで下さい――いい子症候群の若者たち』という本がある。やや若者を揶揄するきらいがあるものの、実に鋭く若者の実態を抉っていると感じた本だ。この「いい子」とは何だろうか。日常の慣用で、よく使うフレーズを考えてみよう。
「いい子にしててね」
子持ちのご家庭なら、飽きるほど思ったことがあるだろう。子どもは、特に小さい子どもは、親やオトナの意向なんて知るわけもなく、傍若無人に大暴れする。「ちびっこギャング」に疲れ果てた親御さんは、修飾語を足して、聞かない子どもに語りかける。
「頼むから、いい子にしててね」
こうした親御さんにとって、非常に強力な文明の利器がある。タブレットとYouTubeだ。お気に入りのYouTube動画を視せておけば、暴れまわる子どもたちはウソのように静かに映像に見入る。このとき、子どもは「いい子」になる。
ここまでは良いだろう。で、ちょっと考えてみてほしいのだ。YouTubeに見入って静かな子どもが「いい子」だという意味を。
言葉というのは多義的で、場合によって意味は異なる。年を重ねれば、親孝行をしてくれる子が「いい子」なのかもしれないし、礼儀正しく品行方正であることが「いい子」なのかもしれない。
しかしYouTubeの例で言うなら、いい子である条件はきわめてシンプルである。「黙って座っていること」だ。子どもが幼少期ならわかる。小さい子どもは本当に手がかかる。最近は共働きのご家庭も増えて、「頼むから」と、どれだけの親が思ったか。黙って動かない、手のかからない子どもは、心から「いい子」と言えるだろう。
「いい子症候群」はどこから生まれたのか
しかし。いい子は、いつまでいい子なのだろう。つまり、大学の授業で「いい子」である必要はあるのだろうか。
単刀直入に言えば、筆者は授業をしていて気付いたのだ。ああ、この学生たちはもしかして、「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」んじゃないかと。三つ子の魂、二十まで。高校を卒業してハタチ前後になっても、三つ子の頃のことを忘れていない。
学生たちは、ただ何もせず座っている。手も挙げず、ノートも取らず、たまにスマホをいじったり。当てても苦笑して横を見るだけだ。なのに、なぜか教室には居る。授業には来る。こういう性質はどこから来たのだろうと不思議にも思い、そして気付いたことがある。「いい子症候群」はきっと、小中高と積み重ねられた先生たちとの「共犯関係」の産物なのだと。
まったく余談ながら、筆者は「怖い」と言われることが多い。教育現場では、この怖さを最大限活用しており、ほどほどに威嚇しておくと学生は比較的おとなしい。ところが他の先生の話を聞いていると、授業での学生の騒ぎっぷりたるや、まあ酷いものである(ちなみに、治安と偏差値はたいして関係ない)。相手を見て振る舞いを変える狡猾さもまた、実に若者っぽい性質だ。
かつ、現代の大学、というより教育現場では、学生を安易に怒れないという問題がある。アンガーマネジメントという言葉が浸透し、人前で怒る人は異常者のような扱いを受ける時代だ。職場でも学校でも、若者を怒るということは忌避されており、そもそも現象として珍しくなってすらいる。
とある大学の先生は、授業態度を注意したときに言われたことがあるそうだ。
「PTAに言いつけますけど、いいんですか?」
その先生は「大学にPTAはありません」とどストレートに事実だけ告げて、学生を退場させたとか。要するに、小中高では保護者に言いつけられるのが一番メンドクサイ。この手の悪い奴らは、どうやったらオトナが嫌がるのかということをよく知っている。
「互いに無関心である」であることが一番ハッピー
昨今の報道の通り、小中高の先生たちはかなり疲弊している。ぶつかってでも教育する、クレームを恐れずに向き合うよりは、何も起きないように振る舞うことを選んでも、正直責められない。授業のたび騒ぐ子どもたち。キレたくなる気持ちを一生懸命に静めて、怒るまいと思いながら授業を進める先生。ふと、心に魔が差す。
「もし、授業をしないで済んだら……そして、生徒が何も言わず見過ごしてくれたら……」
このとき、先生と生徒との間に、悪魔の約定が成立する。先生はテキトーに授業する。生徒はテキトーに流す。ただ、黙って座っているだけ。これが、互いの幸福度を最大化する均衡点なのだ。
むろん、疑問や義憤を持つ方もいるだろう。授業をマジメに受けたい生徒の機会を奪っている。それは教育にとって望ましくない均衡だ。もっともである。その通りだ。ただ、その正論を受容できない程度に、特に小中高の先生たちは疲れてビビってしまっている。
そして、この様相は大学でも似たようなものになっている。大学教員がよく使う言葉に「授業負担」「教育負担」がある。要はいくつの授業コマを担当するかという話で、「今、授業負担どのくらいですか?」とか、「あの大学は教育負担少ない」とか言ったりする。授業は負担なのである。大学教員はどちらかといえば教育のプロではなく研究のプロだということもあって、授業を担当することを前向きに捉えている人は必ずしも多くはない印象だ。少なくとも、授業負担という言葉が成立する程度には。
もちろん教育に真摯に向き合う先生もごまんといらっしゃる(というか、ほとんどの方はとてもまじめに教育に向き合っている)。ただ、学生数の多い大学だと、自分の専門とは違う分野を担当したり、数百人が受ける授業を複数担当したり、20〜30人の卒論を1年で担当したり(!)することもある。たしかに過大な負担だ。
このような状況だと、大学でも共犯関係は成立する。先生はできるだけ手を抜く。学生はボーッと座っている。そして授業をやり過ごす。これが一番、互いにとって負担がない、Win―Winの関係。互いに無関心であることが、互いにとって一番幸福なのである。
あんまりだ、と思った方もいるだろう。もちろん当たり前だが、こんな先生と学生ばかりではないことも重々断っておく。でも、そんな答えを選ぶほどに疲弊した現場の状況が、互いに「都合の良い」最適解を導いていることは、重々承知されなければならない。別に悪いことをしようと思ったわけでもない。互いに無関心であるという関係は、どっちにも都合が良いので採用されただけなのだ。
「いい子」は会社では成立しない
でも、これはさすがにマズイ。何がマズイのかというと、小中高、大学では「いい子」がまだ成立する。だが、会社や職場では成立しない。黙って座っているだけの社員を評価してくれる会社など、ない。「リアリティショック」に直面した若者が、きっといるはずだ。
「おかしいなあ。今までは、黙って座ってるだけで、みんな許してくれたのに。この会社は違うようだ。ブラック企業なのかな?」
不快な要素が取り除かれた世界で育ってきた若者たちならば、そう思うのも無理はない。テーマパークなんて、高いお金を払った一瞬にしかやってこない、本当に夢の国なのである。
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)