海外での腎臓移植を望む50代女性が陥った"罠"
本田さんがキルギスで入院していた病室(写真:関係者提供)
「海外移植で臓器売買か 都内NPO仲介 困窮ドナーに200万円」。これは2022年8月7日、読売新聞がスクープとして、朝刊一面に掲載した記事の見出しです。
内容は日本人患者4人が腎臓移植を受けるため、都内にあるNPOの仲介で中央アジア・キルギスに渡り、うち1人が現地の病院で移植手術を受けたところ、一時重篤な状態に陥った、という情報提供をもとにした調査報道でした。
ドナーになったのは経済的に困窮していたウクライナ人女性。金銭を目的とする臓器売買は非人道的だと世界中で激しく非難されていますが、日本国内ではドナーが不足していて、法の不備をつく形で不透明な海外での臓器移植が見逃されてきた現状があります。
報道をきっかけに警視庁が動き、2023年2月にはNPO理事長がベラルーシで別の患者に無許可で臓器を斡旋した罪に問われて逮捕。移植されたのは死者の臓器だったとされ、患者はその後死亡しています。
本記事では、報道のきっかけとなったキルギスでの臓器移植について『ルポ 海外「臓器売買」の闇』から一部を抜粋、再編集し、前後編・2回に分けて掲載します。今回は前編です(後編はこちら)
キルギスへ渡った50代女性
「心配なんだけど……」
窓の外は寒々しい景色だった。雪までは降っていないが、気温は1ケタ。特に朝と晩は冷え込んだ。
2021年12月16日。この日、中央アジア・キルギスの首都ビシケク市内にある病院に入院した本田麻美(57、仮名)は、4階の病室で不安を募らせていた。
「この病院で本当に大丈夫かしら……」
病院は6階建てで、日本で臓器移植手術を手がける病院とは比べものにならないほど小さな病院だった。外壁は薄汚れており、部屋に設置されたシャワーはお湯が出なかった。
病室では、先に腎臓移植を受けたイスラエル人女性が苦しそうにしていた。激しい痛みがあるのか、ベッドの上でイモムシのように悶え続けていた。
イスラエル人女性の手術を執刀したのは、本田の執刀医となるエジプト人の男性医師だ。50代で、腕のいい軍医だと聞いたが、本当かどうかはわからなかった。
本田が「心配なんだけど……」と通訳のカタリナ・カリモワに相談すると、カタリナは「大丈夫ですよ」とほほ笑んだ。
このまま手術を受けるか、それとも、やめるかーー。本田は頭を悩ませながら、それまでの月日を思い起こしていた。
検索したNPOに依頼
関西地方で暮らす本田が腎疾患を発症したのは、2010年頃のことだ。
水分の入った袋が腎臓に多数できて腎機能が低下する難病で、20年春には症状が悪化し、体内から老廃物を取り除く人工透析治療を受けなければならなくなった。
人工透析治療は多くの場合、週3回ほど病院に通院し、体内の血液を機械に迂回させて血液中の老廃物を取り除く「血液透析」を行う。体に針を刺し、ベッドの上で4時間ほど過ごさなければならず、患者の負担は大きい。
これに対し、本田は自宅でできる「腹膜透析」と呼ばれる治療法を選んだ。おなかの中に注入した透析液に老廃物を取り込み、透析液ごと体外に取り出す手法で、夜間にもできることなどから患者の負担は比較的軽いとも言われる。
ただ、透析に欠かせない腹膜の機能が徐々に低下するため、この治療法を継続できる期間には限りがある。5年とも10年とも言われており、いずれは血液透析に移行しなければならなかった。
病を治し、こうした日々から逃れるためには、腎臓の移植手術を受けるしか選択肢はなかった。だが、国内で腎臓移植を希望しても、腎臓を提供するドナーが著しく少ないことから、平均で10年以上待つ必要がある。
本田は「早く移植を受ける方法はないか」とインターネットで検索した。辿(たど)り着いたのが、海外での臓器移植を仲介するNPO法人「難病患者支援の会」のホームページだった。
本田は家族に相談の上でNPOに連絡し、実質代表者(後に理事長)の菊池仁達(ひろみち)と電話やメールでやりとりを始めた。本田より4歳年上の菊池からは当初、東欧・ブルガリアでの移植を勧められたが、その後、ウズベキスタンを提示された。
一度も足を踏み入れたことのない異国での移植手術に、本田は大きな不安を感じたが、ほかに早く手術を受けられる方法は見当たらなかった。
NPOから伝えられた移植費用は約1850万円。本田にとっては大金だったが、貯めていた預貯金で何とか用意することができる。本田は「これで健康を取り戻せるのなら」と、藁(わら)にもすがる思いで移植の仲介を依頼することに決めた。
口座振り込みで金を支払う際、費用の内訳について聞くと、菊池は「これは闇だから」と多くを語らなかったという。契約書も存在しなかった。それでも、本田はNPOに紹介された新大阪駅近くの医院で血液検査を受け、渡航の準備を進めた。
「親族間の生体移植」を装う
日本を出発したのは21年6月。空路、ウズベキスタンの首都タシケントに入った。それまで電話とメールでやりとりしていた菊池と現地で初めて会った。通訳のカタリナからは「トルコ人のコーディネーターが関与している」と聞かされた。
菊池の当初の説明では「40日で日本に帰れる」とのことだったが、「ドナーが見つからない」と言われ、手術日がなかなか決まらなかった。「どうなっているのかしら」と思いながら、タシケント市内のホテルで滞在を続けた。
ひまを持て余し、近くの公園を散歩したり、買い物をしたりして気晴らしをした。長期滞在に伴い、それまでの腹膜透析から血液透析に切り替えており、定期的に現地の病院に通って透析治療を受けた。
やっとのことで「ドナーが見つかった」とNPOから伝えられたのは、渡航から4カ月ほどたった10月頃のことだ。ドナーは中年のウクライナ人女性で、名前をエレナといった。トルコ人側の手配でタシケントに来ていた。
本田は、病院での検査の際などに何度もエレナと顔を合わせている。エレナは本田よりも小柄で、片言の日本語で「朝ご飯は食べましたか?」などと気さくに話しかけてきた。明るくおおらかな人柄で、何かと言えば「ハグ」をしてきた。
滞在先のホテルなどで、エレナはカタリナから日本語を教わっており、「幸せなら手をたたこう」という歌を日本語で口ずさんでいた。
エレナを日本人の本田の親族に見せかけ、違法ではない「親族間の生体移植」を装うのが目的だった。それは後に知ったことで、本田は当時、何も知らされていなかった。
近づく手術、突然の病院変更
いよいよ手術の日が近づき、本田はホテルを出てタシケントの病院に入院した。
ところが、11月下旬に突然、カタリナから「隣国のキルギスに行きます」と告げられた。ちょうど入院先の病院から外出していた時だったが、病院に荷物を取りに行く間もなく、空港に直行した。
NPOの仲介で現地入りしていた他の日本人患者2人と一緒に飛行機に乗り込んだ。病院に置いてあった荷物はNPO職員が持ってきてくれた。
1時間余りのフライトでキルギスの空港に降り立つと、首都ビシケク市内にある病院に案内された。コーディネーターのトルコ人が民間の病院を借り切ったとのことで、慌ただしく移植用の医療機器が運び込まれていた。
日本人患者はさらに1人合流し、本田を含めて4人になっていた。他の3人はいずれも中年の男性で、全員が腎臓を病んでいた。
ドナーのエレナも、トルコ人とともにタシケントからビシケクに移動し、同じ病院の同じフロアに入院した。
トルコ人が手配した医療チームは、執刀医のエジプト人男性と、トルコ人の仲間の腎臓医、麻酔医、看護師らがメンバーだった。院内には、NPOとは別ルートでトルコ人が案内したと思われる外国人患者たちがおり、同様に腎臓移植を待っていた。
日本を発ってから、もう半年たっていた。ちゃんとした手術を行ってもらえるのかどうか不安はあったが、すでにドナーも目の前にいる。
本田の胸中には「手術を受けるのなら、今しかないのではないか」との思いが強まっていた。結局、手術を受けることを決断した。
(後編に続きます)
(読売新聞社会部取材班)