2024年4月6日からいよいよスタートしたNHKアニメ『烏は主を選ばない』。第2話「ぼんくら次男」のストーリーには、阿部智里さんの原作「八咫烏シリーズ」の中から、外伝「ふゆのことら」(『烏百花 白百合の章』所収)に登場するエピソードも挿入されています。

アニメ化を記念して本外伝を全文公開! 4月15日から5月15日までの限定公開ですので、この機会にどうぞお愉しみください。

八咫烏シリーズ 外伝
「ふゆのことら」
阿部智里


『烏百花 白百合の章』(阿部 智里)

 透き通った冬の蒼天に、鬨の声が吸い込まれていく。

 空気はきんと冷たく、唇からは白い呼気が溢れているが、体中の血は沸き立っていた。

 市場からほど近い広野の一角で向かい合い、ぶつかり合った両陣営は、いずれも十五に届かない少年ばかりである。

 味方は四人、敵は十人。

 ――上等だ。

 雑魚ほど群れたがるものだ。全く負ける気がしなかった。

 奇声を上げ、こちらにまっすぐに突っ込んで来たのは、先日喧嘩を売ってきた総大将だ。

「市柳(いちりゅう)! さんざんでかい顔しやがって、今日という今日は容赦しねえ」

 自分と同年代の割には大柄で太ってもいるが、常日頃、大人に混じって鍛錬している市柳にとっては大した問題ではない。

 振り下ろされた棍棒を華麗によけると、鼻で笑って怒鳴り返した。

「でかい顔してんのはてめえの方だろうが。おウチ帰って鏡を見ろや不細工野郎」

「あんだと、てめえが言えた面かよコラァ」

「やんのかコラァア」

 うおおお、と叫んで再び武器を振り上げた敵を嗤い、電光石火、市柳は相手のふところに勢いよく飛び込んだ。思いがけず接近され、目を大きく見開いたその顔に「馬鹿め」と呟く。

 市柳はこぶしを鋭く振り上げると、たるんだ顎にガツンと一撃を食らわせた。

「よっちゃん」

 周囲から悲鳴が上がる。

 先ほどまで大口を叩いていた敵は、ぐらりと揺れ、白目を剝いて昏倒した。

「よっちゃん、しっかりしろ、よっちゃん!」

「ちくしょう、覚えてやがれ」

 首領を引きずり、尻尾を巻いて逃げ去る敵の姿を見送り、市柳はやれやれと溜息をついた。

「全く、たわいもない……」

 そんな市柳を、わっと歓声を上げて舎弟たちが取り囲む。

「さすが市柳!」

「今日も一発だったな」

「人数差があったんで、一時はどうなることかと思いましたけど」

 おいおいおい、と市柳は眉根を寄せた。

「お前ら、あんな弱っちい奴らにびびっていたってのか?」

「だって、俺達の倍もいたんですよ」

「普通は勝てないッス」

「市柳が強すぎるんだよ」

「北領最強なんじゃないですか?」

「よせ。所詮、あいつらの実力がその程度だったというだけのこと……」

 かっけえ、と賞賛の眼差しを向けられ、はっはっは、と笑ってそれに応える。

「いやまあ、北領最強っていう称号は、あながち間違いじゃないかもしれないけどね!」

*     *     *

「調子に乗ってるんじゃねえぞ市柳!」

 強烈な張り手をくらい、市柳の体は吹っ飛び、障子を桟ごとぶち抜いた。

「いってーな、何すんだよ兄ちゃん」

 土間に転がり、ちょっと涙目になって頰を押さえる市柳の目の前には、怖い顔をした三人の大男が仁王立ちしている。

「いいかげん、ふらふらするのは止しなさい」

「他領の奴らとまで喧嘩しやがって」

「てめえには郷長一族としての自覚が足りねえ」

 発言の順に、市柳の父、長兄、次兄である。

 市柳の父は、山内は北領が風巻郷を治める郷長である。

 位階だけなら中央の高級貴族にも相当する父は、巌のような体軀と、微笑みかけるだけで子どもが泣き出す強面を持った豪傑であった。

 北領は、酒造と武人の地だ。

 大きな田畑こそないが、綺麗な水を使った酒造りが非常に盛んである。また、どの村にも最低ひとつは道場があり、普段は畑を耕している農夫も、有事の時には兵と化す。半農半士が大半を占める土地柄だ。まさに歩く岩山、笑っても泣いても恐い顔にしかならない貴族らしからぬこの風体も、この土地では大いに歓迎されていた。

 そして、その父とよく似ている長兄と次兄もまた、郷民からの信頼は厚かった。

 長兄は郷長の跡継ぎとして既に真面目に働いているし、次兄は上級武官を養成する勁草院を出た後、現在は中央で宗家近衛の任を与えられている。

 北領は人材を自領内で育てることに重きを置いており、腕に覚えがありさえすれば、ただの兵ではなく武官になる道が設けられている。その中でも特に優秀な者が行く場所こそ、勁草院なのである。

 そんな兄二人に対し、未だ将来を決めかね、同じような年頃の郷民と徒党を組んで遊びまわっている問題児の末っ子が、市柳であった。

「お前も元服して将来を考える時期に来ているんだ。自分のことなのだから、少しは真剣に考えたらどうだ」

 父親に低い声で諭され、市柳はむうっと口を尖らせる。

「放っといてくれよ。俺だって、色々考えているんだから」

 本来なら、父や長兄の手伝いをするため郷吏を目指すか、次兄のように上級武官を目指すかしなければならないのだが、どうにも決めかねているのである。机仕事など真っ平ごめんであるが、かと言って、このまま次兄のあとを追うように勁草院に入らされるのも面白くなかった。

「親父に向かって随分偉そうな口だな。考えがあるってんなら聞かせてみろよ、ほら」

 その場しのぎは許さねえぞ、と凄む次兄は、先ほど市柳を張り飛ばした張本人である。久しぶりに帰省したはいいが、市柳の喧嘩ばかりの素行を聞いて、頭に血が上ったらしかった。

 だが市柳からすると、三兄弟の中でも特に柄の悪い次兄と同じ道を歩むのかと思うと、どうにも癪でその気になれないのだ。兄には、弟が将来を決めかねている元凶は自分なのだと自覚してほしいものである。

「ええと、まず、郷吏にはならない」

「だろうな」

 お前にそんなおつむはない、と長兄におおまじめに断言されて腹が立ったが、あまり有効な反論が思い浮かばないので、それは甘んじて受け容れることにした。

「なら俺みたいに勁草院の峰入りを目指すんだな?」

 次兄に睨まれながら訊かれたが、これにも市柳は首を横に振った。

「いや、別に腕に覚えがあるからって、勁草院に行かなきゃ駄目っていうわけじゃないだろ」

「じゃあ、どうするつもりだ」

「さすらいの用心棒にでもなろうかなって」

 それで、この地を守るのだ。守護神のように。

 風巻の守護神、市柳。

 うん。思いつきで言ったことだが、結構かっこいい気がする!

「お前……」

「本当に、感動するくらい馬鹿だな……」

 兄二人に憐れむような眼で見られ、「なんだよ」と眉間に皺が寄る。

「兄ちゃん達は知らないだろうけど、これでも俺、『風巻の虎』って恐れられているんだからな!」

「くそだせえな」

「予言してやろう。十年後、お前は今の発言を心の底から後悔する。賭けてもいい。絶対だ」

 何故か並々ならぬ力を込めて長兄に断言されたが、その後ろで父が感心したような声を上げた。

「なるほど。だからお前の羽織には、こんなものがいるんだな」

 いつのまにか父は、市柳が家に帰って来て早々に脱ぎ捨てた長羽織を広げて眺めていた。

 きらきらと金糸が織り込まれた黒地には、跳梁する見事な虎と、揺れる柳が縫い取られている。

 次兄は、うわあ、と仰け反ってから、おっかなびっくり羽織に顔を近付けた。

「こんな悪趣味なもの、一体どこで手に入れてくるんだ……?」

「小遣いで端切れと糸を買ってきて、自分で縫っているみたいだぞ」

 中々上手だ、という父の言葉に、二人の兄は顔色を失った。

「正気か。それは俺も知らなかった」

「そこまでする? お裁縫って面かよ」

「うるせえなあ! 別にいいじゃねえか、誰にも迷惑かけてねえんだからよ」

 立ち上がって父の手から長羽織を奪い返そうとした瞬間、「うるさいのはどっちだい」と、この日一番の怒号が上がった。

「表にまで聞こえているんだよ。その薄汚い口を今すぐ閉じな、このおたんこなすども!」

 走りこんできた小柄な人影に、げえっ、と三兄弟の声が揃う。

「母ちゃん!」

 市柳の叫びに、母は細い眉を吊り上げる。

「母上と呼びな」

 わざわざ厨からやって来たらしい母は、しゃもじで横殴りにするようにして市柳の頭を叩いた。

「全く、あんたときたら、なんでこう駄目駄目なんだろうね」

 少しは垂氷(たるひ)の坊ちゃん方を見習いな、と嘆かれて、市柳は頭を押さえてもだえながらもカチンと来た。

 隣り合う垂氷郷の郷長家には、奇しくも風巻郷と同じように、三人の息子達がいる。しかも、長男と次男は年子で、市柳とほぼ同年なのだ。立場も年齢もよく似た彼らと市柳は、何かにつけて比較されていた。

「いや、聞き捨てならねえな。坊ちゃん方(・)ってのは何だよ。雪馬(ゆきま)はともかくとして、雪哉よりは俺の方がはるかにマシだろ」

 垂氷郷の跡取りである雪馬は、頭よし、見目よし、性格よしと、三拍子揃った俊英である。しかも年二回、北領の領主の前で行われる御前試合においても悪くない成績を収めているので、市柳としても彼が優秀であるという点について否やを唱えるつもりはない。

 だが問題は、雪馬のすぐ下の弟、雪哉である。

 奴は兄とは真逆で、頭の出来は悪い、見た目もよくはない、とんでもない意気地なしという出来損ないだった。試合でも、手合わせが始まると同時に半泣きになって順刀を放り出すものだから、雪哉の相手はほとんど不戦勝のようなものとして見られている。

 市柳は、自分のことを勉学こそあまり得意ではないが、見た目は決して悪くないし、性格だって男気があるし、何より腕っ節は身分を問わず最強だと自負している。

 雪馬はともかく、雪哉と比べて劣っていると思われるのはどうにも許容出来なかった。

「こないだだって問題を起こしていたし。どう考えたって俺のがまともじゃないか」

 新年の挨拶のため、北領領主の本邸に出向いた時のことだ。どうもよくない相手と喧嘩をして大敗を喫したらしく、領主に呆れられたと噂に聞いていた。

「いや、それだけど。垂氷の次男な、あの後、中央で宮仕えが決まったぞ」

「はあ?」

 長兄の言葉に、思わず素っ頓狂な声が飛び出た。

「え、あ、どうして? 宮仕えってのは何だよ」

「春から、若宮殿下の側仕えになるらしい」

「若宮殿下の側仕え……」

 阿呆のように鸚鵡返しにしてしまう。

 若宮は日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)の座についており、いずれはこの山内の地を統べるお方である。しばらくは外界に遊学していたが、先ごろ帰還し、そろそろ有力貴族の四家から正室を選ぶ登殿の儀が始まるはずであった。

 そんな山内きっての貴人の側仕えともなれば、雪哉の将来は約束されたも同然である。てっきり、雪哉はこのまま垂氷の冷や飯食いに甘んじるものと思っていた市柳からすれば、青天の霹靂であった。

「なんだかんだ言って、ちゃんとしているのよ。それに比べてあんたときたら」

 母に盛大に舌打ちされ、いやいや、と叫ぶ。

「おかしいだろ! いきなり、どうして雪哉が?」

「ああ見えて、垂氷の次男坊もお前より色々考えていたってことだろ」

 次兄に鼻で笑われ、まさかと叫ぶ。

「適当なこと言うなよ。あいつがそんなこと考えられるもんか。俺の方が強いし、多分、俺のほうがずっと賢いよ」

「お前、よくもまあそれだけ自分に自信を持てるよな」

 ある意味感心するわ、と次兄が呆れたように言う傍らで、長兄が苦笑した。

「あそこの次男だけ母親が違うからな。そっちの関係でお口添えがあったってことだろ」

 初耳の話に、市柳は目を丸くした。

「そうなの?」

「詳しくは知らないけど、色々あったみたいだぞ。今はもう亡くなっているが、次男君の母親のほうが、今の正室さんよりずっと身分が高かったらしい」

「それだけで、あいつの将来が決まっちゃうわけ」

 ――自分より劣ったあいつが、血だけを理由に一気に取り立てられる?

「そんなのずるいだろ」

 思わず顔をしかめて言うと、それまで黙っていた父が「りゅうくん」と神妙な顔で呼びかけてきた。

「他人のことをどうこう言う前に、お前はまず、自分も郷長家の一員なのだという自覚を持ちなさい。貴族としての振る舞いを身に付けなければ、宮仕えなど夢のまた夢だぞ」

「うちがお貴族さまって柄かよ。父ちゃん、この郷長屋敷が郷民から何て呼ばれているか知らねえの?」

 山城の雰囲気と相まって、「山賊の根城」という愛称を頂戴しているのだ。

 それを聞いた父は、岩が堆積しているようにしか見えない顔をぽっと赤黒く染めて、隣の妻のほうを向いた。

「そりゃ、お前……。忍さんが美人だから言われるのに違いないな。山賊にかどわかされたお姫さまにしか見えんもんなあ」

「いやだよアンタ。子ども達の前で何言ってるんだい」

「だって本当のことだから」

 真っ赤になって恥じらう母と父を前に、一瞬にして三兄弟の空気がしらけたものに変わる。

 うわ、出たよ。

 やってられねえ。

 いい年して何をやってんだ。

 三兄弟の心は一つになったが、父が一度惚気始めると、ひたすら終わるのを待つしかない。

 母の忍は、もとは貴族の生まれですらなく、武術大会で並み居る敵をなぎ倒し、郷長家の正妻の座を腕力で勝ち取った女武芸者である。現在でも、図体の大きい息子達を片手であしらい、風巻の郷長屋敷で最強を誇っている。

 小柄で目つきが悪くて罵倒の切れ味鋭い母は、身内の贔屓目を最大限に活用したとしても十人並みの容姿である。お姫さまどころか女盗賊もいいところなのだが、何故か父の目には絶世の美姫に見えているらしかった。

 ひとしきり妻といちゃいちゃした父は、息子達の眼差しに気付くと、こほん、と空咳をした。

「ともかくだ。お前がなりたいと言ったのは、さすらいの用心棒だったか? お父さんは、お前が本気でそれになりたいのだと言うならば反対はせんぞ。出来る限りの協力だってするつもりだ」

「ほんとに?」

 だがな、と即座に続けた父の態度は、母に相対していた時とは別人のように威厳があった。

「今のお前は、全く本気などではないだろう。適当なことを言っているうちは、お父さんは持てる力の全てを以って、お前の世迷いごとを叩き潰すからな」

 真剣な言葉を、流石に茶化すことは出来なかった。

「勁草院を目指すのならば、そろそろ本格的に峰入りの準備をせねばならん。真剣に己の将来を考えなさい」

 いいね、と念を押す父の両側には、腕を組んでこちらを睨みつける母と、恐い顔をしている二人の兄がいる。

 冷たい土間で正座した市柳は、釈然としない思いを抱えながらも、「ハイ」と答えるしかなかったのだった。

*     *     *

 毎年二回、祈年祭と新嘗祭に先駆けて、北領で一番大きな寺院において、大規模な武術大会が開かれる。

 北領の各地から、腕に覚えのある成人前の少年達が集められ、その中でこれはという子どもに祭り当日に奉納試合をさせるのだ。勁草院への峰入りを目指す平民の少年達にとっては、自分の力を有力者に訴えるための良い機会であり、勁草院からも何人かの教官が見に来ている。

 そして、北領の武家に生まれ育った子らにとっては、叩き込まれた武術を披露するまたとない機会でもあった。

 空には雲ひとつなく、寺院の軒先に吊るされた幕が華やかに翻っている。

 暦の上では明日にも春を迎えるというのに、相変わらず空気は冷たく、人々の呼気は白くけぶっていた。

 事前にきちんと温めておかねば、うまく体が動かなくなるような寒さであるが、普段から寒空の下を喧嘩して回っている市柳からすれば、いつものことである。

 寒そうにしている見物客の前で、華麗に、見事に、危なげなく勝ちを決めていった。

「一本、白!」

 わっと盛り上がる観客に向け、市柳は高々と順刀を掲げて見せる。

 三試合目において対戦し、市柳が見事に勝利を収めたのは、さんざん家族から見習えと言って聞かされた垂氷の雪馬であった。

「相変わらず強いな、市柳」

 互いに礼をし終わった後、にこやかに話しかけて来たのは雪馬のほうである。

 頰は上気し、髪も少し乱れているが、その表情には屈託がなく、育ちのよさが表れていた。綺麗な顔立ちをしていることもあり、きゃあきゃあと小うるさい女達が集まっていたので、そんな奴らの目の前で一本勝ちを決められたのはとてつもなく気持ちがよかった。

「まあな。これでも『風巻の虎』と呼ばれているものでね」

「市柳のそういうところ、俺は嫌いじゃないぞ」

 真似したいとは思わないけど、と笑いながら言われ、どういうことかとも思ったが、聞き返す前にひらりと手を振られた。

「次、弟の試合だから」

 またな、と駆けていく後姿まで爽やかな男である。

「負けたのにかっこいいっスね」

「さすが、未来の郷長さんだなあ……」

 思わず振り返ると、普段から一緒につるんでいる友人達がいた。この二人も試合に参加していたが、早々に負けてから市柳の応援に回っているのである。両親も長兄も、今は上座の領主の近くにいるはずなので、そばで市柳を応援してくれているのは、この二人だけであった。

「勝ったのは俺だけど」

 飛び出た声は、自分でも思いがけず平坦なものだった。

「いや、勿論一番かっこいいのは市柳さんですよ」

「そう拗ねんなって」

「拗ねてなんかいませんけど」

 先ほどまでの高揚感は、噓のように消えてしまっている。

 慌ててとりなそうとする友人達を従えたまま、無言でずんずん歩いて行く先は、雪馬が向かった試合場である。

 境内の一角の人波の中、白線で四角に囲まれた試合場で、そいつは対戦相手と礼を交わしているところであった。

 いかにも自信がなさそうな顔をしたそいつこそ、垂氷の出来損ないの次男坊こと、雪哉であった。

 ふわふわとした癖っ毛に、赤い鉢巻を巻いている。年の割に体格も悪く、雪馬と違い、顔立ちも整っているとは言いがたい。

 頑張れ雪哉兄、と試合場のすぐ横で声を張り上げている小さい子どもは、垂氷の三男だろう。その隣には、先ほどまで自分と戦っていた雪馬が、どこか不安そうに弟を見守っている。

「はじめ!」

 審判の声と同時に、対戦相手の白鉢巻が気合の声を上げる。それにびくりと体を震わせた雪哉の剣先が、不安定に上下した。

 ああ、あれじゃ駄目だな。

 市柳がそう思う間もあればこそ、白鉢巻は即座に打ちかかっていき、雪哉はあろうことか、ぎゅっと目をつぶってしまった。

 案の定、勝負はその一瞬でついた。

「……あんな奴が若宮殿下の側仕えなんて、世も末ってもんだな」

 兄弟に慰められている姿を見るにつけ、どうにもならない苛々が募る。

 ついつい愚痴っぽくなった市柳の言葉に、友人達があからさまに食いついた。

「あいつより、市柳さんの方がずっとふさわしいと思いますよ」

「お兄さんの方ならともかく、あれじゃ北領の面汚しになりかねねえもんな」

 だよなあ、と市柳は心からそれに同意した。

 雪哉が中央で宮仕えするということは、試合場に来てからも盛んに噂されていた。

 そこで新たに聞いた話からすると、どうも、もともと若宮の側仕えになる予定だったのは他の貴族だったらしい。だが、そいつは平民と勘違いして雪哉と喧嘩し、おまけに怪我をさせてしまい、その罰でお役目を譲る羽目になったのだという。

 平民だからと言って怪我をさせていいという道理は全くないし、その貴族は罰を受けてしかるべきだと市柳は思う。だが、雪哉を貴族ではないと勘違いするのも無理はないし、結局、雪哉の方が血筋が良かっただけで結末が全く異なってしまったというのは、なんとも気持ちの悪い話だと思った。

「でも、もしそうなると分かって貴族に喧嘩をふっかけたんだとしたら、あいつ、相当な策士だよな」

「怖いこと言うなあ」

「力はない分、頭を使って、とかさ。貴族にありがちな話だろ?」

 友人達の言葉を、市柳は鼻で笑う。

「雪哉にそんな頭あるかよ。単に、運が良かっただけだろう」

 友人達は、どうやら地方貴族に対して過剰な夢を抱いているらしい。そうかなあ、案外分かってやっているかもしれねえじゃんと好き勝手なことを言う。

 市柳は、竹筒から水を飲みながら試合場を去っていく雪哉をちらりと見た。

「あいつ、母親の身分が高いらしいからな。もし、計算でそういうことが出来る奴なら、雪馬を追い落として自分が次の郷長になるくらいのことするんじゃねえの」

 あり得ない話だけど、と市柳は吐き捨てる。

「血筋だけで全部上手くいったら、俺達は真面目になんかやってられねえよな」

*     *     *

 市柳は大会において、三番手につける成績を収めた。今年、勁草院へ入峰する見込みの者も参加した中では、結構な好成績と言えるだろう。

 一番になれなかったのは残念だが、奉納試合に出なくてもいいという意味では、三番手は最も気安くて望ましい結果とも言える。試合さえ終わってしまえば、あとは祭りの間、北領で一番大きな町で遊びまわって帰るだけなのだ。

 北領において、冬場に仕込んだ冬酒が最初に出回るのが祈年祭である。明日になれば新しい酒が出回るというこの日、晩秋に造った秋酒があちこちで振舞われ、寺院前の参道ではたくさんの出店が肴を売り出すのだ。

 試合の合間にちょっと覗いただけでも、玉にした蒟蒻を甘辛く煮る大鍋から醬油の焦げる香りがぷんぷん漂い、味噌を塗って焼いた鶏の串焼きからは金色の脂がとめどなく垂れていた。

 今日の夜はあちこち食べ歩こうと考えながら、市柳が上機嫌で道着を脱ごうとした時だった。

「あのう、市柳さん?」

 振り返って、思わず顔が引きつった。

 見下ろす位置にある、茶色っぽい癖っ毛。上目遣いでこちらを見る小柄な少年。

 そこに立っていたのは、垂氷の雪哉であった。

 小さい頃から、領主の本邸の集まりなどでは時々一緒に遊んだ仲である。だが、今となってみれば、親しくしたいと思える相手ではなかった。

 何の用かは知らないが、適当にあしらってさっさと遊びに行こうと思ったのだが、雪哉から告げられた言葉は、思いもよらないものであった。

「手ほどき? 俺がお前に?」

「はい。僕、今日も全部の試合で負けてしまって……」

 塩茹でした菜っ葉のように萎れて雪哉は言う。

「流石に、このままではちょっとまずいなと思って。どうか、市柳さんにご助言頂きたいんです」

「なんでまた俺に。お前、もうすぐ中央に行くんだろ。見かねた垂氷の奴らが教えてくれるんじゃねえの」

 何とも皮肉っぽい言い方になってしまったが、雪哉はそれには気付かぬ様子で「いいえ!」と元気いっぱいに答えた。

「是非、市柳さんに教えて欲しいんです。垂氷のお師匠さま達はもうご年配なので……年が近くて強い方のほうが、きっと有益なお話が聞けるはずです。それに今日の市柳さん、とっても格好良かったですから」

「そ、そうか?」

 憧れちゃいます、と尊敬の眼差しを向けられて、決して悪い気はしない。

「お願いします。この後、少しだけで構わないので」

 まあ確かに、雪哉自身は悪いことをしていないのに、少しやっかみ過ぎた気がしなくもない。殊勝に教えを請いに来るとは、可愛いところもあるものだと思った。

 ちらりと窓の外を見れば、格子のむこうは赤く染まっている。

 友人達は先に神楽を見に行くと言っていたから、合流するまでにはまだ少し時間があった。

「そこまで言うなら、軽く教えてやってもいいかな」

「本当ですか」

 実はもう、道場は借りてあるんです、と雪哉は無邪気にはしゃぐ。

 連れて来られたのは、昼間、参加者達が控え室に利用していた小講堂であった。たむろしていた者たちはとっくに外に出たようで、日中はあれほどいた人影はひとつとして見当たらない。

「今日のような大きな試合には使われないようですが、普段は練習用の道場なのだそうです。個人的に練習したいと申し上げたら、好きに使って構わないと」

 そう言った雪哉は、部屋の隅にある燭台に明かりを点けてから入り口に戻り、両手で丁寧に引き戸を閉めた。

 よく蠟の塗られた戸はつかえることなく動き、パシン、と軽やかな音を立てる。

「さて……」

 くるりと振り返った顔には、横からの細い炎の光に照らされた、屈託のない笑みが白く浮かび上がっていた。

「ご指導、よろしくお願いいたしますね」

「おうよ」

 気軽に言い、講堂の隅に並べられた順刀から、なるべく状態の良いものを選ぶ。審判はいないが、師匠との地稽古のように、手合わせのような形でその都度気付いたことを言ってやればいいだろう。

 開始線に立ち、頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「お願いします」

 そして、順刀を構えた。

 ――何か変だと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 足が伴ってねえぞ、姿勢が悪い、と声を掛けながら一合、二合と打ちあった時、最初の違和感を覚えた。

 雪哉は弱々しく体を小さく縮めるようにして順刀を構え、全く手元が堅いようには見えない。それなのに、隙だらけだと思って打ち込むと、その割に打突が全く入らないのだ。市柳が打ち込む度に、「ひええ」とか「うわあ」とか情けない声を上げているくせに、払う、受けるの動作に危なげがない。

 あれ、と思って一度引き、まじまじと様子を見ても、雪哉は怯えたようにこちらを窺うのみだ。

「……どうした。自分から打ち込んで来いよ」

 挑発すると、困った顔でへろへろと打ち込んできた。うまくそれを返して即座に突き込むも、ひょい、とかわされて剣先が空を切る。

 一瞬、呆然となった。

 今、自分は結構、本気で打ち込むつもりだったのに。

 雪哉は相変わらず、情けない顔でこちらを見ている。そして、どうしたんですか、とでも言うように首をかしげた。

 その目がどうにも、怪しく光って見えた。

 市柳は憤然と息を吐くと、今度は一切の油断なく、裂帛の気合と共に打ちかかった。

 市柳の態度が変わったとみるや、すっと雪哉の姿勢が伸びる。体から余分な力が抜け、重心が定まり、足捌きが一気に滑らかになる。

 もう、こちらを見上げる表情に、怯えは微塵も見えなかった。

 こいつ――と、頭に血が上る。

 市柳は全力で打ち込み、叩き、突くが、いずれも軽やかに払われ、流され、かわされる。

 こちらは本気で一本を取ろうとしているのに、あちらには何も届かない。しかも奴は、防ぐのに終始し、全く反撃しようとしないのだ。

 どんどん息が上がり、徐々に、腕が重くなっていく。

 口の中に血の味がして、視界がにじみ、汗が目に入ったのだと分かった。

 とうとう、渾身の力で振り下ろした一刀をがっつり受け止められて、動きが止まった。

「もう終わりですか?」

 鍔迫り合いになっているのに、そう言う雪哉は顔も声も涼しい。

「僕に手ほどきしてくれるんでしょう? はやく、次を教えてくださいよ」

 ぶるぶる腕が震え、押されていく。

 雪哉の目は、いつの間にか先ほどとは別人のように冷ややかなものとなっていた。

「ほら……早くしろって言ってんだよ!」

 その瞬間、目の前の雪哉が消えた。

 何が起こったのかわからないまま、足元に衝撃を受けてその場に転がる。

 反射的に受身を取った市柳が目にしたのは、大上段に順刀を振り上げ、醜悪な笑みを満面に浮かべた雪哉の姿だった。

 腕で顔を覆う間もあればこそ、次の瞬間には、まるで降り注ぐ霰にさらされたかのように、冷たく感じるほどの鋭い衝撃と痛みが次々に襲い掛かってきた。

「ああ? どうした市柳、これで終わりか」

 悲鳴を上げて逃げようとするも、姿勢を変えた瞬間に勢いよく蹴り飛ばされる。

 口ほどにもねえなあ、と笑いながら、雪哉は転がる市柳に対しても容赦なく追撃を加えてきた。バシバシバシバシと、あまりの速さに打撃の音が連なって聞こえるほどだ。

 やめろ、やめてくれ頼む、と何度も悲鳴をあげ、ようやくぴたりと雪哉は止まる。

「わ、悪かった。俺が、お前を馬鹿にしたのを怒っているんだよな?」

 それは謝るから、と半泣きになりながら言うと、「おや」と雪哉は目を丸くした。

「お前、僕のこと馬鹿にしてたの。そいつは初耳」

 とんだ藪蛇だった。

 思わず白目を剝きそうになった市柳の襟をつかみ上げ、雪哉はせせら笑う。

「ま、おおかた想像はつくけどね。お前が僕をどう思おうが、別に知ったこっちゃねえけどさ――自分の立場を、良く考えてから口を開けよな」

「たちば……?」

「今日の試合場で、俺が将来、垂氷の郷長の座を乗っ取るはずだと言っただろう。俺の方が兄上より血筋が良いからと」

 忘れたとは言わせねえぞ、と凄まれ、ひゅっと喉の奥が鳴った。

「いやいやいや、待て! それは、そんなことあり得ないという前提でだな!」

 うるせえ黙って聞け、と怒鳴られ、顔を殴られる。

「お前がどういうつもりだったかは関係なく、現に、そういう噂が会場でさんざん流れてんだよ。てめえの連れの二人組、ペラペラペラペラよく囀るもんだなあ、オイ」

 まさか、あの二人も同じような目にあわせたのかとぎょっとすれば、雪哉は「みくびるな」と吐き捨てた。

「彼らには懇切丁寧に、そういうことはないと説明してご理解頂きましたとも。僕が怒っているのは、彼らではなく、あんたですからね」

「じゃあ、なんで」

「自分が何者か、本当に自覚がないんだな」

 心底呆れたように溜息をつき、雪哉は床に市柳を放り投げた。

「風巻郷、郷長家が三男坊、市柳――」

 あんたはそれでも貴族(・・)なんですよ、と言いながら、雪哉は市柳を持ち上げる際に落とした順刀を拾った。

「本人は単なるやっかみのつもりでも、郷長一族の言葉となれば、それを聞いた奴は本気にする。郷長家の奴がいうのだから、きっとそうなんだろうってね。変な信憑性を持って、噂が一人歩きをする」

 ――他人のことをどうこう言う前に、お前はまず、自分も郷長家の一員なのだという自覚を持ちなさい。

 脳裏に閃いたのは、こちらを諭す、父の優しい声だった。

「僕だって、生まれひとつで何もかも変わっちゃうなんて馬鹿らしいと思っているさ。でも、それで受けた恩恵があるのは事実だし、少なくともお前よりは貴族が何か(・・・・・)は分かってるつもりだ」

 パシン、と手に順刀を打ち付けて、雪哉は汚物でも見下ろすかのような目でこちらを見た。

「貴族の受ける恩恵と責任は等価なんだ。あんたがその年まで働かずに済んで、北領全体で三番目になれるくらいみっちり稽古をつけてもらっているのは、地方貴族という身分にあるからだろう。それを忘れて、よくもまあ、僕の血ばっかり羨むことが出来たもんだな」

 それを聞かされるほうもさぞかし反吐が出ただろうよ、とそう言う雪哉に返す言葉がない。

「いいか、よく聞け市柳。僕は兄上の座を奪うつもりなど欠片もないし、将来は勁草院にも、中央にもいかない。一生、兄上の下でひたすらに働くつもりだ」

 これまで、僕がどれだけ心ない邪推に苦労したと思っていると、そう語る雪哉の顔はどこか苦しそうに歪んでいた。

「兄上を立て、そんな野心はないと公言して、やっと落ち着いてきたってのに……。ただでさえ僕の中央行きで不安定になっているところに、お前のいいかげんな一言をぶち込まれて、それも今日一日でパーになった」

「ご、ごめん――」

「別に、謝ってくれなくて結構ですから。ほら、立ってくださいよ市柳さん。僕に稽古つけてくれるんでしょ?」

 言いながら、雪哉は順刀を一閃させる。

 転がってそれを避け、這うように逃げる市柳を、雪哉はけらけら笑いながら悠然とした足取りで追って来る。

「蚯蚓みたいに地面でのたくってないで、さっさと立てよ」

 立てるものならな、と心底楽しそうに雪哉が叫んだ、その時だった。

「やめろ、雪哉!」

 悲痛な声と同時に、閉め切られていた引き戸が開いた。現れた蒼白な顔の雪馬の前で、順刀を振り上げた状態で雪哉が固まった。

「兄上」

「もういいだろう。市柳だって、悪気があったわけじゃないんだから」

 急いで、ここを探していたのだろうか。雪馬の額には汗が浮かび、肩が大きく上下していた。そんな兄を前にして、雪哉は少し考えるように視線をめぐらせると、ゆっくりと順刀を下ろした。

「それは、命令ですか?」

「何?」

「兄上の命令ならば、従います」

 じっと見つめあう二人を、市柳は祈るような気持ちで見守る。しばしの後、雪馬は、どこか悲しそうに口を開いた。

「次期郷長である、僕の命令だ。やめなさい」

「分かりました」

 順刀を放り出した雪哉は、そのままくるりと振り返ると、まるで屈託のない笑みを浮かべた。

「ないとは思いますが、もし垂氷に悪意ある行為を志すことがあるならば、十分にご注意下さいね。その時は、全身全霊をかけてこの僕が、あなたのお相手つかまつりますよ」


「ごめんな、市柳」

 あいつも色々鬱屈しているからと、去り際に囁いた雪馬の声は、ずっと市柳の心に残った。

 ――でも、市柳も気を付けたほうがいいよ。俺達って、俺達だけの体じゃないから。

「好き勝手は出来ないってことだよなあ……」

 いてて、と声を上げる。

 市柳は昼間の試合のために残されていた傷薬を借り、講堂の広縁で傷の手当をしていた。

 間違いなくわざとだろうが、見事に、服の下に隠れる場所にしか打撃は与えられていなかった。自分とは全く違う方向ではあるが、明らかに慣れた手口である。

 それだけでもこれまで垂氷の兄弟が辿って来た道が知れるようで、怖いとか、悔しいとかいう思いがある反面、なんだか可哀想な気もするのだった。

 参道の方からは、賑やかな音楽と人の笑い声が聞こえている。

 あいつがその気になれば、今日の試合だって順位は大いに変動したと思えば、浮かれて遊びに行く気もそがれてしまった。

「あああ、ちくしょう!」

 叫んで、広縁で大の字になる。

 喧嘩では容赦なく手が出るし、貴族らしからぬ罵倒は絶えない家族ではあるが、今更ながら、自分の家は本当に恵まれていたのだなと思う。

 よし、勁草院へ行こう。

 そうすれば、きっと家族は喜んでくれるはずだ。それにそうすることが、きっと雪哉の奴が言う「責任」を果たすことになるのだろう。

 ――それに、まあ、雪哉は勁草院には行かないって言っていたし。

 とりあえず、『風巻の虎』を名乗るのはもう止めよう、と思った。

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