「出世渇望する男性描く」清少納言の共感呼ぶ文才
清少納言。大河ドラマではファーストサマーウイカさんが演じる(写真:公式インスタグラムより引用)
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は現代人でも共感を抱く、日々の景色を描いた、清少納言の文才を紹介します。
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清少納言を猛烈批判した紫式部
平安時代中期の『源氏物語』の作者・紫式部は、同時代に生きた女性歌人の清少納言を自身の日記の中で批判していました。
清少納言の性格を「得意顔でとんでもない人だったようですね」と非難し、作品や能力を「利巧ぶって漢字を書き散らしている」「学識がまだまだ足りない」などと、強い言葉が並べられています。
しかし、清少納言が書いた随筆『枕草子』は、紫式部の『源氏物語』と並び、今も教科書などで取り上げられるほど有名で人気の作品です。
『枕草子』の冒頭は、学校の古典の授業で大半の人は習ったはずです。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて……」。この一文を暗誦できる人も多いのではないでしょうか。
とはいえ、学校の古典の授業では、『枕草子』だけに限らず、書かれている一節をサラサラと読んで、教師が中身を解説し、それを何周か繰り返したうえで、「はい、では次の作品を学びましょう」となってしまうことが大半だったと思われます。
それでは、作品の全体像はわかりませんし、「あの頃、枕草子の一文を覚えさせられたな」くらいしか記憶に残らないでしょう。先人が記した貴重な作品を味わうことなく、人生をすごしてしまうのは、もったいないことです。
『枕草子』には、一体、何が書かれているのかを探っていきたいと思います。
同書の冒頭は先ほど記したように、「春は曙。ようやく辺りも白んでゆくうち、山の上の空がほんのり明るくなって、紫がかった雲の細くたなびいた風情」とあります。
続いて「夏は夜。月のある頃はもちろん、月のない闇夜でも、やはり、蛍が沢山、乱れ飛んでいる風情。また、ほんの1つか2つ、ほのかに光って飛んでゆくのも、趣がある。雨が降るのも、趣がある」。
そして「秋は夕暮、雁などが列を作り、小さく小さく空の遥かを渡っていくのは、とても趣がある」。
最後に、「冬は早朝、霜が真っ白におりているのも、またそうでなくても、とても寒い朝、火を早急に起こし、炭を御殿から御殿に運んでいくのも、冬の朝の光景として、相応しい」。
1年のすべてに「趣がある」と書いた清少納言
ここまでは学校で習った人も多いでしょう。清少納言は、その月々、1年のすべてに「趣がある」と書くのです。
春夏秋冬の趣を記した後は、清少納言自身が「面白い」と感じたことを書き連ねていきます。
清少納言。大河ドラマではファーストサマーウイカさんが演じる(写真:公式インスタグラムより引用)
例えば、元旦は空の様子もうららかで、改まった感じになっているのに、世間の人は皆、衣装や化粧を丁寧にして、主君や自身のことを「末長く」と祝っているのは、普段と様子が違い「面白い」と清少納言は述べます。
また、1月7日に若菜を摘んできて、普段は近くで見もしないのに、この日ばかりは、御殿の中で大騒ぎをして、手に持っているのは「大変、面白い」と述べています。
今を生きるわれわれも、1月7日になれば(普段はそんなこと思いもしないのに)「七草粥、食べようかな」と思い始めるのと一緒ですね。人間の「可笑しな」心理というものは、今も昔も変わらないのかもしれません。
清少納言はこのように季節の行事や風習の一コマも記していきます。
春に地方官を任命する儀式「春の除目」の頃の人々の様子も、清少納言は書きとどめています。
自分を売り込む男性の姿も描く
清少納言には、四位や五位のまだ年若い人たちは、意気揚々として、頼もしく見えました。一方、年を重ねて白髪になった男性は、女房に取り次ぎを頼んだり、女房がいる「局」に立ち寄り「私は、とても才能ある人物である」などと、独りよがりの態度で、話して聞かせています。
なぜ、この男性がそんなことをするかというと、女房たちに自分のことを売り込むことで、宮中で知らせてもらい、少しでもいい役職に就きたいと願っているからです。
現代でも、これと似たような話はありますよね。人間心理として、それもわからなくはありませんが、見苦しいと言えば、見苦しいでしょう。清少納言は、そういった人は、女房たちから、陰で馬鹿にされ、口まねをされて、笑われていたと書いています。
当然、本人はそんなことは知りません。必死になって「どうか、よしなに主上(天皇)に申し上げてください。中宮様にも」と頭を下げて頼み込むのですが、そうやって頼み込んだとしても、念願かなう人もいれば、かなわない人もいる。玉砕した人は「本当に気毒千万だ」と清少納言は同情しています。
『枕草子』のなかの季節の描写は美しく、平安時代の風景が頭に思い浮かぶかのようですが、私が同書の中で興味深く思うのは、さまざまな出来事に対して、清少納言がどう思ったかという感想が書かれているところです。
そのほかに、このようなシーンもあります。清少納言は「可愛く思う子供を坊さんにしたのは、大変、気の毒なことだ」と語ります。
なぜでしょうか。「世間の人が、坊さんを木の切れ端か何かのように、つまらぬ者と思っている」からだと言います。
精進物はとても質素であり、居眠りするのさえ、側からやかましく言われる。若いうちは、好奇心もあるだろうに、女性がいるところに行くこともできないなんて「不自然だ」とも清少納言は言うのです。
「ちょっとくらい、そういうところに、行ってもいいじゃないか」と清少納言は言うのでした。なんと理解がある平安女性でしょうか。
修験者ともなると、更に苦しそうに見えると清少納言は書いています。疲れて居眠りしていても「居眠りばかりしおって」と文句を言われるからだと言います。
清少納言の文才が垣間見える
「身の置き所がなく、どんなにつらいだろう」と同情しています。しかし、最後の一文には、どんでん返しの一言も書かれています。
「ただし、こんなことはもう昔のことのようだ。今は、ひどく気楽そうだ」と。この落差といいますか、どんでん返しの展開もある、清少納言の文才。なかなかのものと感じるのは、私だけでしょうか。
(参考文献)
・石田穣二・訳注『新版 枕草子』上巻(KADOKAWA、1979)
・渡辺実・校注『枕草子』(岩波書店、1991)
(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)