柴田さんが遠距離介護を選んだ理由や実際どのように介護をしているのか、教えてもらいました(撮影:今 祥雄)

女優として舞台やドラマに出演する一方、明るくユーモアあふれる人柄でバラエティでも人気の柴田理恵さん。その活躍の裏で、富山に住む94歳の母・須美子さんの遠距離介護を6年続けてきたと言います。

そんな柴田さんが、著書『遠距離介護の幸せなカタチ――要介護の母を持つ私が専門家とたどり着いたみんなが笑顔になる方法』を出版。本書では、柴田さんが遠距離介護を決断するまでの過程や日々の介護について赤裸々につづられるほか、「介護」「医療」「お金」の3人の専門家とともに、介護に役立つ知識をわかりやすく解説しています。

インタビュー前編では、柴田さんが遠距離介護を選んだ理由や実際どのように介護をしているのか、明かしてもらいました。

元気に一人暮らししていた母が突然、病に

――お母さんの遠距離介護が始まったきっかけについて教えてください。

2016年に父が亡くなった後、母は富山の実家で一人暮らしをしていたんですね。それまで一人で元気に暮らしていたんですけど、2017年の10月半ばごろに急に体調を崩して入院。腎臓が細菌に感染して炎症を起こす「腎盂炎」と診断されました。

ちょうどそのころ、偶然にも富山でロケがあったので、撮影の合間に病室に駆けつけると、母は意識が朦朧としていて……。お医者さんから「もしお母さんに何かあったら、延命治療をなさいますか?」と聞かれたときは、目の前が真っ暗になりました。

その日は撮影の合間だったので、30分ぐらいしか居られなくて、「母と会えるのはもうこれで最後かもしれない」と胸が引き裂かれる思いで病室をあとにしました。

――その後、お母さんはどうなりましたか。

1週間後に病院を訪ねたら、意識がはっきりしていたんです。「な〜に、まだ死にゃあしないよ」と、いつもの母の口調が聞こえたのですごくホッとしました。

ただ、身体はかなり弱っていて寝たきり状態に。「要介護4」との認定を受けました。これは介護なしに日常生活を送れない重度の状態です。

入院する前は最も軽い「要支援1」だったので、これからどうやって母の生活を支えていけばいいのか、悩みました。

「東京の家に引き取って一緒に暮らしたほうがいいのでは?」とも考えましたが、すぐに「これは違うな」と思い直して。というのも、父が他界した後、「一緒に東京で暮らさない?」と母に聞いたら、「絶対に嫌だ」とキッパリ断られたんですね。

そのとき母は強い言葉でこう言いました。

「私は生まれ育った富山を離れたくない。ここには自分の大事な友人もたくさんいるし、まだまだやりたいことだってある。それに自分の人生は自分のもので、あんたの人生はあんたのもの。だから、子どもの世話にはなるつもりはない」

母の大事なものはすべて富山にある。ならば母がこの土地で暮らし続けられるように、私は遠距離介護という形でサポートしていこうと決めました。

仕事に情熱を注ぐ母が大好きだった

――お母さんは、すごく自立されている方なんですね。

子ども時代は、めちゃめちゃ怖かったですけどね(笑)。昔から「子どもと親は別物」という考えが強くて、「たとえ親子であっても依存し合うのは好きじゃない」とよく言っていました。

普通は、子どもが大学に行って離れて暮らすようになったら、親は心配して食べ物とか送ってくれることが多いじゃないですか。うち、1回も送ってくれたことがないんですよ(笑)。

学生時代に、「お母さん、お菓子とかカップラーメンとか送ってくれないの?」と聞いたら、「あんたの好きなお菓子なんて知らんもん。ラーメンなんて自分で買えるだろ」とピシャリ。

親子関係はさっぱりしていたけれど、心根があったかくて、長年教師という仕事に情熱を注いできた母が大好きでした。

だからこそ、私も自分の仕事に全力を注ぎたいと思うようになりましたし、母の介護が始まっても、仕事を手放さずに続けていこうと決心できたのだと思います。

――要介護4の状態だったお母さんをどのように支えていきましたか。

母に「元気になったら何したい?」と聞いたら、「お酒が飲みたい」と(笑)。「じゃあ、お正月に家に帰って、一緒においしいお酒が飲めるように頑張ろう」と励ますと、リハビリに熱心に取り組むようになりました。

ところが12月初旬に、夜中にトイレに行こうとして転倒し、腰椎を圧迫骨折しちゃったんです。気丈な母もさすがに落ち込んでいて……。


柴田さんとお母さま(写真:『遠距離介護の幸せなカタチ』)

2週間は安静にして、リハビリを再開。でも、そこからの母の回復は驚異的でした。半月ほどで杖をつきながら歩けるようになり、お正月に一時帰宅が許されたんです。

そのとき、母と一緒に飲んだ日本酒の味は格別でしたね。

要介護4から1に。一人暮らしを再開

――目標があるとリハビリを頑張れるんですね。

そうだと思います。目の前にご褒美があると頑張れると思ったので、私はそれを「ニンジン作戦」と呼んで、母のやる気を引き出すようにしていました。

退院後、介護施設でリハビリをしていくと、みるみる回復して要介護1に。春には無事に一人暮らしを再開できました。

――自宅ではどのような介護を?

近くに住む親戚のヒトシくん(母方のいとこの息子さん)に日々の母のサポートをお願いしつつ、月曜・金曜はデイサービス、火曜・木曜・土曜はヘルパーさんに来てもらうことにしました。

ただ、週1回、水曜日だけは「お休み」にして、母が自由に過ごせる日をつくったんです。

母は、教師の仕事を辞めた後、近所の子どもたちや地域の人たちに、お茶と謡を教えていたので、水曜日をそのお稽古の日に当てたんですね。すると、その日を狙って親戚やご近所さんたちが遊びに来てくれるようになりました。

誰かとお茶を飲んだり、おしゃべりしたりする時間があれば、一人暮らしでも孤独になりません。やはり、人と会うと気持ちにハリが出るんだなと実感しました。

――デイサービスに通うことについて、お母さんはどんな反応でしたか。

母はデイサービスのことを「学校」と呼んでいて、楽しみにしていたようです。1時間目は塗り絵だから美術、2時間目は字を書くから国語。お昼に給食を食べて、午後はお風呂に入って帰ってくる。そうやって前向きに通っていました。

そこでデイを週3日に増やしたところ、母が「疲れるわ」と本音をもらして。すぐに元の週2日に戻しました。さすがに連日の外出は疲れてしまったようです。

――要介護のお母さんの一人暮らしは心配も多かったのでは?

そうですね。なので、毎日実家に電話を入れるようにしていました。

とくに夏の時期は、熱中症が気がかりでした。たまたま母の家に遊びに来た方が、部屋に入った瞬間、「暑い!」とびっくりして。急いで冷房をつけてくれて、母にお水もたくさん飲ませてくれて、命拾いしたこともありました。

現在、母は入院生活を送っているんですけれど、後半のほうの一人暮らしは、だいぶ危ういこともありましたね。

親がどういう暮らしを望んでいるかが大事

――「高齢の親の一人暮らしは危ないから」と、施設への入居を望む家族も多いと聞きます。

その気持ちはよくわかります。ただ、一番大事なのは「親御さん自身がどんな暮らしを望んでいるか?」かなと。親御さんが「私は一人でいるのが不安だから、施設に入りたい」と望むなら、そうしてあげたらいいですし。

「どうしても家に居たい」という望みがあって、それが可能な状況なら叶えてあげるといいと思います。もちろん認知症の有無など、親御さんの身体の状況にもよると思いますが……。

母は「家に帰りたい」という気持ちが人一倍強かったので、尊重したいと思いました。ただ、リスクはあるので、本人に「夜中に何かあって、誰も気が付かずに死んでしまうこともあるかもしれんよ。それでもいいの?」と確認したんですね。そしたら、「それでいい」と。

「誰も助けてくれなくても化けて出んといてね」と念を押すと、「化けて出ません」と約束してくれたので、私も腹をくくりました。


柴田理恵(しばた・りえ)/女優。1959年、富山県生まれ。1984年に劇団「ワハハ本舗」を旗揚げ。舞台やドラマ、映画などで活躍する一方、明るく飾らない人柄で老若男女を問わず人気を集め、バラエティにも多数出演。著書に『遠距離介護の幸せなカタチ』(祥伝社)のほか、絵本『おかあさんありがとう』(ニコモ)などがある(撮影:今 祥雄)

――遠距離だけに大変なことも多いと思いますが、逆に良かったことはありますか。

うちの場合は、親戚のヒトシくんをはじめ、医療や介護のプロの方々に支えてもらっているからこそ、遠距離介護が成り立っているようなものです。

地元の方たちに支えてもらいながら、こうして自分の仕事を続けられていることがただただありがたいです。

東京から富山に行くまでの片道3時間は、確かに長い道のりですが、意外とその時間が私にはちょうどいいというか。その間にふっと心が落ち着いて、親のことを考えられるんですよね。

「小さい頃、母にこんなことしてもらったなぁ」と昔のことを思い出したり。「富山に着いたらお母さんにこの話をしてみよう」とあれこれ思いを巡らせたり。この3時間は、私にとって親に思いを馳せる、いい時間になっている気がします。

母が元気な頃は、普通に家に帰って、普通に一緒にご飯を食べて、また嵐のように東京に戻る感じでしたけど、老いが進んだ今は、一緒に過ごす時間が宝物のように思えてきます。

もし、母と同居してずっとべったり介護をしていたら、「ああ、大変だ、つらい」と母に対して嫌な感情を抱いていたかもしれない。今のような気持ちのゆとりはなかった気がするんですよ。

親子がほどよい距離感で居られるためにも、遠距離介護を選んで良かったなと思います。

子どもからの本気の言葉は親の生きる力になる

――柴田さんは介護をするうえで心がけていることはありますか。

親に対してかける「言葉」です。「今日はなんだかいい顔してるね!」とか、「いつまでも元気で長生きしてね!」とか、ポジティブな言葉を投げかけるようにしています。


やっぱり、他人からいくら「元気になってくださいね」「大丈夫ですよ」と言われても、心に届きにくいと思うんですよ。

母もそうでしたが、とくにお年寄りの方は、「人に世話になりながら生きるのは申し訳ない」という気持ちが出てきやすいものです。

だから、私はいつも「お母さんは生きとってくれるだけで幸せだよ」「私、お母さんが死ぬのは嫌だもん。ずっと元気でいてほしい」と、はっきり言うようにしました。

すると、母が「そう?」と聞き返すので、「そうに決まっとる。さみしいから、絶対に先に私を置いていかんといて!」と強調すると、「わかった。置いていかんよ!」と力強く返事をしてくれるようになりました。

それ以来、母から「生きてて申し訳ない」という気持ちが減っていった気がします。

――子どもからの言葉は、親にとって「生きる力」になると。

絶対なります。「そんなことで?」と思われるかもしれないけど、それが一番大事なんです。

遠距離介護を始めて6年が経ちますが、家族にできることと、他者(医療や介護のプロ)にできることと、役割は別なんだとわかり始めました。

究極を言えば、親と長い時間、一緒に居なくてもいいし、身体介助もプロの方たちにお任せしていい。

だけど、言葉だけは本気で、面と向かって伝える。それが子どもにできる、何よりの親孝行なんじゃないかと気づいたのです。

(伯耆原 良子 : ライター、コラムニスト)