西宮北口駅は阪急電鉄の駅の中で、大阪梅田駅、神戸三宮駅に次いで利用者数が多い(筆者撮影)

2023年、38年ぶりに日本一の栄冠を手にした阪神タイガースは「大阪」のイメージが強い。しかし、本拠地の甲子園は兵庫県西宮市に所在する。大阪に本拠地を置くのは日本シリーズを争ったオリックス・バファローズだが、そのオリックスも以前は兵庫県神戸市を本拠地としており、その前身である阪急ブレーブスは西宮市を本拠地にしていた。

西宮市の人口は約48万3000人で、大阪市と神戸市という阪神間の政令指定都市に挟まれた位置にある。その市域には南側から見て阪神・JR・阪急の3路線が走り、大阪―神戸間を結ぶ。そうした鉄道路線により、西宮市は大阪・神戸の通勤圏となり、閑静な住宅街もしくは文教都市として人気を高めてきた。

「西宮」になかった西宮北口

西宮市が住宅都市として発展した背景には、鉄道が大きな役割を果たしている。とくに1920年の阪急神戸線開業、そして西宮北口駅の開設は大きなターニングポイントだった。

しかし、西宮北口駅が開設された当時の西宮は市制を施行しておらず、西宮町だった。また、同駅は瓦木村に所在し、西宮ですらなかった。つまり、駅が開設されたことで西宮の都市化が一気に進んだということになる。

神戸線を敷設した阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の前身である箕面有馬電気軌道は、1916年に臨時株主総会を開いて灘循環電気軌道を買収することを決議した。灘循環電気軌道は神戸を起点に山側を走って西宮へ到達し、西宮からは海側へと出て、そこから折り返して神戸へと戻るというルートを計画していた鉄道会社だった。

箕面有馬電気軌道は現在の阪急宝塚線・箕面線を1910年に開業しているので、そこから逆算すると、すでに創立者の小林一三はその頃から大阪―神戸間への進出をある程度考えていたと推察できる。

灘循環電気軌道の計画を見れば明らかなように、大阪―神戸間において西宮が最重要都市と目されていた。なぜ、西宮が最重要都市と見られていたのか? 阪神間は酒造りが盛んで、とくに灘五郷と呼ばれるエリアには多くの蔵元が集積した。灘五郷の中でも、西宮郷は宮水の採水地だったことから中核的な地位にあった。

酒造りには良質な水が欠かない。宮水は酒造りに理想な味・成分だったことから、蔵元はこぞって宮水を求めた。西宮は“銘酒のまち”と認識されるようになり、市民も行政も、そして他企業も酒造りに対して一定の理解をする。


“銘酒のまち”西宮を標榜する看板(筆者撮影)

蔵元が美味しい水を求めるのは現代においても変わらず、また西宮にとって水が重要であることも変わらない。それを端的に表したのが、1970年代から計画が進められていた阪神本線の高架化事業だった。阪神の高架化事業は、間に阪神・淡路大震災という震災を挟んでいるものの30年以上もの長い歳月を費やしている。そこまで長い歳月を要したのは、工事で宮水を汚染しないよう慎重な配慮が求められたことにある。

一方、阪急の西宮北口駅は山側に線路を敷設し、古くから栄えた西宮の中心部からは遠かった。それでも阪急が神戸線を開業させたことで、阪神の西宮駅、官営鉄道の西ノ宮(現・西宮)駅、そして阪急の西宮北口駅の3駅が西宮の玄関駅として覇を競うことになる。

と言いたいところだが、旧来の中心地に近い阪神の西宮駅に、後発で中心地から遠い阪急が立ち向かえるはずがなかった。

神社参詣者は取り込めなかったが…

阪神の西宮駅は、全国に約3500社あるといわれるえびす神社の総本社とされる西宮神社の最寄り駅でもある。西宮神社では毎年1月10日前後に十日えびすという祭事があり、全国から多くの参詣者を集める。阪急も西宮神社の参詣者を取り込むべく、西宮北口駅―夙川駅間に西宮戎駅という臨時駅を開設していたことがある。それでも阪神にかなうわけがなく、西宮戎駅はひっそりと廃止されている。


西宮は西宮神社の門前町として栄えた。西宮神社は阪神の西宮駅から徒歩数分の位置にある(筆者撮影)


阪神の西宮駅は商業施設が併設され、駅前はバスターミナルも整備されており多くの人が利用する(筆者撮影)

そんなハンデを負う阪急は大阪―神戸間の移動に特化し、阪神よりも駅数を3分の1に減らして高速運転を実施。阪急は大阪―神戸間の所要時間で優位に立つことで並行する東海道本線や阪神から利用者を奪おうとしたため、途中駅を増やすことは難しかった。

そうした事情も神戸線沿線の宅地化を遅らせる一因になったが、翌年には西宝線(現・今津線西宮北口―宝塚間)が開業。これが沿線開発の呼び水となり、翌1922年には同線に甲東園駅が開業。駅周辺は住宅地として開発され、同駅から西宮北口駅を経て大阪や神戸に向かうという動線が生まれた。

そして今津線が全線開業する1926年頃になると、ようやく西宮北口駅の周辺にも住宅地開発の波が押し寄せる。まず日本ペイントが1927年に昭和園と名付けた住宅地を駅北西で開発した。しかし、昭和園は西宮北口駅からは距離があったことから人気の住宅地にはならなかった。また、一帯は排水機能が不完全で、戦後に河川改修されるまでは長雨で浸水被害に見舞われることも珍しくなかった。

その昭和園に続き、西宮北口駅周辺に甲風園と呼ばれる住宅地が造成される。当初は駅の北西に造成される計画だったが、甲風園は阪急直営の住宅地だったために人気に火がつき、駅の北西だけでは敷地が足りず、東側にも甲風園が造成された。それでも敷地が足りず、神戸線南側にも拡大する。


JR東海道本線の西宮駅。阪急西宮北口駅や阪神の西宮駅と比べると、駅周辺のにぎわいは乏しい(筆者撮影)

こうして西宮北口駅を取り囲むように、約2万5000坪にもおよぶ甲風園が誕生する。甲風園は西宮市域最大の住宅地になる。周辺が住宅地として開発されたこともあり、西宮北口駅は大阪・神戸のベッドタウンとしての一面を持つようになる。

小林一三のプロ野球構想

しかし、小林は西宮を大阪・神戸のベッドタウンで終わらせる気はなかったようだ。おりしも日本ではプロ野球の立ち上げ議論が盛り上がりを見せていた時期だったが、当時の野球は大学生や高校生が余暇で楽しむ競技であり、ビジネスとして野球が成立するとは誰も考えていなかった。

だが、小林は以前から鉄道各社が集客の一環としてプロ野球チームを結成し、自社沿線に構えた球場で試合をすることを構想していた。鉄道の集客に野球を活用するというアイデアだが、この方法なら鉄道の増収分と球場の入場料収入で選手の給料を捻出できると考えたのだ。

小林の構想は電鉄リーグと呼ばれ、小林は自社のみならず阪神や近畿日本鉄道・南海鉄道(現・南海電鉄)・京阪電鉄にもチーム結成を呼びかけた。電鉄リーグは時期尚早として実現しなかったが、1936年にプロ野球が発足。小林は早々に参入を表明し、阪急軍(後の阪急ブレーブス)の本拠地として、西宮北口駅に直結した駅上球場の建設を目指した。駅と球場が直結していれば、集客でも有利になる。しかし、駅周辺は阪神電鉄関連の企業が土地を多く所有していたこともあり、当然ながらライバルを利することには非協力的だった。

それでも、小林は西宮北口駅の一帯に球場をつくることを諦めなかった。駅上にはならなかったものの、1937年に駅から徒歩数分の位置に西宮球場が竣工した。

球場は駅からの好アクセスも魅力だったが、全席がホームベースを向き、スタンドの傾斜を緩やかにして見やすい設計になっていたことが大きな魅力だった。さらに国内初の2階建てスタンドで内外野が全面天然芝だったことも画期的とされた。

当然ながら観客からも「プレーが見やすい」と好評で、阪急も“行きよい球場 見やすい球場”をキャッチフレーズに集客を図った。生前、小林は「私が死んでもタカラヅカ(宝塚歌劇団)とブレーブスは売るな」と繰り返した。球場の設計は一例にすぎないが、小林がプロ野球の実現を本気で考えていたことをうかがわせる。

こうして西宮北口駅界隈には、小林の独創による新しい西宮が形成されていく。しかし、小林は1932年に株式会社東京宝塚劇場を東京・日比谷に設立して、活動の軸足を関西から東京へと移しつつあった。そうした事情もあり、小林による新しい西宮は未完成のままとなり、その間に日中戦争が開戦する。戦争により、社会から娯楽を楽しむ余裕は喪失し、西宮北口駅の開発も止まってしまう。

団地建設に始まった住宅都市化

再び西宮北口駅周辺に動きが現れるのは、兵庫県営西宮北口集団鉄筋アパートを中心とする団地群が造成されていった1948年あたりだろう。西宮北口駅周辺に建設された団地群は、戦災復興および戦災土地区画整理事業に伴う住宅建設の一環で、西宮北口集団鉄筋アパートは当時には珍しかった鉄筋コンクリート造による集合住宅となった。

西宮北口集団鉄筋アパートは市有地が不足していたことから、阪急(当時は京阪神急行電鉄)が社有地を提供。阪急の協力もあって、西宮北口駅の周辺には県営18棟、住宅協会が建設し西宮市が管理するアパートが18棟、さらに社宅15棟の全51棟が建設された。次々と集合住宅が建設されたことで、西宮北口駅周辺は再び住宅地の様相を濃くしていく。

戦災復興が一段落して高度経済成長期へと突入すると、各地では産業を誘致する動きが活発化した。特に製造業の工場などは地方都市から引く手あまただった。西宮市も石油コンビナートを臨海部に誘致する動きがあったが、西宮のきれいな水が汚染されることを懸念した市民を中心に強い反対が起こり、計画は頓挫した。

以降の西宮市は工業都市ではなく、住宅都市・文教都市を目指す方針へと切り替えていく。とくに神戸線と今津線が交差する西宮北口駅はアクセス至便な駅として重要性を高め、その閑静な住環境とも相まって注目された。

住宅都市として街が発展する一方、西宮北口駅は神戸線と今津線の線路は直角に平面交差する、いわゆるダイヤモンドクロッシングがあり、それが運行に支障を及ぼすようになっていた。今津線の開業当時から、神戸線の運転本数は決して少なかったわけではない。阪急はなんとかダイヤをやりくりして対応していたが、ラッシュ時の神戸線は10分間に10本、今津線は3本という過密ダイヤが組まれていた。


阪急西宮ガーデンズに隣接する高松ひなた緑地には、西宮北口駅のダイヤモンドクロッシングが再現されている(筆者撮影)

その後も利用者増が見込まれることから、阪急はやりくりによる輸送力増強は限界と判断。安全面の観点からも、ダイヤモンドクロッシングを解消することになり、1984年にダイヤモンドクロッシングは姿を消した。それと同時に、神戸線のホームは延伸工事を実施。神戸線の電車が10両編成化されたことで、輸送力の増強が図られた。

神戸線の輸送力増強は住宅都市・西宮の色合いを強めることにもつながったが、西宮北口駅周辺が住宅都市としての性格を加速させていく最大の契機になったのは、1988年に阪急がオリエントリース(現・オリックス)に球団を譲渡したことだろう。

オリックスは引き続き西宮球場をホームスタジアムとして使用したものの、1991年に本拠地を神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)へと移転した。プロ野球チームの本拠地ではなくなった西宮球場は、阪急西宮球場と名称を変更。同球場でプロ野球公式戦が催行される回数は激減し、競輪場やコンサート会場として使用されることになる。

そうした中、戦災復興で建てられた集団鉄筋アパートの老朽化が問題として浮上し、再開発機運が高まっていく。

再開発で「球場の街」は新たな姿に

新しいまちづくりが模索される中、1995年1月に阪神・淡路大震災が発生した。西宮北口駅の周辺は大きな被害を出したが、特に神戸線の被害も甚大だった。西宮北口駅―夙川駅間の高架橋は約1.6kmにわたって損壊。この影響で神戸線は全線が不通になった。しかし、梅田(現・大阪梅田)―西宮北口駅間は翌日に運転を再開する。一方、西宮駅―夙川駅間は早期に復旧せず、約半年後に運転を再開。同区間が運休中、阪急西宮球場の脇に代替バスの発着場が設けられて、大阪―神戸間の輸送を担った。

阪急西宮球場は被災しながらも使用不能になることはなく、その後も使用された。しかし、施設の老朽化を理由に2002年に閉場。解体工事を経て、2008年に百貨店の西宮阪急を核テナントとするショッピングモール「阪急西宮ガーデンズ」として生まれ変わっている。


阪急西宮球場の跡地には、阪急西宮ガーデンズというショッピングモールが開設された(筆者撮影)

西宮ガーデンズの本館5階には阪急西宮ギャラリーが開設され、阪急ブレーブスの栄光の軌跡を紹介している。また、本館屋上のスカイガーデンには、ホームベースのモニュメントが残されている。

隣接する高松ひなた緑地には、阪急電鉄や阪急ブレーブスを紹介するパネルが設置され、地面には西宮北口駅の名物だったダイヤモンドクロッシングが再現されている。また、球場がなくなった後も、西宮ガーデンズの近くには球場前という踏切が残っている。


西宮ガーデンズの近くには、ここが阪急西宮球場だったことを伝える球場前という名前の踏切が残る(筆者撮影)

西宮北口駅は球場の街という記憶を残しながらも、大震災を乗り越えた2000年以降に再開発事業によって変貌した。それは西宮神社の門前町として栄えた西宮駅周辺とは異なる、もうひとつの新しい西宮の創出と言っても過言ではないだろう。


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(小川 裕夫 : フリーランスライター)