田原総一朗「制限のあるテレビの中で、どこまで権力と喧嘩できるかというのが面白い」89歳の田原が次世代に伝えたい“3つ”のこと
田原総一朗、89歳。ジャーナリストであり、作家や評論家としても活躍するが、近年は『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)などのテレビ司会者として知られる機会が多いかもしれない。歯に衣着せぬ物言いで問題の真相に迫り、これまで総理大臣を3人辞めさせてきた田原だが、その思想の根本には「この国を少しでもよくしたい」という真摯な想いがあるという。これまでの半生から、政治論、ジャーナリズム論まで熱量たっぷりに語り尽くした10,000字インタビュー!
(構成・撮影:丸山剛史/執筆:小野田 衛)
【田原総一朗さん撮り下ろし写真】
偉い人たちが言うことは信用できないなという考え
──お元気そうですね。近著『堂々と老いる』(毎日新聞出版)では「滑舌も悪くなったし、物忘れも激しくなった」などとぼやいていたので、少し心配していたのですが。
田原 健康の秘訣は仕事をし続けていることだろうね。やっぱり人に求められているうちが華ですよ。ところで今日は何の取材なの? ジャニーズ問題?
──そこはまったく想定していませんでした(笑)。でも、世の中で話題になっているのは事実です。ジャニーズについては、メディア報道のあり方も厳しく問われていますよね。
田原 メディアなんて最初から情けないものだよ。特にテレビは全然ダメ! そもそもテレビって免許事業だからね。政府が免許を与えてくれたうえで、彼らは放送できるわけ。だから基本的に政府に睨まれたらおしまいなんですよ。そういった制限のあるテレビの中で、どこまで権力と喧嘩できるかというのが面白いと僕は考えてきたんだけれど。
──そこはまさに田原さんの真骨頂でしょうね。ただ一方で若い人の中には田原さんのことを『朝まで生テレビ!』などで知り、番組の司会者として認識しているケースも多いと思うんです。なぜジャーナリストを志したかも含め、今回は今までの歩みを掘り下げていければと考えています。
田原 なるほど。そういうことなら、やっぱり太平洋戦争のことに触れないわけにはいかないだろうな。つまり第二次世界大戦だ。今、僕は89歳。日本が戦争に負けたのは小学校5年生の夏休みだった。小5の1学期から軍事教練が始まったこともあり、僕自身は典型的な軍国少年だったんですよ。学校の先生が言ったのは、「この戦争は悪の侵略国であるアメリカ、イギリス、ヨーロッパ諸国を打ち破るものである」と。「アジアは不当にアメリカやヨーロッパの植民地にされている。だからアジア諸国を解放させ独立させるのが、この戦争の真の目的なんだ」という説明だったわけ。
──大東亜共栄圏の構想ですか。
田原 そうそう。「だから君らも早く大人になって、ちゃんと戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の死を遂げなさい」って当然のように言われていたんだから。ところが1945年に終戦になって、NHK(当時は日本放送協会)のラジオから玉音放送が流れ始めた。ラジオのない家も多かったから、近所の人たちもうちに集まって聴いていたことは覚えているんだけど、ノイズが多いうえに言葉遣いも難しくてね……。
それでもわかったのは「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して」という原爆投下を指す文言と、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という表現。それを聴いた近所の人たちは、まだ戦争が続くものだと勘違いしたくらいだから。
──「もっと堪え忍びながら、限界まで戦え!」とも受け取れますしね。
田原 ラジオでは「負けました」とはっきり言わなかったから、それですごくわかりづらかったんだよね。だけど、その日の夜になると街に電気がついたので「あぁ、戦争は本当に終わったんだな」と納得した。ずっと戦争中は夜間に電気をつけることができなかったので。
そして問題はここからなんだけど、先生たちは急に手のひらを返したようなことを言いだしたわけ。「実はあの戦争は絶対やってはいけないものだった。戦争は悪だ。完全に間違えていた」って。それは学校だけじゃなくて、ラジオや新聞も同じ。臆面もなく「正しいのはアメリカとイギリス。戦争は悪いものだから、若い人たちは平和のために頑張ってほしい」みたいな主張に変えてきた。
──軍国少年にしてみれば、裏切られた気分になるのも無理はありません。
田原 偉い人たちが言うことは信用できないなという考えが、ここで芽生えてきたね。さらに混乱するのは、そのあとで朝鮮戦争が起こったじゃない。太平洋戦争に負けたことで「戦争=悪」という考えが浸透したはずなのに、朝鮮戦争の頃になると「戦争反対」と口にしただけで「バカ野郎! お前はいつから共産党員になったんだ!」って学校の教師から怒られる世の中になった。なにしろ当時、戦争反対ということを正面から唱えていたのは共産党だけだったから。そしてアメリカ・GHQは共産党員を追放していった。
──いわゆるレッドパージですね。
田原 だから僕らの世代というのは、2回も価値観を根本からひっくり返されているんですよ。「こいつらの言うことは信用できない」という不信感が、2回の原体験によって根強く残っているわけ。政治家、学校、新聞やラジオなどのメディア……嘘ばかりついてきたからね、これらの連中は。
そういう中で子供だった僕が不思議に感じたのは、「じゃあ一体、誰がそういったことを最初に言い出したんだろう?」ということ。「やっぱり悪の戦争でした」と言っておきながら、舌の音も乾かないうちに「戦争反対なんてバカか!」と変節して……。こっちとしては一次情報を直接確かめたかった。伝聞・推定は信用できなかった。そこは今でも同じで、僕はオンラインの情報をまったく信用していない。とにかく直接会って確認したかった。
一番にあるのは単純な自分の好奇心
──なるほど。そこがジャーナリスト・田原総一朗の原点ということになりますか。
田原 そういうこと。僕は、わかったふりをしたくないんですよ。だから、わからないことは本人に直接聞いちゃう。安倍晋三には「なぜ集団的自衛権の行使を認めるんだ?」って疑問をそのままぶつけてしまう。岸田文雄にも「なぜ防衛費を大幅に増やす必要があるんだ?」だったり、「なぜ原発を推進させているのか? 安全だという根拠は?」と直接訊ねるわけです。
──それは視聴者や読者のために本人から聞き出すということですか?
田原 いや、違う。一番にあるのは単純な自分の好奇心。「視聴者のために」なんて、そんなのおこがましいですよ。
──話を学生時代に戻すと、田原さんはジャーナリスト志望であると同時に文学志向も強かったと伺っています。
田原 うん、最初は政治やマスコミに対する不信感だとか、社会の真実を追求することを小説を通じてやりたかったんだね。だから高校でも大学でも同人誌を作るようなサークルにいたけど、結局はダメだった。文学というのは、文才のある人が努力することで初めてモノになるんです。でも僕は、はっきり言って文才というものが一切ないから……。
──さすがにそんなことはないと思います。
田原 いや、これは本当の話! しかも、その頃に出てきたのが石原慎太郎や大江健三郎だったからね。2人が書いた『太陽の季節』や『死者の奢り』を読んだら、逆立ちしても敵わないなって思った。
──のちに石原さんは政治家に転身し、田原さんと対決する場面もありました。
田原 要するに石原という男は、小説『太陽の季節』で書いたことを現実社会で成立させたかったんだよ。だけど理想と現実に開きがあるのは当然の話であって、これはなかなかうまくいかなかった。そして政治家として混迷の最中にあるとき、月刊誌で僕と対談をしたんだ。そのときに僕は「石原さん、あなたのことは作家として大いに認めるけど、政治家としてはまったく認めない」って面と向かって言ったんです。政治家失格だとまで僕は言い切った。
当然、その場で大喧嘩になったし、対談自体もギスギスした雰囲気のまま終了。その様子は雑誌にもそのまま掲載された。でも、どういうわけか発行から1週間くらいすると石原の秘書から連絡があったわけ。「あの対談、うちの講演会のパンフレットで再掲載していいですか?」って。つまり大喧嘩したにもかかわらず、内容的には気に入っているみたいなんだよ。
──そのあたりは石原さんの度量の大きさなんですかね。
田原 そういうことなんだと思う。ちょっと感心したよね。それで改めて会ってみると、「田原さん、ハト派っているでしょ? 俺はあの連中が何を言っているのか、さっぱりわからないんだ。話をしたいから、悪いんだけど紹介してくれないか?」とか言われてさ。
──そんなの政治家の仕事じゃないですか! 田原さんが間を取り持つ必要あるんですか?
田原 まぁでも頼まれたから、加藤紘一とか小渕恵三とか何人かと話し合うことになったんだけどさ。論争になると、そこでは石原が勝つんだ。やっぱり弁が立つものだから。だけど政治家は相手を論破するのが目的ではなく、政策を遂行しなくちゃいけないわけですよ。それじゃダメだって僕は石原に伝えたよ。
でも、石原は石原なりに命懸けで日本を変えようとしていたのは確かだろうね。そのことはよく伝わってきた。今、同じだけの気迫で取り組んでいる政治家はいないでしょう。
──たしかに清濁併せ吞むような臭みのある政治家は減っている印象があります。
田原 そこが一番の問題! 結局、田中角栄はどんな手段を使ってでも勝とうとしたわけでしょう。それでカネをバラ巻いた。あるいはカネじゃなくて、圧力で権力を握るタイプもいるけどね。とにかくトップに立つ政治家というのは、反対派を全部説得しなくちゃいけない。安倍晋三は日本を強国にしたかった。だから、そのための手段を択ばなかった。
そして政治の世界にはフィクサーと呼ばれる存在が常にいたんだけど、今はそれがいない。それはなぜかと言うと、総理大臣になったところで理念やビジョンがないからなんですよ。人によっては、小泉(純一郎)内閣のときの竹中平蔵を最後のフィクサーと呼んでいるみたいだけどね。今の時代になって竹中はボロクソ言われているけど、一方で小泉バッシングは起こらない。これも不思議な話で、小泉の命令で竹中は動いたんだから、本当は小泉も同じくらい叩かれるのが自然なんだよ。
文章の才能だけじゃなく、就職活動の才能もなかったねぇ
──すみません、石原さんの話からつい再び脱線してしまいました。大学時代の田原さんが文学に挫折したあたりに話を戻したいのですが……。
田原 いや、こちらこそ申し訳なかったです(笑)。それで文才がなかったから小説家になることは諦めて、就職のときにマスコミを片っ端から受けたんですよ。朝日新聞、NHK、TBS、日本放送……結果は見事に全滅。文章の才能だけじゃなく、就職活動の才能もなかったねぇ。
──田原さんを落とすなんて、ずいぶんマスコミの採用担当も見る目がないですね。
田原 今にして思うと、自分が悪いんだよ。面接のときに社会批判ばかりしたものだから、敬遠されたんじゃないかな。それで最終的には岩波映画製作所という会社で働くことになった。ここでは最初、工場建設の過程を記録するPR映画の撮影助手を務めたんだけど、これが本当に失敗続きで……。あっという間に社内で干されて、やることがなくなっちゃった(苦笑)。
──不器用というか、要領が悪かったんですかね。
田原 そうこうするうちに、いつまでも遊んでいるわけにはいかないということで、今度は『たのしい科学』という日本テレビの子供番組を手伝うことになったんだ。だから、このへんからテレビとの関りができてきたわけ。正直、テレビの世界は岩波映画よりもいい加減だし、自由だと思ったね。すごく可能性を感じた。そうした中で東京12チャンネル(現・テレビ東京)が開局するという話が出たので、「ちょうどいいや」と移籍することになったんです。
──テレビマンとしての田原さんは、ラジカルなドキュメンタリーを数多く制作しています。
田原 最初は苦労が絶えなかった。なにしろ当時の東京12チャンネルなんて三流局もいいところで、「テレビ番外地」なんて呼ばれる始末。スポンサーもつかないものだから、自分でスポンサーを見つけて番組を作っていたくらいだから。とにかく前提としてあるのは、日本テレビやTBSと同じような番組は作れないということ。だから危ない番組を作るしかない。そのへんは会社の上層部もわかっていたから、放任してくれた部分は多分にあったよね。なので、やりたい放題やった。だけど調子に乗りすぎて、最後は辞めることになった。それが42歳のときかな。
──何があったんですか?
田原 70年代に起こった原子力船『むつ』の放射線漏れ事故。僕は原発について取材し、テレビとは別に『展望』という雑誌で「原子力戦争」という連載をしたんだ。当時は全国に原発反対運動が広がっていた。だけど一方で原発推進運動というものがあることもわかった。そちらを調べてみると、推進派のバックには電通がいることが判明した。それをそのまま書いたら、大問題になってね。電通は「こんな記事を書くディレクターがいるテレビ局のスポンサーは降りる」と東京12チャンネルに圧力をかけてきたわけだ。
そして自分の上司に当たる部長と局長が譴責処分になった。さらに親会社の日経新聞から来た社長室長が「連載をやめるか、会社を辞めるか?」と迫ってきたから、さすがにもう潮時だなと諦め、フリーランスになったんですよ。
──原発の問題は想像以上にデリケートだったということですか。
田原 そうだね。それと電通がそこまで強い力を持っているとは思っていなかった。逆に僕の中では電通に対する興味が強くなって、「電通に関する記事を書きたい」っていくつかの編集部に打診したんだよ。どこも返事は渋かったけど、『週刊朝日』だけはOKということになったから連載することになった。ところが連載1回目の原稿を書いた3日後に編集長から連絡が来て、「全部、書き直してくれ」と(苦笑)。
マスコミが権力に対して腰が引けていたら話にならない
──そこは本当に聖域なんですね。
田原 僕だって別に電通を糾弾したいわけじゃないんだよ。「こんなタブーみたいな扱いを続けていて本当にいいのか?」って問いたかったんです。電通だって「こうしたほうがいい」と考えながら動いているわけでしょ。臭いものに蓋をするっていうのは、どうなのかと思う。
それで『週刊朝日』の件は、二転三転したんだけど結局は原稿をそのまま載せることになってね。さらにそれをまとめた単行本がベストセラーになった。この前の東京オリンピックでも、みなし公務員がどうだとか電通の問題はいろいろ騒がれたけど、それは昔から綿々と続く話でもあるわけです。マスコミが権力に対して腰が引けていたら話にならない。
──ディレクター時代の田原さんは、ほかにも「ヒッピーたちの全裸結婚式」「俳優・高橋英二の癌手術から死に至るまでのノンフィクション」「カルメン・マキと天井桟敷の役者との同棲ドキュメント」などの問題作を連発しました。NY郊外のマフィア酒場では、撮影許可をもらうために黒人娼婦と本番ショーを敢行したということもあったのだとか。
田原 それくらい過激なことをやらないと、東京12チャンネルは注目されなかったんです。実際、テレビ局に勤めていたとき、僕は2回も警察から逮捕されているから(笑)。それでも会社をクビになることはなかったし、オンエアも予定通りされた。何かあるたびに「コンプラ的に大丈夫か?」って言い出す今のテレビ業界では考えられないことだよね。
──テレビ局を退社した田原さんは、当初、雑誌を中心に活躍しました。テレビマン時代は社会ネタ全体を広く扱っていましたが、このあたりから政治にフォーカスしていったような印象があるんですよ。
田原 それは、おそらく田中角栄を扱ったことが大きかったんじゃないかな。ロッキード事件後、世の中すべてが角栄を全否定していたでしょう。そんな中で僕は角栄の言い分を5時間のインタビューで聞いたうえで、それを記事にした。実は彼自身はまともにやろうとしていてたんだけど、アメリカにやられてしまったんだということだよね。話として面白いなと思った。
──四面楚歌状態だった田中角栄もそうですが、政治献金で騒がれた鈴木宗男やライブドア事件渦中のホリエモン(堀江貴文)などにも田原さんは好意的なコメントを出しています。
田原 リクルート事件のときも、江副浩正冤罪論を打ち出したしね。これは弱者の味方をするというより、世論の反対に進むという面が強いかな。今のウクライナとの戦争にしても、世論が全部「ロシアが悪い!」という方向に傾いているときに、あえて鈴木宗男はロシアに行こうとしているじゃないですか。その是非はともかくとして、話は聞いてみたいと僕なんかは思ってしまう。
あと僕が政治を中心に扱うようになった理由としては、能力の問題も大きかった気がする。いろんなことに幅広くアンテナを伸ばすのって本当に大変なことですから。「芸能も扱って、スポーツも扱って……」とやっていくのは想像以上に難しいんです。それと、もうひとつ。政治のことを扱うと単純に視聴率がよかったんだよね。だからテレビ局や編集部が話に乗ってくれたわけで。
──それは意外です。『朝まで生テレビ!』なんて深夜枠だし、視聴率は度外視しているのかと思っていました。
田原 いやいや、とんでもない! 今でも深夜枠の中で『朝生』は数字がいいほうですよ。他局が0.何パーセントとかいう時間帯なのに、調子がいいときは4〜5%いきますから。深夜放送としてはズバ抜けていいはずです。
『朝生』は偶然性が重なった部分が非常に多い。スタッフにも恵まれているしね
──そもそも『朝から生テレビ!』は、どういった経緯でスタートしたんですか?
田原 『朝生』が始まった97年当時、深夜放送で隆盛を誇っていたのは女子大生がたくさん出演する『オールナイトフジ』(フジテレビ系)。それでテレビ朝日の編集局長から「うちも深夜放送をやりたい。何か考えてくれ」って言われたの。だけど予算的な理由から有名タレントを使うわけにはいかない。ハイヤー代も出せないから、1〜2時間で終わるのではなくて始発まで続く番組を作らなくてはいけない。そして深夜でも視聴者に観てもらうためには、内容的にも刺激がないといけない。そういったいくつかの事情があったわけです。
──たしかに扱う題材は「部落問題」「新興宗教」「原発の是非」「日本国憲法」など刺激的なテーマばかりでした。
田原 でも「天皇の戦争責任」を取り上げたときは、「それだけはやめてくれ!」って編集局長から厳しく言われましたよ。だから「わかった。『オリンピックと日本人』に変更します」ってその場では伝え、新聞のテレビ欄にもそのように打たれた。だけど生放送が始まって30分くらい経ったら、「今日はこんなテーマで討論している場合なのか?」と僕が唐突に問いかけ、CM明けにはそのまま昭和天皇論に移行するという展開になった。完全なスタンドプレーですよ。編集局長を裏切ったわけだから、もうこれで降板になって仕方ないと半ば諦めていました。
──局内では大問題になったでしょうね。
田原 ところが、このときの視聴率が予想以上によかった。そうすると現金なもので、「大晦日の特番も天皇論でいこう」という話になったわけ。『朝生』はこうした偶然性が重なった部分が非常に多い。スタッフにも恵まれているしね。
──思えば『朝生』以前の討論番組って、政治家や有識者など各々が自分の考えをPRするだけでした。おおよそ議論の体をなしていなかったです。
田原 別に僕は司会者をやっているつもりもないし、仕切ろうとなんて考えていないの。ただ誰に対しても本音でしゃべるし、嘘がつけない男なのは事実。出演者に喧嘩させようと思っているわけではないけど、話をまとめようとすら考えていない。番組としては、そこがよかったんじゃないかな。あの場は完全な真剣勝負だから、ハプニングやアクシデントも頻出するし。出演者も野坂昭如や大島渚を筆頭に、容赦なくぶつかってくるタイプばかりなものだから。
──余計な駆け引きはしないという田原さんの信条が、出演者にとってもプラスに作用しているのでしょうね。
田原 そこは大事なポイントだと思う。僕は200人以上の街宣右翼と九段会館で話し合ったこともあるんです。そのときは2時間半以上にわたって「日本をどうしていくべきか?」と議論し、最終的に向こうからは「あなたと考えは違うけれど、国を想う気持ちは同じだ」って言われた。相手が右翼だろうが政治家だろうが同じことですよ。小泉純一郎だろうが、安倍晋三だろうが、岸田文雄だろうが、言うべきことがあれば「あんた、これ間違えているよ」って本人に直接言う。
──そうした大物政治家たちも、田原さんの意見を聞きたがっている部分があるんじゃないですか?
田原 そこはわからないけどね。でもたとえば安倍さんなんかは、首相だった2013年12月に靖国神社を参拝した。すると、それまでの中国と韓国からの非難に加えて、アメリカからも苦言を呈されたんですよ。そんな中で安倍さんからは「田原さん、もう一度、靖国に行きたいと思っているんだ」って相談されたこともあったの。だけど僕は「絶対にやめろ」って強く言っておいた。
なぜならば彼はA級戦犯として逮捕された岸信介の孫でしょう。さらに第1次政権時から「戦後レジームからの脱却」を謳っていた。でも、それってアメリカから言わせると歴史修正主義という話になる。戦後の対米従属から独立するということは、戦前に戻ると捉えられても仕方ない。「もし安倍政権を続けたいと本気で考えているなら、戦後レジームからの脱却など二度と口にするな。靖国に行くのも絶対にダメだ」って伝えましたよ。本人も「よくわかった」と頷いていました。
──そんなことがあったんですね。
田原 小泉純一郎が総裁選に出たときのことも印象に残っているね。彼は首相になる前に2度落ちていたじゃない。もし次も落ちたら、政治生命が終わってしまうかもしれない。それで「田原さん、どうしたらいいと思う?」という話になったんだ。
そこで僕が話したのは「今の日本の総理大臣は、結局のところ、田中角栄だ」と。田中派(経世会)の全面支持を受けた人間だけが首相になれるわけだから。そこで彼には「真っ向から公然と田中派と喧嘩するしかない。田中派をぶっ壊す勢いでやるべきだ」と言った。
──ひょっとして「自民党をぶっ壊す」という有名なフレーズは、田原さんの提言によるものだったんですか? しかも、それってカメラが回っていないところでの会話ですよね。
田原 もちろん。テレビの前であろうとなかろうと、僕が言うこと自体は別に変らないですから。
──田原さんは「今まで総理大臣3人を間接的に辞めさせた」と言われることもあります。
田原 「間接」じゃなくて「直接」ですよ。具体的には宮澤喜一、海部俊樹、橋本龍太郎。テレビで徹底討論したら、3人ともボロが出て失脚してしまった。だけどそれでどうなったかといえば、結局、日本は変わらなかった。そこは少し反省した点でもあって、テレビでの公開討論じゃなくて、直接本人に伝えるやり方に変えたんです。だから小渕恵三、小泉純一郎、安倍晋三あたりは直接話していますね。
──直接の対話ということは、視聴率にも雑誌の部数にも還元されないですよね。自民党から献金されるわけでもないのに、なぜそんなお人好しみたいな真似をするんですか?
田中 「この国をよくしたい」という気持ちだろうね。損得勘定とか考えていたら、こんなことはできないよ。正直に言うと、共産党以外の全政党から「国会議員になってください」って出馬要請されたこともあります。だけど、すべてお断りした。僕は権力なんてまったく関心がないですから。
──いやはや、改めてすさまじいバイタリティです。今後、若い世代に伝えたいメッセージはありますか?
田原 言いたいことは3つです。1つは言論・表現の自由を守ること。世の中にはタブーなんて存在しません。2つ目は絶対に日本に戦争をさせない。どんな理屈があっても戦争は許されないですから。戦争をしようとする政治家は失脚させるべきです。そして3つ目は野党を強くする。自民党がこれだけ自分勝手な真似をしているのは、野党が強くないからです。アメリカではトランプですら失脚するし、ドイツではメルケルだって辞めざるをえないんだよ?
今日はいろんな話を好き勝手にしたけど、次世代の人たちにもこの3つだけは頭に入れてほしいなと思う。民主主義が機能していない国なら、僕みたいな人間は真っ先に抹殺されているでしょう。だけど僕は本音でぶつかっていけば、人間はいろんな状況を突破できると信じているから。打算もなく好奇心だけでここまで僕はやってきたけど、そういう面で後悔は一切したことがないですね。
朝まで生テレビ
テレビ朝日系 毎月最終金曜日深夜放送
<次回の放送> 11月25日(金)テレビ朝日系 深夜1:30〜4:25
(文中敬称略)