「ブルペンからマウンドまでが一番緊張しましたね。ワクワクって言ったほうがいいかな。ブルペンでは足が地についていない感じ。マウンドに上がったら普通でしたけど。投球内容は......ほとんど覚えていませんね」

 グラウンドで緊張したことは、アマチュア時代にはなかった。プロに入ってからもしばらくはそうだった。マウンドに向かうのが楽しくて仕方なかったからだろう。怖いもの知らずの若者が緊張することを覚えるのは、酸いも甘いも知った中年になってからというのはよくある話だ。故障を繰り返し、一軍マウンドが遠いものになってから、由規もようやくブルペンからそこへの数十メートルの距離が長いことを知るようになった。

「それでもガクガクに緊張したのは2回だけですよ。ヤクルトでの故障明けの時と、楽天での初登板の時ですね」


今年7月から台湾プロ野球の楽天モンキーズでプレーしていた由規

 話を聞いたのは、由規の台湾での一軍初登板翌日のことだった。結果的に最初で最後になった"一軍"のマウンドについてこう振り返った。

「もちろん日本とは別物なんですけど、『ああ、これがプロ野球だな』って。NPBや独立リーグと比べることはなかったんですが、実際マウンドに立ってみて、やっぱり歓声がすごいですよね。もうキャッチャーとのやりとりも聞こえないくらいでしたから」

 ここ数年、由規はそういう表舞台から姿を消していた。プロ野球選手ではあったが、彼がいたのは独立リーグの舞台だった。

 週末の試合でも、高校野球の地方大会の方が観客は多いのではと思うほど、閑古鳥の鳴くスタンドを前に由規はプレーしていた。

【野球を辞める理由がない】

 私が台湾に到着したのは8月27日の午前のことだった。空港でSIMカードを入れ替えた途端、早速一報が入った。

「由規が台湾デビューする」

 由規は仙台育英時代にすでに150キロを超す速球を披露し、甲子園を沸かせた。2007年ドラフトでは中田翔(巨人)、唐川侑己(ロッテ)と並び「高校ビッグ3」のひとりとして、その年最多の5球団から1位指名を受け、ヤクルトに鳴り物入りで入団した。

 プロ入り後も順調だった。高卒ルーキーながら一軍でキャンプを迎え、シーズンでは2勝を挙げた。2年目には早くも先発ローテーションに入り、3年目には規定投球回数をクリアし、2ケタ勝利を挙げた。近い将来、ヤクルトのエースはおろか、球界のエースになるだろうと誰もが疑わなかった。

 しかしこれがピークだった。翌2011年には故郷・宮城が東日本大震災に見舞われた。オールスターのファン投票では、先発投手部門1位で出場を決めるものの、シーズン終盤に肩を痛めて戦線離脱。以降、スタンドを沸かせた剛速球が蘇ることはなかった。

 勝ち星も年々減っていき、2019年には楽天に育成選手として移籍することになった。しかし、ここでもこの年のシーズン最終戦に一軍登板を果たしただけで、翌年は一軍登板なく戦力外となった。その後、BCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団した。

 ひとつ由規に聞きたいことがあった。「どうして3年も独立リーグでプレーし続けられたのか」ということだ。プロの第一線を知っているだけに、自らの限界も感じていたのではないか。NPBから離れる年月が長くなればなるほど、そこへ戻ることは不可能に近くなる。

 その問いに由規は「独立リーグもよかったですよ」と言って、こう続けた。

「独立リーグで1シーズンやったあとに、もうNPBに復帰するのは難しいなっていうのはわかりました。年齢のこともありますし。だから去年はコーチ兼任になって、これからのことを考えるようになりました。自分で手本を示しながら教えるっていうのは、NPBではできないことですし、それはそれでいい経験になりました。マウンドに立てば、どうやったら抑えることができるのかしか考えていませんが。ただ、打たれるとベンチに戻りにくいんですよね(笑)。

 そもそも野球を辞める理由がないんです。年々、うまくなっていっていますから。それが現役であることの価値かなって。そりゃ、若い時みたいに簡単に速い球は投げられないですよ。でも、あの頃はどうしてそういう球が投げられていたのかわからなかったのですが、今はどうやったらいい球が投げられるのかわかるようになってきたんです。そういう意味で、今はその答え合わせをしているって言っていいかな」

 今年、独立リーグ3年目を迎えた由規の頭のなかに、もうNPBはなかったのだろう。もっとうまくなりたい、若い選手を育てたい......そういう思いでマウンドに上がり続けていた由規のもとに舞い込んできたのが、台湾球界からのオファーだった。

【立場は5人目の外国人選手】

 今年7月初め、由規は6勝3敗の成績を残して埼玉武蔵ヒートベアーズを退団し、台湾リーグ入りした。新たに袖を通したユニフォームには「RAKUTEN」の文字が入っていた。楽天モンキーズの助っ人として契約した由規だったが、「5人目の外国人選手」という立場はわかっていた。

 台湾リーグの外国人登録枠は「4」。要するに、由規はほかの外国人選手が機能しなかった時のスペアだ。投手不足の台湾球界にあって、助っ人は投手と相場が決まっている。事実、楽天モンキーズの外国人選手は由規を含め、全員が投手だった。おまけにこの外国人登録枠は8月末をもって「3」に減らされる。由規に残された時間は多くなかった。

「最初は外国人投手の調子が悪いから獲ったという話だったんですけど、こっちに来てみるとみんな好調で(笑)」

 台湾でのスタートは二軍だった。ただし、外国人選手は基本的に一軍に帯同し、試合の時だけ二軍の球場に向かう。初登板は5回無失点にまとめ、勝利を飾った。そうやってふだんは一軍に帯同しながらベンチから試合を眺め、週1回の二軍のデーゲームでマウンドに登っている間に時間は過ぎていった。8月31日までに一軍の戦力として認められなければ、そこでシーズンは終わる。

 そんな由規に一軍から声がかかったのは、二軍での5度目の登板が終わったあとのことだ。初登板と同じ5イニングを無失点で終えると、8月28日の先発を告げられた。ふだんゲームのない月曜日に組まれたこの試合は、いわゆる予備ゲーム。つまり、ローテーションの谷間である。台湾ではこの月曜日の試合は、一軍登録枠が1つ増えることになっている。

 楽天モンキーズは、ここに由規をあてることにしたのだ。チームとしては、由規の最終テストをここで行ない、勝てば御の字。打たれて負ければ、そこで決断を下す。もちろん、由規もそのことは理解していた。

 しかし、ここで野球の神様がいたずらをする。登板予定日2日前の26日の試合が雨で流れてしまったのだ。5球団中、前期優勝を決めた統一セブンイレブン・ライオンズ以外の上位4チームが日替わりで首位につくデッドヒートを演じている後期シーズンにあって、「谷間」を埋める投手の立場など簡単に飛んでしまう。

 28日、モンキーズの本拠地・楽天桃園球場で行なわれた首位・富邦ガーディアンズとの一戦の先発マウンドには、由規と同じくシーズン途中にアメリカ独立リーグから移籍し、すでに2勝を挙げているジェイク・ダルバーグが上がった。

 リミットは3日後だが、翌日には登録枠はもとに戻る。つまり、由規に登板のチャンスを与えるには、一軍メンバーの誰かを二軍に落とさなければならず、事実上、この日が由規に残された最後のチャンスというわけだ。

【奇跡の一軍登板を果たしたが...】

「ここに来た時点で、自分の立場はわかっていましたから。先発がなくなった時点で『縁がなかったのかな』と思いました。でも、ジェイクに何かあった時か、終盤に点差が離れた時はもしかしたらあるかもなって......。気持ちだけは切らさず、初回から準備だけはしていました」

 試合は初回にいきなりガーディアンズが先制すると、その裏にあっさりモンキーズが2点を入れ逆転。点の奪い合いになるかと思われたが、その後は投手戦となり、7回を終えて4対1でモンキーズがリードを広げていた。

 8回表のガーディアンズの攻撃がゼロに終わると、セーブシチュエーションの前にブルペンではこの日の抑え役の黄子鵬がピッチングを始めた。

 だが、ここで野球の神様が今度は粋な計らいをする。モンキーズが8回裏に猛攻を見せたのだ。この回4点を奪い、点差を7点に広げた。

「一応、点差が開いたらあるかもって準備し始めたんですよ。ベンチからの指示もあったので。6対1になった時点でもう一度ベンチから連絡があって、あと2点入ればあるよって」

 何度もストレッチと準備体操を繰り返していた由規は、この日初めて投球練習を始めた。それまでピッチングをしていた黄は投げるのをやめ、ブルペンのみんなが備え付けのテレビ画面に釘づけになった。ランナーが出るたび、点が入るたび、ブルペンは沸いた。

 その声は、途中出場の厳宏鈞(イェン・ホンジュン)がライトオーバーのツーベースを放ち、2人のランナーをホームに迎え入れた時に最高潮に達した。それを見ながら由規は、ブルペン捕手を座らせた。つづくバッターが倒れ、3アウトになった時、由規は10球目を投げ終えていた。

「感無量でしたね。バッターの人は知らなかったでしょうけど、ブルペン陣はみんな8点目が入ると僕の出番だとわかっていましたから。なんかイーグルスの時を思い出しました。あの時も育成で入って、途中から支配下登録されて、一軍登板は1試合だけでまったく同じシチュエーションでした。チームがポストシーズンを決めた後の次の試合に出場登録されて、投げる確約なんかもなくて、点差開いたらいくよって。みんながつないでくれたチャンスなんだってかみしめながらマウンドに向かいました」

 自分の顔と名前をデカデカと映し出す大型ビジョン、沸き立つ歓声、名物のチアガール。もう何年も見ることのなかった「一軍」の風景が、そこにはあった。

 往時のスピードはなくなったものの、キレのいい球で由規はたった2球で先頭打者を追い込んだ。しかし、まだ勝負をあきらめていないガーディアンズの4番・范國宸はここから6球粘ったあと、痛烈なファーストゴロを放つ。誰もが1アウトと思ったが、これをファーストの朱育賢(ジュウ・ユィシェン)がはじいてしまう。

 結果的にはこれが運の尽きだった。試合後、ヘッドコーチの古久保健二も投手コーチの川岸強も「あれで1アウトだったら結果はまったく違っていた」と口を揃えた。

 結局、打者5人に対して1失策、3安打で2失点。奪ったアウトは三振の1つだけだった。

 1アウト満塁の場面で追い込んでからの4球目を8番バッターにセンター前にはじき返されたのを見ると、監督の曾豪駒はボールを手にマウンドに向かった。マウンドの由規からは白い歯がこぼれていた。

 まだ5点差、あとアウト2つ。まだ投げさせてもいいのではないかと思ったが、テストはここで終了した。

【純粋に楽しかった】

 試合翌日、再び桃園球場を訪ねた。登録を外れた由規だったが、昼過ぎにはこの日のナイトゲームに備える同僚と同じように球場入り。そこで前日の試合を振り返ってもらった。まずは最初のエラーについて尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「それも野球ですから。あれでそのあとのピッチングがどうのということはありません。たしかに最初は力んでコントロールが乱れたことはありましたが、あのエラーでっていうことはないですよ」

 続けて、由規は笑ってこう言った。

「試合後、育賢と飯食いに行ったんですよ。彼とはもともと仲いいんですよ。奢ってくれました。食事中もずっと謝りぱなしでした」

 その席には夫人も同席していたという。あの夜のスタンドには夫人とその両親の姿があった。降板時に見せた笑顔といい、私には由規があのマウンドになにか重大な決意をもって臨んでいたように感じた。

「なんでしょうね。笑顔は純粋に楽しかったからでしょうね。一軍で投げずに終わるのかという状況だったんで、結果はともかく、投げられたという充実感でしょうね。嫁さんが来たのはたまたまですよ。一軍登板が決まる前から手配していましたから。でもまあ、8月末が期限だっていうのは、多少頭にあったとは思いますけど」

 首脳陣に聞くと、内容的には予想以上ということだったが、外国人枠を絞り、以後の入れ替えはなくなるという現実の前に、結果は誰の目にも明らかだった。そのことは本人が一番わかっていたはずだ。それを踏まえて由規は、「今後」について口を開いた。

「どうなるかはまだ決まっていないんで何も言えないですが、野球を辞めるってことは考えていません。台湾に来たことはすごくよかったと思います。いろんな人との出会いもそうだし。昨日ももちろん打たれちゃいけないんだけど、マウンドに立つ意味っていうのがわかったような気がするマウンドでした。育賢とも何年かして『あの時のエラーが......』って笑って言える日が来ると思います。それはあの場所にいた僕たちの特権でしょう」

 8月31日、楽天モンキーズは由規の退団を発表した。同球団のフェイスブックページには、彼ともうひとりリリースされた助っ人投手の写真の上に「Thank you」の文字が載せられていた。