「野球ヲタ(やきゅおた)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

 野球愛好者を示す「野球ヲタク」を略したものだが、はっきり言って蔑称といっていいだろう。野球界の現場はとくに、「経験者至上主義」の雰囲気がある。「どこの野球部に所属したか?」に人格性が宿り、コミュニケーションの材料になる。プレーヤー経験のない野球ヲタが何か発信しようとしても、「まずやってみろ」と軽んじられることが多い。

 もちろん、プレーした者にしかわからない感覚はたしかに存在する。それでも、野球を「見る」ことに関しては、プレー経験の有無はあまり関係ないのではないか。本格的なプレー経験のない「野球ヲタ」と多く出会うなかで、私はそんな疑問を抱いていた。彼らのなかには「どうしてこんな細かな部分まで見られるのか?」と思うほど、天才的な眼力の持ち主もいた。


昨年、京大野球部の投手コーチを務めた灘高出身の三原大知

【灘高出身の野球未経験者が投手コーチに?】

 衝撃的な噂が関西方面から聞こえてきたのは昨年のことだった。日本で最難関の国立大学として知られる京都大学の野球部は、野球経験のない学生コーチが投手陣の起用法を決めているというのだ。

 学生コーチの名前は三原大知という。国内屈指の進学校・灘で中学、高校時代を過ごしており、中高6年間は生物研究部に在籍。文化祭では得意の「カエルの解剖」を披露していたという。

 野球と無縁の人物がどうして大学野球で学生コーチになり、投手起用の全権を任されるまでになったのか。さらに言えば、三原を登用したのは京大野球部監督の近田怜王(ちかだ・れお)。ソフトバンクで投手、外野手としてプレーした元プロ野球選手である。最高峰の世界で戦った「経験者」が、元生物部の「未経験者」に権限を与えるという信じがたい構図なのだ。

 そして、近田の最終学歴は高卒であり、ソフトバンク退団後はJR西日本に入社して車掌として働いた時期もある。国内有数の頭脳派が集まる京大で指揮をとる人物としては、意外性を感じずにはいられない。

 興味を抱いた私は、京大野球部への取材を始めることにした。

 戦績だけを見れば、京大にとっては圧倒的な負の歴史がある。近田が2017年にコーチに就任するまで、関西学生リーグ70季中67季でリーグ6位。実に95.7パーセントの「最下位率」である。

 同リーグを戦う近畿大、立命館大、同志社大、関西大、関西学院大はいずれも優勝経験があり、1学年あたり20人のスポーツ推薦枠がある近大を筆頭に有望選手が集まりやすい環境がある。

 一方の京大はスポーツ推薦がないどころか、入試を突破すること自体が極めて高いハードルになっている。野球部に集まるのは高校時代の実績がほとんどない進学校の選手に限られ、半分以上は浪人経験者である。雨が降ればその日の練習が中止になってしまうなど、環境面も恵まれているとは言いがたい。

 他大学にとっては、「京大に勝って当たり前」という感覚があるのではないか。そう予想していた私だが、対戦校を取材するなかで意外な言葉を聞くことになった。

 たとえば昨年の同志社大のエース右腕・高橋佑輔(現・東邦ガス)は、語調を強めてこう語っていた。

「『京大に勝って当たり前』なんて言ってる人は、野球がわかってない人ですよ。京大の試合内容を見れば、『いい野球をしてる』とすぐわかるはずです」

 圧倒的な戦力を擁しながら京大相手にしばしば苦杯をなめている近畿大監督の田中秀昌は、警戒感を隠さない。

「京大のベンチには紙にプリントしたデータが20枚くらいバーッと貼られていて、『すごい分析されてるんだろうな』と感じていました。選手も執念深くて、集中力がある。最後まであきらめないので、イヤなチームやなと感じていました」

【個性豊かな秀才軍団が優勝争い】

 とくに2022年の投手陣は強力だった。エース右腕の水江日々生(みずえ・ひびき/当時3年)は小柄ながら総合力が高く、ゲームメイク能力抜群。4年生には身長194センチ、体重100キロの超大型右腕の水口創太(現・ソフトバンク)や、左腕から独特のクセ球を操る牧野斗威(とうい)、好球質のストレートとツーシームのコンビネーションを武器にする徳田聡と強豪相手に通用する人材がひしめいた。さらに正捕手の愛澤祐亮は、時にアンダースローの投手としてマウンドに上がる「二刀流」。そんなバラエティーに富んだ顔ぶれをマネジメントしていたのが、学生コーチの三原なのだ。

 三原は基本的に「早め早めの継投」を心がけていると語った。

「ウチで一番重要な場面で投げることが多いのは水江なので、とくに水江の疲労や『投げ切れているか?』はしっかり見ています。それ以外の場合はピッチャーとキャッチャーの両方に意見を聞いたうえで、替えることが多いですね」

 入部当初の三原は、野球部の同期から「クソ陰キャ」と陰口を叩かれるほど体育会の部員らしからぬ風貌だった。浪人生活の影響でやや太っており、メガネをかけ、黒髪でいかにも大人しそうな顔つき。フリースにジーンズといかにも大学生の私服姿という出で立ちでグラウンドに現れ、ひと目で運動用ではないとわかるカラフルなスニーカーを履いていた。

 そんな三原が入部した理由は、同年から京大野球部が「アナリスト」を募集したからである。簡易型弾道測定器のラプソードを購入したものの、部内には扱える人材がいなかったのだ。

 三原はプレー経験こそないが、幼少期から阪神ファンでプロ野球に熱中する「野球ヲタ」だった。高校時代からMLBのデータサイトに入り浸っていたため、ラプソードで取得できるデータの知識はすでに得ていた。

 ラプソードのデータを元に、三原が投手陣にアドバイスを送る。その効果は大きかったと近田は見ている。

「京大生は数字が大好きだし、データに興味を持って取り組むと彼らの特性を生かせるのかもしれません。自分も三原の意見を聞いて、吸収しないといけないなと思いました」

 2022年の春、京大野球部は優勝争いに絡む快進撃を見せる。

 個性派が揃ったのは投手陣だけではない。野手陣もひとクセもふたクセもある奇人・変人がひしめいた。とくに中軸を任された伊藤伶真(りょうま)の存在は異彩を放っていた。

 打撃フォーム、捕球体勢、ルーティン、ユニホームの着こなしと、すべてが独自の感性やこだわりで占められている。身長168センチ、体重76キロと小柄な体型ながら、強豪大学からマークされるほどの高い打撃力を誇っていた。

 そして、伊藤は大学3年時には野球部での活動と並行して年間2200時間の猛勉強の末に、公認会計士の資格試験に合格している。感覚が特殊すぎるため、「誰からもアドバイスをもらえない」のが悩みの種だという。

 こうした京大野球部の特殊な取り組みと、個性的なキャラクターが織りなすドラマを『野球ヲタ、投手コーチになる。』(KADOKAWA)という書籍にまとめさせてもらった。きっと「野球ヲタ」の見方が変わる一冊だと確信している。

 今もなお、スタンドやテレビの前でくすぶっている野球ヲタは大勢いるはずだ。しかし、使い方次第で、野球ヲタはチームの重要な戦力になりうる。京大野球部の取材をとおして、私はそのことに確信を持った。

 ひとりでも多くの野球ヲタが立ち上がり、グラウンドに降りていく。そんな時代がやってくれば、野球界は今まで以上に豊潤な世界になるはずだ。