連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第35回

 2011年4月17日、札幌ドーム。この日、斎藤佑樹はマリーンズを相手にプロ初先発のマウンドに上った。初球、斎藤が投じたのは144キロのストレート。当時の斎藤は「真っすぐをずっと追い求めてきましたし、これからもそれを追求する気持ちを初球に表しました」と話している。


2011年4月17日のロッテ戦でプロ初先発・初勝利を飾った斎藤佑樹

【井口資仁に浴びたプロの洗礼】

 初登板の時は、まだ自分がプロで通用するのかどうかを推し量れる感じではなかった、というのが正直なところでした。開幕前の実戦では、抑えたり打たれたりしながらギリギリのところで戦っていた気がします。

 プロでは通用しないと言われたら『いや、抑えられてる』と思うし、プロでもいけるのかと言われたら『メッタ打ちされたし......』という試合もありました。自分でもその境目がよくわかっていなかったんです。ただ、相手バッターとのタイミングが合ってしまうと確実に打たれるし、タイミングを外すことができれば抑えられる。それはマウンドで実感していました。

 デビュー戦のピッチングでまず記憶に残っているのは、初回、先頭バッターの岡田(幸文)さんを空振り三振にとったことです。初球、思いきり投げた真っすぐで(見逃しの)ストライク(144キロはこの日の最速)、2球目がスライダーでファウル。追い込んでからの4球目、ワンバウンドになるフォークを振らせての三振でした。プロに入ってから、思うように空振り三振がとれなかったことに不安を感じていたなか、公式戦で最初に対戦したバッターから変化球で空振り三振をとれた......ものすごくうれしかったし、ホッとしたことを覚えています。

 これでいけるかも、なんて思った途端、3番の井口(資仁)さんに2ランホームランを打たれてしまいます。追い込んでからのストレートでした。記憶にあるのはボール気味の低め......いや、低く投げたかったのに少し浮いた感じだったかな。右バッターの井口さんに、広い札幌ドームの右中間スタンドまで運ばれたんですから、プロの一流ってすごいんだなと驚きました。

 しっかり踏み込まれていましたし、外の真っすぐを狙われていたのかもしれません。それでもあのコース、あの高さ、しかも自信を持って投げた真っすぐを右中間の一番深いところへ放り込まれたホームランでしたから、これがプロの凄味なんだと肝に銘じました。もっと踏み込ませないようにインコースへしっかり投げなきゃいけない、勝負球はやっぱり変化球になるのかなと思わされた一発でした。

【5回4失点で勝利投手に】

 1回表に2点をとられて、その裏、ファイターズは(マリーンズの先発・大嶺祐太から)3つのフォアボールで満塁のチャンスをつかみました。ここで(マイカ・)ホフパワーがバッターボックスに入ります。あの時のことはよく覚えています。ツーアウトだったので僕はベンチ前でキャッチボールをしていましたが、オープン戦でホフパワーを見ていた時のイメージから、何となく『初球の真っすぐをフルスイングして、満塁ホームランを打ちそうだな』という予感があったんです。もちろん打ってほしいと願っていたことも重なって、打った瞬間は『えっ、ホントに打ったの?』とビックリ。喜びよりも驚きが先にきました。ホントに打ってくれたホフパワーに『すごい』と思っていましたね(笑)。

 あの試合、僕は5回にも2点をとられましたが、打線が6点をとってくれて、4点リードしたまま、5回でマウンドを降りました(5回、92球、被安打6、奪三振2、無四球、失点4、自責点1、15のアウトのうち11がゴロアウト)。

 その後をリリーフ陣がゼロに抑えてくれて、僕は勝利投手になることができました。5回しか投げられず、4点もとられたのに、ホフパワーが逆転の満塁ホームランを打ってくれて、僕に白星がついた......あの時に感じたのは、5回4失点のピッチングでも勝つチャンスがあるんだなということでした。

 僕、プロでは完璧なピッチングをしなければ勝つ資格はないと思い込んでいたんです。でも味方に助けてもらいながら、こういうテンポで投げて、こういう試合運びをしていけばプロでも勝つチャンスがある。

 当時、テンポがいいから守りやすいとか、攻撃に集中できるとか、チームメイトの先輩方にそんなふうに言ってもらっていたので、プロ初勝利のあの勝ち方は自信になりました。じつはプロで1勝目を挙げる時は、打たれながら、抑えながら、という展開になるかもしれないとイメージしていたので、そのとおりになりましたね。

【まさかのアクシデント】

 その後、2試合(4月24日のイーグルス戦で2勝目/5月1日のライオンズ戦は引き分け)に投げたあと、ホークス戦に先発した時のことです(5月8日、札幌)。試合前、ブルペンで投げていて、最後、ラストの1球前、力を入れて投げた時にわき腹がピキッといってしまったんです。「あれっ、これは初めての感覚かも......けっこう痛い」と思いました。で、「ラスト、行きます」と言って、最後、軽くピュッと投げたんですけど、やっぱり痛い。さすっておけば治るかな、なんて思ったんですが(苦笑)、ロッカーに戻って着替えても痛みが引きません。

 ただ当時の僕には、それを誰かに話すという発想はありませんでした。「ちょっと痛いかも」と思いながらマウンドへ上がって、初球を投げたらかなり痛かった(ホークスの1番、川粼宗則に投じた初球のストレートは137キロ、セカンドゴロ)。もちろんスピードが出ていないことはわかりましたが、ここで代わったら次のピッチャーは何の準備もできていません。だから1回だけは何とか頑張って投げきろうと思って、そのまま投げ続けました。

 ベンチに戻った時、吉井(理人/投手コーチ)さんが異変を感じとってくれて、1回で交代ということになりました。たぶん、球数は10球だったと思います。その日は病院へは行かず、アイシングをしてもらいました(翌日、札幌市内の病院でMRI検査を受け、『左内腹斜筋の筋挫傷で全治2、3週間』と診断された)。

 梨田(昌孝)監督は「右ピッチャーの左わき腹痛は出会い頭の事故のようなもので、身体がキレているときほど何の前触れもなく来るんだよ」と話して下さいました。実際、あの日の僕はことのほか体調がよく、ケガをするような予感もまったくなくて......あえて原因を探すとするなら、マウンドが硬いように感じて、踏み出した左足がギュッと止まるので、その分の反動をどこかに逃がさなければならないということはあったかもしれません。

 どうやってその反動を逃がすのかと考えたら、たぶん腹斜筋を回さなければならなかったんでしょう。あとは、僕のその当時のフォームが縦振りではなかったことも、わき腹に負担がかかった理由だったのかもしれません。高校、大学時代のよかった時はきれいな縦振りだったのに、プロに入ってスライダーを曲げたいという意識から横振りになっていた......それもよくなかったんだと思います。

 僕は大学を卒業するまで、投げられなくなるような大きなケガをしたことがありませんでした。だからケガでローテーションを飛ばすとか戦列を離れるということへの心のダメージは大きくて、すごく落ち込みました。今から思えば腹斜筋の肉離れは珍しいことではないし、1カ月もあれば復帰できます。

 でも、その時の僕にとっては、せっかくデビュー戦からいい感じで来ていたのに、こんな大きなケガをしてしまって、という後悔の気持ちがありました。

 登録を抹消された直後は、まずケガを治すことに専念しました。痛みもなくなって、ある程度、投げられるようになってからは、いかにポテンシャルを上げるかを考えました。まずは身体のキレをもっと出すこと。それから、1軍にいたときよりもピッチャーとしてレベルアップすること。そこを目指して1カ月半、過ごしました。

*     *     *     *     *

 二軍での実戦で徐々に球数を増やし、一軍復帰が射程距離に入ってきた......そんな期待感に包まれた鎌ヶ谷には、スタンドを埋め尽くす観客が押し寄せた。6月21日、イースタンのジャイアンツとの一戦。うだるような暑さのなか、斎藤は涼感たっぷりのピッチングを披露する。

次回へ続く