横浜市内の中原街道周辺では、案内標識に「佐江戸」という地名をよく見かけます。現代から見ると、ちょっと気になる“江戸”の文字。実際、その場所は“江戸の左”にあるようにも見えます。地名の由来を探りに現地を見てきました。

江戸時代よりはるか前に名はあった

 東京都の五反田から神奈川県平塚市まで、川崎市の武蔵小杉や横浜市の港北ニュータウン、大和市などを貫く幹線道路が「中原街道」です。中世以前からの歴史を持つとされ、現代でも交通量は多く、神奈川県では県道45号に指定されています。
 
 その中原街道を走っていると、横浜市内にて高頻度で案内標識に登場する場所として、「佐江戸」(さえど)という地名があります。「佐江戸○○km」のほか、交差点において交差側にも「佐江戸 →」といった形で表記されています。


横浜市都筑区にある地名「佐江戸」。住所も佐江戸町だ(2023年6月、大藤碩哉撮影)。

 一説では、中原街道は徳川家康が江戸城に入る際に通ったとされており、現在の都筑区に位置する佐江戸は江戸城から見ると南西にあります。右か左かでいえば“江戸の左にある”といえなくもありません。“左江戸”が転化して佐江戸なのでしょうか。

 地図を見ると、佐江戸交差点から西へ200mほどの場所に佐江戸城跡があります。城は16世紀に築かれたとされることから、江戸が首都として発展し、広く名が知れ渡るより以前から佐江戸の名があったことになります。

 それどころか鎌倉時代の1262年、奈良の僧が鎌倉入りした際の紀行文『関東往還記』に、武蔵国佐江戸郷という記述が見られます。これは書物における初出とされ、当時すでに人の往来があったことがうかがえます。時代が下った戦国時代には、豊臣秀吉も小田原攻めに際し佐江戸の地(城とも)を掌握しようとしたそうです。

 実際に佐江戸城跡がある場所を訪れると、そこだけが小高い丘になっており、鶴見川流域の低地や新横浜のビル群が一望できます。築城されたのも納得の見晴らしです。

至る所で見かける道祖神(さえのかみ)

 佐江戸に鉄道はありませんが、バスは横浜市営と東急が運行されています。東急バスのウェブサイトには「バス停名の由来を巡る旅」というページがありますが、佐江戸について以下のように紹介されています。

「もともとは西土だったが、徳川入国以来、ひだり江戸に当たるので、左江戸と書き、のちに佐江戸となったという言い伝えや、村の外から病や悪いものが入らぬよう道祖神(サエノカミ)を祭った所をサエドということからこの地をサエドと呼び、佐江戸という漢字を当てたという説などがあります」


佐江戸交差点から中原街道を北に50mほど進んだ場所に地蔵が安置されている。これが道祖神という確証はないが、周囲ではこういった地蔵をたくさん見かける(2023年6月、大藤碩哉撮影)。

 特に後半の道祖神について、中原街道沿いを歩くと至る所に地蔵が安置されていることに気づきます。佐江戸は周囲に寺や神社も多いこと、そしてかつては城まであったことから、一帯は古くから人が集っていたことが裏付けられます。

『日本地名語源辞典』によると、道祖神は「塞の神」とも書くそう。災いの侵入をせき止めるため、村の入口や辻、峠などに祭り、その場所を「道祖処」(さえど)と呼んだといいます。いつしか「佐江戸」の字が当てられるわけですが、同地は南側で前出の鶴見川とも接しており、「江(川)の戸(入口)にある地」となったという説もあります。

 現代の視点では、江戸という文字がインパクトを持って目に入ってきますが、この地では足元の小さな地蔵が、地名の由来となるヒントを握っているのかもしれません。