天下統一をはたす秀吉の甲冑(写真:清十郎/PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第32回は、秀吉による信長の仇討ちと、家康が取った行動を解説する。

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信長の仇討ちへの動きが鈍かった家康

信長の恩に真に報いるためには、まずは生き延びて本国に帰り、軍勢を率いて光秀を討つべし――。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、「本能寺の変」が起きて織田信長が明智光秀に討たれた。一度は自決をも考えた徳川家康だったが、「光秀を討つべし」という家臣たちの説得もあって、生き残ることを決意する(前回記事「徳川家康「恐怖の伊賀越え」発揮された凄い統率力」参照)。

「本能寺の変」から2日後の6月4日には、家康は伊勢国白子から船に乗り、三河国に辿り着いた。命がけで伊賀越えをやってのけて、三河へと帰ることができたのである。

とはいえ、のんびりしている暇はない。家康は同日の6月4日に、信長の家臣である蒲生賢秀(かたひで)と氏郷の父子に対して、書簡を出してこんな決意を述べた。「惟任(これとう)」とは、光秀のことである。

「信長年来之御厚恩難忘候之間、是非惟任儀可成敗候」

信長から受けた長年の恩は忘れ難い。明智光秀を成敗しようではないか――。

今にも明智を討つべく、飛び出していきそうな勢いだが、その言葉とは裏腹に家康の腰は重い。もともとは6月11日に出陣するはずが、雨が降り続いたため、いったんは見送っている。その後も延期を繰り返した結果、岡崎を出発して尾張の鳴海に到着したのは、14日のことだった。

家康とは対照的だった秀吉のスピード感

6月14日、家康は美濃の地侍である吉村又吉郎(氏吉)に書簡を出し、次のように弔い合戦に挑む決意を述べた。

「今度京都の様外、是非なき儀に候。それについて、上様御弔として我々上洛せしめ候」

「京都の様外」とは「本能寺の変」のことだ。これから上洛すると意欲を見せている。この書状の添状として、石川数正と本多忠勝が連名で、吉村又吉郎に光秀を討つための支援を求めた。

家康の筆はまだ止まらない。同日付に美濃の地侍である佐藤六左衛門尉にも書簡を出して、「逆心の明智討呆たすべき覚悟にて」と胸中を明かしながら、佐藤だけではなく、美濃の地侍である日根野弘就(ひねのひろなり)と金森五郎八長近にも、上洛への協力を求めた。

一見、「光秀を討つ」ことに家康が躍起になっているようにもみえるが、文面から察するに、吉村又吉郎も佐藤六左衛門尉も、ともに「家康のもとに馳せ参じる」と、自分たちから申し出たらしい。それに対して、家康は「自身も同じ考えだから、サポートしてくれ」と言っている。

しかし、家康がそんなことをしているうちに、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉は、備中高松城(岡山県岡山市北区)から、山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)へと、猛スピードで駆けつけていた。語り草になっている秀吉の「中国大返し」だ。

家康が出陣する前日にあたる13日の時点で、秀吉は山崎の戦いにて、すでに明智光秀を討っていた。

あれだけ書簡では「光秀を討つ」と言いながら、家康はまったく間に合わなかった。重臣である酒井忠次が、秀吉から次のような書状を受け取ったのは、6月17日だったとされている。

「上方が平定したから、早々帰陣せられたし」

秀吉の得意満面な様子が文面から伝わってくるようだ。このとき、忠次は津島まで進んでいたが、すぐさま家康のいる鳴海に引き返し、事の次第を伝えている。目まぐるしく状況が変わるなか、家康は上洛をとりやめている。

しかし、秀吉に先を越されてしまい、家康が悔しがったとは思えない。信長の仇討ちよりも、自身の足元を固めることに注力した節がみられるからだ。「伊賀越え」を成功させて三河に帰った日、家康はすぐに岡部正綱に書状を出している。

「此の時に候間、下山へ相うつり、城見立て候て、ふしんなさるべく候。委細、左近左衛門申すべく候。恐々謹言」

領国である駿河から、国境を超えて甲斐に侵入し、下山に築城せよ――と、命じている。命じられた岡部正綱はもともと今川家の家臣で、今川氏が滅亡すると、信玄に仕え、さらに武田氏の滅亡後は家康に従った。岡部一族で名を馳せた岡部元信は、正綱の弟とも言われているが、定かではない。

いち早く土地を抑えるべく、手を打つ

その正綱に家康がすぐさま築城を命じたのは、甲斐国巨摩郡にある下山が、穴山信君の領地だからだ。信君は「伊賀越え」をしようとする家康を「うたがひ奉りて」(『三河物語』)、つまり、信じることができずに別行動し、その結果、落ち武者に殺されている。領主がいなくなった土地をいち早く抑えるべく、家康はすぐに手を打ったのである。

家康は約1週間後の6月12日、甲賀の和田八郎(定教)あてに礼状を送っている。定教はもともと近江の黒田の城主で、織田信長に属していたが、のちに流浪して甲賀に住んだ。家康の伊賀越えのときには、甲賀の山中で忠節を尽くしたため、家康は、起請文をつかわして、その身の上を保証している。

さらに、家康は甲賀武士から数人を旗本にして、出世させた。信長亡きあとの次なる展開に備えて、家康は信頼できる人材の確保にも尽力していたようだ。

武田が滅び、そして今、織田が滅びた。そんな今、家康が目を向けたのは旧武田領である、甲斐、信濃、上野西部だ。

家康が目を向けたのは旧武田領

当然、北条や上杉も手を伸ばしてくるだろう。主君の仇討ちをすると対外的にアピールしていたものの、上洛などしている場合ではなかった。

6月5日の段階で、甲斐へと侵略しつつあった家康。足場を着実に固めながら、その勢力を伸ばすべく、北条氏との抗争を繰り広げることとなる。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)