太平洋戦争に参加したヨークタウン級空母「エンタープライズ」は、その勇敢な戦いぶりから「ビッグE」などの愛称を付けられた武勲艦です。大戦で最多となる20個の従軍星章を得た稀有なアメリカ空母の生涯を振り返ります。

日本軍に9回撃沈された!?

 アメリカ海軍の空母「エンタープライズ」は、第2次世界大戦で用いられたアメリカ海軍艦艇のなかで、最も多くの勲章を受けた、いわゆる「武勲艦」です。

「エンタープライズ」はヨークタウン級空母の2番艦として1936(昭和11)年10月に進水、1938(昭和13)年5月に就役しています。

 このヨークタウン級空母は、旧日本海軍の翔鶴型空母に匹敵する飛行甲板(長さ244.4m×幅26.2m)や、航空機72機とその補用機36機、合計108機を搭載可能な高い航空機運用能力、15.2cm砲の直撃に耐えられる垂直防御など、優れた特色を有した高性能艦でした。

「エンタープライズ」の就役時の基準排水量は1万9800トン、速力は32.5ノット(約60.2km/h)で、12.7cm高角砲8門を備えていました。


1945年9月に撮影されたアメリカ空母「エンタープライズ」(画像:アメリカ海軍)。

 実は、太平洋戦争の開戦劈頭に起きたハワイ真珠湾攻撃で、「エンタープライズ」はすでにその幸運ぶりを発揮しています。

 1941(昭和16)年12月2日、ウェーク島に戦闘機を輸送した「エンタープライズ」は、12月6日にハワイ真珠湾へ帰港する予定でしたが、荒天で艦隊速力を落としたことで、12月7日朝(ハワイ時間)の日本海軍による真珠湾攻撃に遭遇しませんでした。

 逆に「エンタープライズ」がいなかったことで、普段同艦が停泊している埠頭には代わりに標的艦「ユタ」が接岸していました。その結果、「ユタ」は日本海軍の九七式艦上攻撃機の空襲により撃沈されています。

 しかも、このとき日本は「エンタープライズ型空母1隻を撃沈した」と誤認発表したほど。これまた、のちに計9回も発表された「エンタープライズ撃沈」の最初の誤報となりました。

 真珠湾攻撃が行われた12月7日朝の時点で、「エンタープライズ」は日本の攻撃を察知していなかったので、SBD「ドーントレス」艦上爆撃機18機をハワイに向かわせています。この編隊がハワイに到着しようとした時に、真珠湾攻撃が開始されました。これを受け、SBD艦爆は日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)と交戦し、2機を撃墜します。これは、太平洋戦争で最初に撃墜された零戦となりました。

 その一方で「エンタープライズ」は日本空母の捜索にあたったものの、こちらは発見できず、結局、ハワイ真珠湾を封鎖していた潜水艦1隻を撃沈するに留まっています。

最初で最後の3姉妹そろい踏みの戦い

 真珠湾攻撃の後、「エンタープライズ」はウェーク島救援、マーシャル・ギルバート諸島への奇襲空襲に参加します。この攻撃で日本に本土空襲を警戒させ、空母兵力を拘束することに成功しました。

 この後、南鳥島空襲に参加しますが、ここで日本軍は「エンタープライズ級空母1隻を撃沈した」と2度目の誤報を出しています。

 1942(昭和17)年4月、「エンタープライズ」は姉妹艦の「ホーネット」を護衛し、日本本土空襲作戦に従事します。「ホーネット」には航続力が長いB-25陸上爆撃機が搭載されており、日本本土を奇襲空襲した後で、中国軍の占領地に飛ばす計画でした。

 この作戦で「エンタープライズ」は日本の哨戒艇5隻を沈めています。日本軍の勢力圏内に踏み込んで、果敢な攻撃を加え、作戦を成功させた司令官ハルゼー中将の冒険的戦果により、アメリカ国民は沸き立ち、士気が向上しています。


1942年10月26日、サンタクルーズ諸島沖海戦で日本軍機の空襲を受ける空母「エンタープライズ」(画像:アメリカ海軍)。

 太平洋戦争の分水嶺のひとつとも言えるミッドウェー海戦では、「エンタープライズ」は「ヨークタウン」「ホーネット」とともに参加しています。この戦いは、ヨークタウン級空母3隻が揃い踏みした最初で最後の戦いとなりました。

 ミッドウェー海戦において「エンタープライズ」艦爆隊は、日本空母「赤城」「加賀」の2隻に命中弾を与えます。その後、空母「飛龍」が反撃を加えてきたことで、姉妹艦「ヨークタウン」が大破しますが、これを受け「ヨークタウン」搭載機を収容した「エンタープライズ」は、空母「飛龍」にも命中弾を与え、ミッドウェー海戦を勝利へと導きました。さらに、「エンタープライズ」搭載機は日本海軍の重巡洋艦「三隈」も撃沈し、同「最上」にも大損害を与えました。

 ミッドウェー海戦で勝利をおさめ、空母戦力を互角としたアメリカは、ソロモン諸島で反撃に出ます。

世界初のレーダー戦闘を何度も実施

 1942(昭和17)年8月の第2次ソロモン海戦で、「エンタープライズ」は空母「サラトガ」と共に、日本空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」と交戦します。「エンタープライズ」は250kg爆弾3発を被弾し損傷しますが、1発が幸運にも不発弾で、致命傷は免れました。

 とはいえ、被害は甚大で操舵不能に陥ったものの、日本軍攻撃隊は距離80kmの近くにいた「エンタープライズ」を発見できなかったため、事なきを得ます。

 修理された「エンタープライズ」は、同年10月の南太平洋海戦で、再び日本機動部隊と交戦します。日本は空母「翔鶴」「瑞鶴」「隼鷹」「瑞鳳」を主力に据えた一方、アメリカは「エンタープライズ」「ホーネット」のみと兵力では劣勢でしたが、航空隊の奮戦によって「瑞鳳」と重巡「筑摩」を撃破する戦果をあげました。

 この戦いで「エンタープライズ」は爆撃を受け損傷しますが、魚雷は回避し、ここでも致命傷を避けるという強運ぶりを発揮します。しかし、同型艦の「ホーネット」は大破し、後に日本軍水上艦隊に撃沈されました。


1944年6月、太平洋上を航行中の空母「エンタープライズ」。奥に見えるのは僚艦の空母「レキシントン」(画像:アメリカ海軍)。

 こうして「エンタープライズ」はヨークタウン級空母3隻の中で唯一生き残った艦となりました。同艦は損傷していましたが、戦艦「比叡」「霧島」を中心とする艦隊がガダルカナル島砲撃に向かっていたため、艦載機を同島のヘンダーソン飛行場へ向かわせ、ガダルカナル島防衛に貢献しています。

 翌日も艦載機37機が日本軍輸送艦隊と、飛行場砲撃後に退避する艦隊を攻撃し、重巡「衣笠」を撃沈、重巡「鳥海」「摩耶」と軽巡「五十鈴」に損害を与えました。

 1943(昭和18)年1月、レンネル島沖海戦に参加したあと、「エンタープライズ」は真珠湾に帰港。ここで、同艦に対してアメリカ空母初となる大統領感状が送られています。ちなみにこの時、日本軍空母搭乗員で捕虜になった豊田中尉に「エンタープライズ」艦内を見学させています。これは、日本側の空母情報を得るためにわざと見せたのですが、ここで彼は航空機を天井に吊るして搭載機数を増やす手法に感心しています。

 同年7月、「エンタープライズ」は大改装に入ります。水中防御力が弱いことと、対空兵器が増加して、浮力が減ったことを補うため、船体下部左右にバルジを装着。これにより、軽荷時に右舷側に傾斜する問題も解決されています。ただ、最高速度は30ノット(約55.6km/h)に低下しています。加えて、消火装置などを増設してダメージコントロール能力も強化。ほかにも新型レーダーや射撃管制装置、カタパルトの設置が行われました。このとき戦闘機も新型のF6F「ヘルキャット」に更新されています。

 これら一連の改装を終えた「エンタープライズ」は、同年11月下旬に起きたギルバート諸島沖航空戦に参加し、世界で初めて「艦載機のレーダーを使用した夜間迎撃」を成功させています。

アメリカ艦として初のイギリス勲章も授与

 翌1944(昭和19)年、「エンタープライズ」はマーシャル諸島上陸支援に参加した後、日本海軍の一大根拠地だったトラック島への空襲を行います。この時、初めて「夜間に艦載機のレーダーで目標を捕捉し、目視で投弾」する攻撃を実行し、成功を収めています。

 その後、同艦はヤルート環礁、ビスマルク諸島への攻撃、パラオ大空襲に参加し、パラオでは日本軍機が放った魚雷の直撃を受けますが、幸運にも不発でした。こうして生き延びた「エンタープライズ」は、マリアナ沖海戦に参加します。レーダーで日本軍攻撃隊を察知した同艦は、F6F戦闘機を発艦させて待ち伏せ、日本軍に大損害を強いました。

 その後、レイテ沖海戦で戦艦「扶桑」「山城」「武蔵」、重巡「最上」、駆逐艦「霜月」に損害を与え、空母「瑞鳳」を撃沈。その後も、フィリピン戦で、駆逐艦「若月」「長波」「浜波」を沈めています。


1945年10月、パナマ運河沖を進む空母「エンタープライズ」(画像:アメリカ海軍)。

 1944(昭和19)年12月、エンタープライズは夜間空母となり、硫黄島や沖縄の戦いに参加します。翌1945(昭和20)年3月に、日本の艦爆「彗星」が投下した500kg爆弾の直撃を受けたものの、またも不発で、大損害を免れました。

 沖縄戦では、第58任務部隊の旗艦として、沖縄への夜間空襲に参加します。このとき、神風特別攻撃隊の命中を受けました。ここでは沈没こそ免れたものの、大きな損傷を受けたため、接敵しようと飛んできた旧日本海軍の富安中尉に敬意を表し、「エンタープライズ」の乗員たちは「日本海軍が3年かかっても与えられなかったほどの損害を、彼はたった一人で一瞬のうちにやってのけた」と賞賛。彼を丁重に水葬しています。

 こうして損害を被った同艦は、修理のためにアメリカ本国へ帰還。そこで終戦を迎えています。

 こうして太平洋戦争(第2次世界大戦)の生き抜いた「エンタープライズ」は戦後、イギリス海軍大臣による公式訪問を受け、イギリス艦艇以外で初めての「海軍本部ペナント」を受賞しました。1947(昭和22)年、「エンタープライズ」は除籍され、1960(昭和35)年に解体されています。

「エンタープライズ」は、多くの戦果を挙げ、大戦中で最多となる20個の従軍星章を授与したほか、大統領部隊感状や海軍部隊褒章を得るなど、輝かしい艦歴を有しました。その勇名は世界初となった原子力空母「エンタープライズ」に受け継がれたほか、現在建造中のジェラルド・R・フォード級空母の3番艦に早くも命名されています。