勉強とアルバイトを両立しながら浪人を続けていた敦司さん(仮名)は、交通事故に遭ったことで人生が変わったという(写真:Fast&Slow/PIXTA)

浪人という選択を取る人間が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、偏差値40台の公立高校から石巻専修大学に進むも中退。勉強とアルバイトを両立しながら浪人を続けていた中で、5浪目のときに交通事故に遭ったことで人生観が変わり、6浪目で國學院大學に合格した敦司さん(仮名)にお話を伺いました。

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みなさんは、浪人中に働くことについてどう思いますか。もしかしたら「時間がもったいない」という感想を抱くかもしれません。今回お話を聞いた敦司さんも、受験費用を捻出するために、働きながら受験勉強を続けて、6浪目で國學院大學に合格しました。

大事故に巻き込まれる

そんな彼は5浪目のときに、車を運転中に雪道でスリップしてトラックと正面衝突をするという大事故に巻き込まれます。命に別状はなかったものの、鞭打ちになったことで、しばらくの間後遺症に苦しみました。

しかし、彼はこの交通事故で「人生観が変わった」と言います。

そして6浪目で志望していた大学に入れた彼は、「回り道をしてきましたが、無駄ではなかったです」と晴れ晴れとした表情で語ってくれました。

交通事故が彼の意識をどう変えたのか? 6年にも及ぶ浪人生活を、どう前向きに捉えているのか? 彼の壮絶な人生に迫ります。

敦司さんは1998年に、岩手県に生まれました。父親は県庁職員で、母親は栄養士でした。彼は幼少期の家庭環境について、家族仲が悪く「複雑であまりよくなかった」と振り返ります。

家庭環境は敦司さんの人格形成にも影響を及ぼしたようで、小学校高学年に上がっていくに連れて、大人の顔色をうかがう内向的な性格になっていったそうです。

勉強面では、理数系が苦手で、総合的な成績は平均より下でした。公立小学校から同じく公立の中学校に上がっても、成績の大きな変動はありませんでしたが、そんな彼にも人一倍得意で、好きだったことがありました。

「絵を描くのが好きだったんです。小学3年生のときに図画工作で書いたネズミの絵が先生に評価されて、『芸術分野の才能がある』と言ってもらったんです。それから絵画教室に通い始め、中学に入ってからは本格的に芸術の道に進もうと思いました」

敦司さんは自身の興味と才能を活かすために、岩手県の中で芸術科があった岩手県立不来方高校を目指しました。しかし学力が合格できるレベルに達しなかったため、隣町の公立高校に進学します。入学してしばらくしてから、勉強に対するモチベーションが一切なくなってしまい、抜け殻になってしまったそうです。

成績最下位を経験、高校で不登校に

「定期テストではずっと適当に答えを書いて提出していました。受験勉強はしていたので学校に入ったときの成績は真ん中より上だったのですが、しだいに順位を下げて、500人いた学年で最下位か、下から2番目くらいの成績になってしまいました。2学期に入ると、精神的に荒れてしまって、不登校になってしまいました」

幸い、高校2年生になるころには、ある程度精神状態も回復して学校に行くようになりました。しかし、ここでアクシデントが起こります。

敦司さんの進学した高校では、高校2年生のときに進路に応じて4つの系列から希望するコースを選択できるようになっていました。そこで、芸術系に加えて歴史・民俗学の勉強に興味があった敦司さんは「人文系列」コースを希望していたのですが、願いが叶わず「自然系列」コースに進むことになってしまったのです。

「私が学校に行かない間に、すでに学校で文理選択が行われていたので、人文系列の定員が埋まってしまったんです。担任の先生と相談して、『自然系列』を勧めてもらったので、そちらに進むことにしました。釣りが好きでしたし、就職にも強くてお金を稼げそうだなと思ったので、水産学を学べる大学に行こうと思ったんです」

しかし、勉強にはなかなか身が入らなかったようです。成績はいちばん低い時期からは持ち直したものの、低位置のままでした。一般受験で大学に進学する人が同級生に1人しかいない環境の中で、推薦で受けられる大学を探した敦司さんは、石巻専修大学の理工学部生物科学科にAO入試で合格し、進学することができました。

「東北の私立の中で唯一水産を専門にできるという学校だったので選びました。評定が足りずに推薦での受験校選びが難航する中、なんとか希望の進路に進めてよかったです」

大学3年生で通えなくなる

こうして現役で石巻専修大学に進んだ敦司さん。

しかし、大学に入ってからも勉強をする気にはなれなかったようです。同級生に助けられてなんとか3年生まで進級はしたものの、大学に行くことに疲れてしまい、3年生の1学期から通えなくなってしまいました。

「石巻専修大学はとてもいい大学でした。でも、学年が上がるごとに授業内容が難しくなって、授業を聞いても全然理解できなくなったのです。また、自分の成績が低かったことで、大学2年生のときのコース選択で希望していた水産コースに進めませんでした。実際に進んだコースの勉強に興味を持てなかったことも、学校に行けなくなった大きな原因です。自分の人生における、大きな挫折でした

こうして敦司さんは、人生をもう一度やり直すため、文転して自身が「本当に心の底からやりたかった人文系の学問を学びなおす」ため、浪人することを決意します。

「大学3年生の1学期から大学を休学して1日5〜6時間、最大で8時間くらい勉強していました。英語と数学をなんとかしないといけないと思って、その2つの科目から取り組み始めましたが、英語はとりあえず参考書に書いてあることを理解せずにノートにそのまま書き写していましたし、数学は簡単な参考書の公式を丸暗記していました。今思うと、なんの意味もない勉強法を4カ月続けていたのです」

その年の8月の河合塾の第2回センター試験模試の結果が戻ってきて、このままではダメだと、初めて危機感を抱いたようです。

「数学の偏差値だけは50を超えましたが、ほかの教科はすべて偏差値が30〜40台でした。今の勉強を続けていても国公立大学に行けないのは確実だと思い、なんとかしないといけないなと思って、YouTubeで勉強法をあさるようになったのです」

この無我夢中で情報を収集しようとした姿勢が、敦司さんの人生を大きく変えることになります。

「今年の合格は厳しい」と言われる

模試の結果に絶望し、自身の勉強法を改めようと思った敦司さんは、篠原塾(オンライン家庭教師サービス・個別指導型予備校)で首席講師を務める松原一樹氏が運営するYouTubeチャンネル「YouTube予備校」を見つけます。

その動画の概要欄に学習方法の相談ができるリンクが貼ってあったことに気づいた彼は、松原氏に相談メールを送りました。そこで基礎学力のチェックテストこなし、学習相談で言われたことは、「今年の合格は厳しい」という内容でした。

「『学力はピラミッドになっていて、積み重ねていくもの』で、私は中学レベルの基礎学力を身につけるところからのスタートだと教えて頂きました。そこで初めて学力の土台を作る重要性に気づいたんです。中途半端に大学に在籍しているのもよくないと思ったので、大学も退学して、決意を固めました」

その相談内容をもとに、英語と現代文に絞って勉強を始めた敦司さんは、指示してもらった参考書を順番にやりつつ、中学レベルの勉強を丁寧に重ねました。

この年のセンター試験の結果は5教科7科目で40%に満たないくらいでしたが、英文法は自信を持って解けるようになったそうです。ただ、この成績ではどこも受からないと思った敦司さんはこの年のほかの受験を取りやめたと言います。

「せめて国公立、もしくは日東駒専(日本大学、東洋大学、駒澤大学、専修大学)以上の大学に行きたいと思っていたので4浪(4浪目の年齢での受験)を決意しました」と言う彼は、ついに理数系科目を諦めて文系科目だけで受験できる私立文系大学に絞ります。

4浪に突入した彼は、1日平均6時間の勉強を続ける生活を送ります。7月には英検を利用できる入試のために、英検2級を取得しました。着々と難関大学に行く土台を固めていたものの、ここで安心してしまった彼は燃え尽きてしまい、勉強時間が半分以下になったそうです。

結果、この年は法政大学社会学部の過去問の英語で6割を取れるようになったものの、ほかの科目が間に合わず、出願した法政大学と國學院大學に落ちてしまいました。

「塾や参考書のお金を払うためにバイトを1つ増やしたことで、週24時間労働するようになってしまったんです。学力もたいしたことないのに慢心してしまったんです」

交通事故で人生観が変わる

彼は今、当時落ちた理由を「受験戦略を失敗した」と振り返ります。

「バイトに時間を取られていたため政治経済の勉強を1月にようやくスタートしたのですが、試験本番までに間に合わずに4割しか取れませんでした。欲張ってMARCHを受けましたが、志望校を下げていれば、どこかには受かっていたと思います。落ちて当然だなと思いました」

こうして敦司さんは5浪目に突入します。しかし、この年はコロナが流行しだした年で、彼の受験戦略にも影響を与えます。

「受験費用がなかったので、春夏でがっつり働いて、秋冬で受験勉強に集中しようと思っていました。でも、コロナが流行して春夏でしっかり稼げる仕事が見つからなかったのです。だから、後半もがっつり働いて、次の年以降に本気を出そうと考え方をシフトしました。7浪目くらいまでには受かればいいかなと思っていました」

この年は諦めて、6浪目以降にかける……。そう思っていた彼に、意識の変化が訪れます。それは、1月に交通事故に遭ったことがきっかけでした。

「職場に行くときに、車で交通事故を起こして廃車にしてしまったんです。雪道でスリップして4トントラックに突っ込んで、しばらく鞭打ちになりました。直前でハンドルを切ったから助かったんですが、下手をすれば死んでいました。


トラックの衝突事故に遭ったときの写真(写真:敦司さん提供)

それまでの自分は、40歳まで仕事をしてそこから大学に行くのも悪くないと長期スパンで考えるようになっていたんですが、交通事故にあったことがきっかけで、いつ人生が終わってもおかしくないと思えました。だから、何としても若いうちに大学に入らないといけないと思ったんです」

事故にあって危機感が芽生えた彼は、そこから焦りが生まれ、勉強に対するエネルギーに変わったと言います。

それまで続けていた養鶏場の仕事を10月で退職し、11月まで日雇いの仕事で受験費用を稼ぎきった彼は、12月から志望校を國學院大學一本に絞り、平均10時間の勉強を重ねた結果、見事に合格しました。

「正しい方向に努力するのが大事なんだなと強く実感した6年間でした。いつだって本番の結果がいちばん大事だと思っていたのですが、それ以上に、それまでの準備で結果は9割決まってしまうんだと気づけたことが、人生において大きな財産となりました

大学教授を目指し、学びを続ける人生へ

こうして激動の浪人生活を振り返ってくれた敦司さん。彼に浪人してよかったことを聞いたところ、「メンタルが強くなった」と答えてくれました。また、頑張れた理由に関しては、「ゴールが定まっていたから」と返してくれました。


敦司さん(写真:敦司さん提供)

「浪人を決断した時点で、自分は社会のレールから外れてしまったと思いました。でも、この経験のおかげで、人生で初めて成功体験を得られたんです。やったらやっただけの結果が出るんだと実感できて自信を持てるようになりましたし、普通の人生から離れたことで変なプライドもなくなり、ちょっとやそっとのことで動じなくなりました」

現在、敦司さんは國學院大學文学部日本文学科の2年生。今、彼は「本当に自分が心の底からやりたいと思える学問が見つかった」と笑って話します。

「今、民俗学の勉強がとても面白いんです。自分の趣味の釣りや、最初に石巻専修大学に入った経験がすべてつながったと思えるようになりました。それは、民俗学が人と自然について学ぶ学問だからなんです。回り道をしてきた人生ですが、無駄ではなかったと思えるようになってよかったです

「将来は大学教授になりたい」と話す敦司さん。たくさんの挫折を経験してきた彼ならきっと、大勢の学生の目線に立ったやさしい先生になるだろうと思いました。


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(濱井 正吾 : 教育系ライター)