吉本興業の元会長、大粼洋さん(撮影:梅谷秀司)

吉本興業の元会長、大粼洋さんのインタビュー後編(前編はこちら)。

大粼さんは初の単著『居場所。』のプロローグを「松本との約束」ではじめ、エピローグを「松本との約束の『その後』」で締めくくりました。この事実だけでも、いかに松本人志さんとの絆が深いかがうかがえます。

悩む2人のマネジャーを“勝手に”引き受ける

大粼さんと松本人志さん、浜田雅功さんの出会いは2人が18歳のとき。NSC(吉本総合芸能学院)同期のトミーズやハイヒールが売れっ子となる中、会社にも舞台の客にも面白さをわかってもらえず悩む2人を見た大粼さんはマネジャーを“勝手に”引き受け、大阪ローカルのラジオ番組、心斎橋筋2丁目劇場、「4時ですよ〜だ」(MBS)など居場所を作って人気者にし、東京進出のきっかけを作りました。

「今振り返ってみると、居場所を作ろうとしたというより、『結果としてそうなった』というところのほうが多いと思うんです。松本くんと浜田くんの意見を聞いて、愚痴を聞いて、文句を聞いて、『そやな、じゃあそうしようか』とか、『そうあらためようか』とか。『じゃあそういう場所作るわ』とか。なぜか否定もせずに『わかった、そうしよう。了解、わかった』とやってきただけのことなんですよね」(大粼さん)

そう謙遜していましたが、賛同者や協賛どころか部下すらいなかった当時の大粼さんを突き動かしたのは、「2人やったら世界に行ける。お笑いの世界を変えられる」と感じたから。さらに頼られたことのうれしさを挙げました。

「『何で僕ら世間に評価されへんのですか』って、そのころ浜田くんが寂しそうな顔をしながら僕をにらむわけですよね。で、どこか頼って来てくれているわけですよ。『俺を頼ってくれるんや』といううれしさと『俺でいいのかな』という不安と。ひとりぼっちで何1つない中、がむしゃらに彼らの居場所を作ってこれたのは、やっぱり頼ってくれた喜びが大きかったでしょうね」(大粼さん)

解散危機をどう回避すればいいのか

ダウンタウンとのエピソードで印象的なのは、「浜田が行方不明!」。“2丁目現象”と言われるほどダウンタウンが爆発的な人気を得たころ、浜田さんが突然いなくなってしまい、番組に穴を空けてしまいました。結局、1週間後に戻ってくるのですが、大粼さんも周囲の人々も浜田さんを責めることなく、むしろ「一回休み」と肯定していたようです。

「当時の浜田くんは『ここはどこ? 僕は誰?』みたいなことだっただろうし、自分が自分でないような感じだったんでしょうけど、何かのきっかけで仲間や友や相方やいろいろなことを胸のあたりで思い出して戻ってきたんでしょうね。このときに限らず世間の方々も『逃げたかったら逃げて、また必ず帰ってきて』という関係性というか、それがしやすい世の中になったらいいなと思っています」(大粼さん)


(撮影:梅谷秀司)

今いる場所がつらかったら頑張らなくていい。でも完全に逃げるのも勇気がいるから、少しの間だけ一回休んでどこかに避難する。そんな居場所を持つことが大切であり、現在以上に多忙だった大粼さん自身も「サウナ」という一時避難場所を持つことで救われてきたそうです。

もう1つ、かつて訪れたダウンタウンのピンチは解散危機。仕事依頼が殺到する中で意見が分かれ、「けんか別れするのではないか」と感じたことが何度もあったようです。そんなとき大粼さんは「2人を集めて話し合いをする」のではなく、「1対1でそれぞれと話をして落としどころを探る」という方法を採用しました。

「楽屋が別で、4時30分に2人がスタジオで顔を合わせたら、ニコニコ笑ってやらなきゃいけない。その前に2人を会わせてしまうと『(もうコンビは)やめや』と最悪の事態になりかねなかったので。2人は“奇跡のコンビ”だと信じていましたし、別々に話を聞いてうまく落としどころを決めることに自分の役割があると思っていました」(大粼さん)

大粼さんはあえて2人の間に入り込んで“3人目のダウンタウン”のようなポジションで接していたそうです。そのポジションもまた大粼さんの居場所であり、ダウンタウンにとっても大粼さんのいる空間が2人の居場所なのでしょう。

「東京進出」も嫉妬で引き裂かれる

そんな大粼さんとダウンタウンが一時的に引き裂かれてしまったのが1989年。ダウンタウンが本格的に東京進出を果たした一方で大粼さんは「大阪残留」を命じられてしまいました。仕事がないころから一緒にやってきて絶好のチャンスが訪れたにもかかわらず、上司の嫉妬という何とも残念な形で引き裂かれてしまったのです。

それでも大粼さんは悔しさを感じながらも、松本さんが会社に対して怒りの感情を持ってくれたこともあって、その人事を承諾。気持ちを切り替えて大阪に残り、ほかの若手芸人たちの居場所を作っていったそうです。

「悲しかったり悔しかったりもあったけど、淡々とコツコツとやるしかないと思ったんですよね。そしたら誰かが声かけてくれたり、助けてくれたり、アドバイスくれたりして気づきがあったりとかいろいろ出てくるわけで。何か変な言い方だけど、『淡々とコツコツ』は頭がボーッとしていてもできることじゃないですか」(大粼さん)

その後、大粼さんも東京に異動し、さまざまな事業を手がけていきました。ダウンタウンはバラエティーだけでなく、松本さんは本や映画、浜田さんはドラマや歌などに活躍の場を広げ、大粼さんは2人を尊重して任せながら、少し離れた場所からサポート。アプローチの方法を変えながらも2人の居場所を作り続けてきました。

振り返ること約4年前、闇営業騒動が世間を騒がせたとき、松本さんは「僕は大粼洋とずっとやってきましたので」「大粼さんがいなかったら僕も辞めるので。ウチの兄貴なんで」などと話していました。これらの言葉は大粼さんが「ダウンタウン」というコンビ名が決まる前から松本さんの居場所を作り続けてきたからではないでしょうか。

また、これは裏を返せば、「松本さんに居場所を作ること自体が、大粼さんの居場所である」ことを証明しているような気もします。

さんまの「しゃーない」で心が軽く

『居場所。』という本の中にはダウンタウンだけでなく明石家さんまさんとのエピソードも書かれていました。「若いころから誰にも相談しない性格だった」という大粼さんが唯一相談したのが、さんまさんで、しかもその内容は「離婚するかどうか」というプライベートの話。

「さんまくんは『大粼さん、しゃーないもんはしゃあないよ』とあっさり言ってくれて、『そやな』と思えてありがたかった。その後、さんまくん自身が離婚するときも『しゃーないわ』と言っていました。『しゃーない』は言われた人も、口に出した本人も、どこか心が浄化されるから、口に出して言ったほうがいいんじゃないですかね」(大粼さん)


(撮影:梅谷秀司)

これは「悩みが解決しなくても、『しゃーない』という言葉でだましだましやっていったら、そのうちいい風も吹いてくる」という、いかにもさんまさんらしい考え方。ベストな解決方法があったとしても、そのとおりになることはなかなか難しい。だから「しゃーない」とつぶやくことで少し心が軽くなって絶望せずに済むということでしょう。ビジネスパーソンもベストを求めすぎず、時に「しゃーない」を使ったほうがいいのかもしれません。


「たとえば、恋人と別れてしまってよりを戻したい。仕事でこうしておけば良かった。何であんな心にもないことを言ってしまったのか。こんなときに限ってやらかしてしまった……これらは全部『もうしゃーないな』って。それしかないですね」(大粼さん)

大粼さんは「吉本には昔も今も、あのころの松本くんのような芸人がたくさんいます」「どこにも居場所が見つからないけどお笑いが好きで、唯一の選択肢としてこの道に入った人たちです」とも語っていました。今後も吉本の社員たちがこれまでの大粼さんと同様に芸人たちの居場所を作っていくのでしょう。

ここまで挙げてきた「一回休み」「頑張りすぎない」「しゃーない」などは、およそ企業のトップとは思えないような脱力を誘う方法論でした。ただ、生きづらさを感じさせるようなニュースが続くなど、ストレスを抱えやすい現在の世の中にフィットするようにも感じますし、「居場所がない」などの悩みを抱えている人に参考になりそうです。

(大粼洋さんのインタビュー前編はこちら

(木村 隆志 : コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者)