信長の後継者をめぐる、秀吉と家康の対立(写真:RITSU/PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は信長の後継者をめぐる、秀吉と家康の対立を分析する。

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀を、山崎の戦い(1582年)で破った羽柴秀吉。その後、秀吉は織田家の宿老・柴田勝家と対立を深め、賤ヶ岳の戦いで柴田軍を打ち破り、最終的には柴田勝家を自刃に追い込む(1583年)。

この時、秀吉は織田信雄(信長次男)と手を組んでいたが、しだいに秀吉と信雄の関係は冷却化する。「信長後継の天下人たらん」と着実に力をつける秀吉に、織田信雄は嫌悪感を抱いていたのだろう。

織田信雄援助を申し出る家康

織田信雄は秀吉に対抗するため、徳川家康と結ぶ。『三河物語』には「天正12年(1584)、秀吉が織田信雄に腹を切らせようとし」、信雄は家康を頼ったとある。

それに対し、家康は「是非とも援助しよう。秀吉は酷いことを言う。秀吉は、柴田勝家と織田信孝殿(信長三男)が同盟を結ぶと、賤ヶ岳で柴田と戦い、滅亡させた。そして、信孝殿も殺した。信雄殿を秀吉が盛り立てようと言っていたので、世は平穏になるかと思っていたのに。信雄殿に腹を切らせるという。是非とも、信雄殿をお助けしよう」と言い、織田信雄援助を決断したという。

信雄は誼があった信長の子であり、見放すことはできないと思ったのだろうか。また、たんにそれだけではなく、この頃、関東・信濃の状況にも秀吉は関与し始めており、家康としてはそれを食い止めたいという狙いもあったのかもしれない。

そのような思惑はあったとは言え、家康は秀吉とどうしても戦をしなければならない理由はなかった。前提として、織田信雄と秀吉の対立があり、織田信雄の要請を受けて、家康は秀吉との戦に踏み切った、とみることができる。家康は同盟を結んでいた小田原の北条氏直に対しても、「秀吉がほしいままに振る舞うので、秀吉を討つために、織田信雄と出馬した」と伝えている。

天正12年2月、家康は酒井重忠を尾張国に派遣し、織田信雄と会談させた。翌月6日、津川雄光・岡田重孝・浅井長時の親秀吉派の三重臣を伊勢長島城(三重県桑名市)で殺害した織田信雄。これは、秀吉への宣戦布告に等しいものだった。

3月7日、家康は浜松を出陣し、三河岡崎城に入った。かなり素早い対応であり、織田信雄との事前の相談もあってのことだろう。同月13日、家康は尾張国清洲城に入り、織田信雄と対面する。『徳川実紀』によると、織田信雄は家康の来訪を喜び、涙を流し、感謝したという。

信雄と家康の動きを見て、秀吉も行動に出る

一方、秀吉は、織田信雄と家康の動きを見て、3月10日に大坂を立ち、京都に入る。そこで軍勢を集結させ、織田信雄討伐のため、伊勢・尾張方面に出撃するのである(織田信雄は、尾張・伊勢・伊賀を有していた)。

秀吉軍は優勢で、伊賀はほどなく、攻略される。さらに秀吉方の武将・池田恒興と森長可は尾張国へ出陣する。彼らは3月13日には、犬山城(愛知県犬山市)を攻め落とす。

犬山城は無防備で、1日で落城してしまった。池田恒興は織田家の重臣であり、その母・養徳院は信長の乳母であったため、織田信雄は池田恒興が自らに従うことを期待していたが、その願いは脆くも崩れ去る。

一方で家康は、酒井忠次らの軍勢を伊勢方面に派遣していたが、一部を尾張国に回す。そして、3月17日、羽黒(犬山市)で、酒井忠次の軍勢と森長可軍がぶつかり、酒井軍が勝利した。

これまで秀吉軍に押されていた織田・徳川軍だが、羽黒での勝利により、持ち直す。

家康は小牧山(小牧市)に陣を置いた(3月28日)。秀吉は、楽田(犬山市)に布陣。この時、一説(『当代記』)によると、織田・徳川軍が約1万6000、秀吉軍が10万人だったという。しかし、秀吉軍10万というのは大げさであり、実際は約6万だったのではないかとする説もある。6万だったとしても、大きな兵力差があったことには違いない。

秀吉軍は高い土手を築き、その中に陣を置いたというが、家康は小牧山に柵は巡らさず、無防備だったと言われる(『三河物語』)。ところが、家康軍は敵の土手まで何度も繰り出し、敵を翻弄したという。

秀吉は小牧山を力攻めにはしなかった。大軍勢を擁しているとは言え、犠牲が増えることをよしとしなかったのだろう。そうではなく、小牧山から家康の軍勢の一部を三河に出させて、そこを突く作戦に出る。

秀吉軍が家康の領国の三河に侵攻すれば、家康も軍勢を割かざるをえないだろう。

三河侵攻を買って出たのが、池田恒興と森長可であった。羽黒の戦いでの敗戦を受けて、名誉を挽回しようとしたのだ。

秀吉は、池田・森、甥の三好秀次(後の豊臣秀次)を大将とする2万5000の大軍を三河に向かわす(4月6日)。

秀吉軍の行動をつかんでいた家康

しかし、家康は秀吉軍の行動をつかんでいた。『徳川実紀』には「郷民」が家康にそのことを知らせたという。2万を超える大軍勢の動きは把握しやすかったのだろう。家康は、酒井忠次・石川数正・本多忠勝らを小牧山に残し、自らは、小幡城(名古屋市)に入る(4月8日)。そして翌日、榊原康政・大須賀康高らに三好秀次の軍勢を奇襲させた。

不意を突かれた三好軍は敗退。激戦のなかで、池田恒興・森長可は討死する。この時の三好軍の死傷者は7000人〜1万人とも言われる(3000人との説もあり)。

このことは、秀吉にとっても大きな衝撃だった。敗戦を受けて秀吉は、竜泉寺(愛知県名古屋市守山区)に出陣するが、すでに家康軍の姿はなかった。戦を終えて、家康は小牧山に帰還していたのだ。

その後、秀吉、家康軍の主力がぶつかることはなかった。秀吉は矛先を岐阜に向け、加賀野井城(羽島市)や竹鼻城(同)など織田方の城を、それぞれ5月上旬、6月上旬に攻略している。この岐阜の諸城の攻撃も、家康の軍勢を小牧山から引きずり出し、討ち取るための秀吉の戦略だった。しかし、家康は秀吉の挑発には乗らず、動くことはなかった。

6月12日、家康は小牧山の守りを酒井忠次に任せ、清洲城に入る。そして、羽柴方の滝川一益がこもる蟹江城(愛知県蟹江町)を攻め、これを落とすのである(7月3日)。

8月中旬、秀吉は再度、尾張に向けて軍勢を進め、徳川勢と干戈を交えることはあったが、戦の決着がつくことはなかった。長期化の様相を呈し始めた戦であるが、9月には講和の動きが見られる。

一度交渉決裂したものの…

同月7日にいったん交渉は決裂したものの、秀吉軍の攻勢を受け、桑名まで進攻されていた織田信雄は、11月12日に和議に応じる。織田信雄側は、人質を差し出し、南伊勢と伊賀国を割譲させられた。織田信雄は秀吉に敗北したのである。

これを受けて、家康は岡崎に戻る(11月16日)。これにて、約8カ月にわたる小牧・長久手の戦いは終わった。家康も12月には、秀吉の人質として、次男の於義伊(結城秀康)を差し出している。このことを見ても、最終的な戦の勝者は、秀吉であったと言えよう。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)