ミラノ中央駅の大ドームは有名で映画などにもたびたび登場している。その大ドームに最も似合う列車が「セッテベロ」だった=1978年(撮影:南正時)

かつて西ヨーロッパ諸国を駆け抜けた「TEE」(ヨーロッパ国際急行)。東洋経済オンラインで懐かしの列車を中心とした記事を掲載している鉄道写真家・南正時さんはその全盛期、1970年代後半から1980年代前半にかけて、各国自慢のさまざまな列車を撮影しました。

南さんの著書『ヨーロッパ国際列車追跡乗車記』は、当時の代表的なTEEについて、現地の鉄道ファンもあまり撮影していないという沿線で捉えた貴重な走行写真や乗車記を収録しています。同書の中から、イタリアを代表する列車だった「セッテベロ」の項目を抜粋(一部再構成)し、掲載写真の一部とともに紹介します。

憧れの列車で陽気なクルーとの出会い

あの名画「終着駅」(1953年米伊合作、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)で有名なローマ・テルミニ駅でしばし映画の真似事などをしていると、待望の憧れの列車「セッテベロ」ETR300形が入線してきた。

セッテベロといえば私がまだ少年だったころ、鉄道画家の黒岩保美さんや木村定男さんの描く絵本の挿絵でしか見たことのない列車で、前面に展望席を配したその特異なスタイルに憧れを抱いていた。

本来、セッテベロの乗車には事前に座席の予約が必要なのだが、私はそのまま飛び乗ってしまった。車内で車掌に尋ねると、 「問題ない、そこの座席に座ってください」との事なので一安心。しかし、私がこの座席に座っていた時間はローマ―ミラノ間の約6時間のうちの、たったの5分もなかったのだった。


ローマ・テルミニ駅で発車を待つミラノ行き「セッテベロ」。この駅も映画でお馴染みだ(撮影:南正時)

すぐに食堂車に行くと、まだ営業前とあって列車のクルーや運転士たちが雑談していた。 「これから憧れのセッテベロの車内の写真を撮りたい」と自己紹介すると、運転士に「大歓迎さ、サムライマサトキ」と言われ、なんとその後運転士は運転を助士に任せっきりで車内をくまなく案内してくれた。


憧れだった「セッテベロ」の展望室。この電車の思想が名鉄パノラマカーや小田急ロマンスカーに生かされた(撮影:南正時)

そして、当時開通したばかりのローマ―フィレンツェ間の高速新線・ディレッティシマを走り始めると私を階上の運転席に連れて行き、運転士自らマスコンを握って「撮れ、撮れ」という。速度計は最高速度の時速180kmに達し、その得意顔をスナップした。その後、さらに私は運転室内で信じられない体験をすることになった。


運転を続ける助士。左下に筆者の著書「鉄道大百科」が写っている(撮影:南正時)

なんと運転台から撮影「セッテベロのすれ違い」

乗り心地が良いフィレンツェまでの間に食堂車でランチを済ませた。セッテベロのクルーたちからは大歓迎されているので、席も窓際の最上の席だ。ランチはまずロゼワインから始まる。ロゼワインはイタリア人にはまるで「お茶」代わりのようで、田舎の大衆食堂でランチをした時にはテーブルに飲み放題のロゼボトルが置かれていたっけ……。


食堂車内。発車してすぐの時間は朝食だが、昼前にはランチメニューとなりイタリアの名物料理が出される(撮影:南正時)

前菜はボンゴレスパゲッティ。給仕はウィンクをしながら大皿からどっさりと私の皿に盛った。そしてメインデッシュ。こちらは巨大なサーロインステーキだったが、残念ながら少々固く決して美味しいとは思えない味で、日本の牛肉の美味しさを見直した。

そして、フィレンツェの手前では本来はフィレンツェの駅で顔を合わせるはずの、ローマ行きセッテベロ59列車とのすれ違いの瞬間を運転台から撮ることができた。これも運転士の「アレンジ」のおかげだった。


奇跡の一瞬。本来は駅で行き違う「セッテベロ」同士のすれ違いを運転台から捉えた! おそらく最初で最後のスクープ写真であろう(撮影:南正時)

フィレンツェには7分遅れで到着。ここで乗務員が交代するので「親切」な運転士さんともお別れだ。しかし、ミラノまでの運転士に私の事はしっかり申し送りしてくれていた。

ミラノ行きセッテベロは、ここからアペニン山脈を貫く山岳路線を走り、右に左にとカーブが続く。車窓には中世イタリアの姿を留める村が見え、 「ここでセッテベロを撮りたい」という気持ちになる。山岳部を過ぎるとロンバルディア平原を走るが、高速新線のような時速180km走行はしていないようだ。


アペニン山脈を越える「セッテベロ」。カーブの続く区間で後方の運転台から撮影した(撮影:南正時)


アペニン山脈を越えた「セッテベロ」はロンバルディア平原をミラノに向かう(撮影:南正時)

セッテベロはいつしかミラノの市街地に入り、やがて終着のミラノ中央駅に到着した。ここで私のセッテベロのラストミッションを開始することにした。有名なミラノ中央駅の大ドームとセッテベロの撮影である。だが、カメラを構えると2人の兵士がやってきて「写真はダメだ」と言われてしまった。

運転士の助け舟で撮影がOKに

この当時、イタリアは政情不安でテロが横行していた。そのため、駅にも軍隊が出て警備をしていたのだった。


すると、セッテベロの最後尾から運転士が下りてきて、兵士とナンヤラカンヤラと話している。そしてしばらくすると、運転士は親指を立ててOKのサインをした。兵士は銃を構えつつも、私の撮影する姿を興味深く眺めていた。

「彼は日本人の鉄道マニアさ。わざわざセッテベロを撮りたくてやってきたんだ。彼はオレとFS(イタリア国鉄)が保障するよ」ということを言ったようである。そこで撮影したのがこの項の冒頭、大ドームに覆われたホームに停車するセッテベロの写真だ。

名列車だったセッテベロだが、ETR300形は1950年代の登場で老朽化は否めず、1984年6月の夏ダイヤでグラン・コンフォルト型客車によるTEE「コロッセオ」に置き換えられ、TEEとしての歴史に幕を閉じた。


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(南 正時 : 鉄道写真家)