私たちが当たり前に用いている「おカネ」の、本当の起源とは?(写真:Graphs/PIXTA)

現代において「おカネ」は現金のみにとどまらず、クレジットカードや〇〇ペイ、暗号通貨などさまざまな形で存在しています。おカネの起源は「物々交換」から生まれたと広く言われていますが、「その説には重大な欠陥がある」と経済思想史を専門とする中山智香子・東京外国語大学大学院教授は指摘します。

※本稿は中山氏の著書『NHK出版 学びのきほん 大人のためのお金学』を一部抜粋・編集したものです。

おカネはいつ、どのように生まれたのか

そもそも、おカネというものは、いつどこで、どのように生まれたのでしょうか。多くの経済学者は、次のような説明をしています。

むかしむかし、いつの時代か、どこだかわからない場所で、AさんとBさんが欲しいものがあって、「物々交換」に来ました。Aさんは、服が欲しい。Bさんは、食器が欲しい。

このとき、お互いに相手の欲しいモノを持っていれば、物々交換が成立します。しかし、Bさんは服を持っていたのに、Aさんは食器を持っていませんでした。

そこでAさんは考えました。何か食器の代わりになるもの──仮に金属片としましょう──をBさんに渡そう、と。そして「この金属片はあとで欲しいモノと交換できますから、代わりに持っていってください」と言ったのです。

Bさんは、何だかよくわからないけれど、その金属片と服を交換しました。そのあと、食器を持っているCさんと出会いました。そこで同じように、「これはあとで使えるものなので、食器と交換してください」と言って、金属片と食器を交換してもらいました。こうして、次の人、また次の人の手に金属片が渡っていきました。

この「物々交換」がおカネの起源だという説は、長い間、まことしやかに語られてきて、今も多くの人に信じられています。何だかもっともらしい話ですね。

しかし、この説には重大な欠陥があります。証拠が何一つ見つかっていないのです。そのため、歴史学者や人類学者、考古学者や古銭学者も、「そんな歴史的事実はない」と否定してきました。

デヴィッド・グレーバー(1961〜2020)というアメリカの人類学者は、次のように言っています。

数世紀にもわたって研究者たちは、この物々交換のおとぎの国を発見しようと努力してきたが、だれひとりとして成功しなかった。(『負債論』酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社、2016)

しかし経済学者たちは、「いや、これでなくちゃおカネの起源は説明できないから」と、彼らの意見を無視してきたのです。

「おカネの起源=物々交換説」はところどころヘン

経済学者たちが信じてきたおカネの起源説には、もう1つ弱点があります。この起源説の中では、おカネ(金属片)は人びとの間をぐるぐる回っているだけで、人はおカネそのものを欲しがっていません。何かモノが欲しいから、おカネを便利に使っているだけ。仮にAさんとBさんがお互いに相手の欲しいモノを持っていたとすれば、おカネは必要ないのです。

しかし、現実世界においては、誰もがおカネそのものを欲しがり、おカネそのものを目的としているようです。なので、現実に人びとが欲するおカネと、この起源説のおカネとの間にはギャップがありすぎます。おカネの性格が、現実と矛盾しているのです。今、経済学界で一般に信じられている「おカネの起源=物々交換説」は、ところどころヘンなのです。

この「人はおカネそのものを欲しがる」というおカネの性格について、『資本論』で有名なカール・マルクス(1818〜83)が興味深いことを言っています。

ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。(エンゲルス編『資本論』(一)、向坂逸郎訳、岩波文庫、1969)

ここでマルクスは、人間は自分で考えたりつくり出したりしたモノの出来栄えに魅了され、これを崇め服従する心理を持っているのだと述べています。そして、商品、ひいてはその究極の形である貨幣を人間が欲しがる様相を「フェティシズム(物神礼拝、物神崇拝)」と名づけたのです。

「おカネの起源=物々交換説」では、おカネは欲しいモノを買うための手段であり、おカネそれ自体に魅力はありませんでした。しかし実は、おカネには人を惹きつける魔力があり、人は自分たちがつくり出したおカネ自体を崇拝している。だからおカネがどんどん欲しくなり、おカネをどんどん集めるのだ、とマルクスは言います。

さらにマルクスは、とくに資本の元手を増やす利子に着目して、次のように述べました。

……利子が、資本の本来の果実として(中略)現われる。(中略)それは、貨幣が、あるいは商品が、再生産から独立にそれ自身の価値を増殖する能力[であり]──光りかがやく形態における資本神秘化である。(前掲『資本論』(七))

実際には人間自身が、貸したおカネに利子をつけたり、投機によって短期的な利益を求めたりしています。

ところがマルクスは、おカネにはそれ自体がおのずと増えていくように見えてしまうという「神秘化」が起こると言うのです。それが高じて私たちは、ただおカネを持っているだけで「あの人すごいな」と思ったり、通帳の残高が増えるだけで胸がときめいたりする。これこそ「おカネフェチ」です。マルクスはフェティシズムという考え方によって、現実の人間とおカネとの関係をうまく言い表しました。

メソポタミアの会計業務の記録からわかること

さて、「おカネの起源=物々交換説」が、経済学界以外では否定されているという話をしました。では、証拠のある歴史的起源は、どういうものなのでしょうか。

先ほど登場したデヴィッド・グレーバーは、『負債論』(2011)の中で別の説を唱えています。それは、紀元前3500年のメソポタミアの、会計業務の記録が見つかったことで生まれた説です。

その記録からわかるのは、当時の貸借契約、つまり「貸し借り」の約束についてです。例えば、大麦畑で労働してくれる人に、雇用主は「大麦が収穫できたら、働いてくれた分を渡すよ」と約束しました。これは、雇用主が労働者に「労働力を借りている」ことになります。

逆に、労働者が雇用主に「働いて返すので、大麦を前借りさせてください」と言って、借りることもあったでしょう。そういう「貸し借り」を忘れないように、「借用証書」を書いていた。これがおカネの起源だとグレーバーは言います。

借用証書は、最初は単なる木片か何かでしたが、使われていくうちに仲間内で、またしばしば権力者などの後ろ盾もつき、「信用」がつくようになりました。「この借用証書があれば、必ず返してもらえる」という信用です。この借用証書には、「いつ誰にどのぐらいのモノを貸した」という情報が記録されるようになりました。

借用証書で他のモノを借りることもできるようになった

これをもとにまた、借用証書で他のモノを借りることができるようにもなりました。例えば、Aさんに大麦10袋を貸しているBさんが、Cさんの豆を借りる場合。Cさんは、「この借用証書があれば、大麦10袋を必ずゲットできる」と信用して、借用証書と引き換えに豆を渡してくれるのです。

Cさんが、また何か別のモノを借りたら、貸した相手はまた借用証書を受け取り、貸し借りの情報を記録します。こうして借用証書の貸借契約が次々と重ねられ、人びとの手から手へと渡っていくようになったのです。この借用証書がおカネになったというのがグレーバーの説です。

一見、先ほどの「物々交換」の起源説と似ていますね。しかし、人びとの間を回っているのは、金属片という「モノの代用品」ではなく、借用証書です。借用証書のことを英語で「IOU」と言いますが、これは“I owe you”(私はあなたに借りがある)の略です。大事なのはモノではなく、「誰に何をどのぐらい借りている」という、その関係性なのです。

グレーバーはこうつづっています。

物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。(前掲『負債論』)

「信用」は英語でクレジットです。みなさんもクレジットカードでの買い物が、後払いであることをご存じですね。つまり代金を借りたままにしているのです。

クレジットカードは最近の発明だから、先におカネがあって後からクレジット、つまり信用システムができたと思っていた人もいるかもしれません。しかし実はおカネより先に信用取引があり、おカネがなくても人びとは借用証書を使って支払いをしていたわけです。

これを否定する史料は見つかっていないので、おカネの起源は物々交換ではなく、貸し借りだったと考えられるのです。

また、近年はキャッシュレスの時代と言われ、クレジットカード以外にも、「○○ペイ」といった貨幣を用いない支払い方法が次々と生まれています。しかし、人間は5000年以上も前から、すでに貨幣以外の支払い手段を持っていたのです。

重要なのは信頼関係

おカネの起源は「物々交換」ではなく、「貸し借り」だった。この歴史的事実は、いみじくもおカネというものの本質を表しています。

物々交換は、AさんとBさんの「○○が必要だ」「○○が欲しい」という欲求、「ニーズ&ウォンツ」からスタートします。それぞれの欲求がうまくマッチングすれば、物々交換が成立します。

一方、「貸し借り」は違います。「○○を借りたい」というAさんに対して、「じゃあ貸してあげよう」とBさん。何かの用立てを具体的に頼むとき、「困っているなら助けてあげよう」と手を差し伸べる相手がいるから、「IOU」が成り立つ。そこが個人の「ニーズ&ウォンツ」で成り立つ物々交換と大きく違うところです。

ここで重要なのは、根底に人間同士の信頼関係があることです。

話は少し逸れますが、映画などの最後に製作に関わった人びとの名前を記すことを「クレジットする」と言いますね。「IOU」は、「私はあなたに負うもの(恩義)がある」、つまり協力してくれた人びとに対する感謝やオマージュでもあるのです。

経済学者が固執する物々交換説は、こう言ってはなんですが、とても個人主義的ですよね。「私が必要だ」「私が欲しい」「私が、私が……」という個人的な欲求を満たせば、「ハイ、終わり」。相手のことは関係ありません。

それに対して、貸し借りは、相手との関係があってこそ成立します。モノを貸し借りしたら「ハイ、終わり」ではなく、むしろ「IOU」という人間関係がスタートして、返し終わるまで関係は続きます。終わりではなく、始まりなのです。

信頼がおカネをおカネにする

最初に借用証書を手渡された人は、「本当にこんなもので大丈夫?」と不安だったかもしれません。


でも、それを受け取ったのは、相手を信頼したから。さらに「これは次の機会にも使えるものだ」と信頼する人がいて、その信頼に応えてモノを渡す人がいた。その積み重ねで借用証書への信頼感が築かれていき、おカネに発展しました。

おカネがおカネとして成立するためには、「これはおカネとして通用する」と持続的に信頼されなければなりません。

「この借用証書を持っていけば、大麦10袋と換えられる」と思わせる力、つまりはそれを通用させる人間関係が、明日も明後日も、1年後も有効であると、みんなが信じていなければ、おカネはおカネとして通用しないのです。

こうして考えてみると、おカネの見方が変わってきませんか。おカネは、ともすれば血も涙もないドライなもの、人情とは対極の存在だと思われがちですが、実はきわめて人間くさいものなのです。

(中山 智香子 : 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)