鰻丼(写真: taa /PIXTA)

土用の丑の日といえば、鰻丼。この鰻丼、江戸時代には「鰻飯(うなぎめし)」とよばれていました。

この江戸時代の鰻飯、名前だけでなくその外見や内容も、現在の鰻丼とはまるで違っていました。

19世紀に江戸時代の風俗を描いた喜田川守貞『守貞漫稿』によると、江戸時代の鰻飯には、頭を取り除いた長さが3〜4寸(約9〜12センチ)という、ドジョウのように小さな子供のウナギの蒲焼が使われていました。

昔の丼鉢はとても小さかった

鰻飯を盛る器は「丼鉢」といいましたが、この丼鉢も現在の鰻丼の器「どんぶり」とは異なるものでした。とても小さかったのです。

大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが丼鉢の写真を残していますが、その大きさは現在の茶碗程度の大きさしかありません(小西四郎、岡秀行構成『百年前の日本』)。

茶碗ぐらいの小さな丼鉢にフィットするように、9〜12センチの子供のウナギが選ばれたのです。これを何杯もおかわりして食べるのが、江戸時代の鰻飯でした。

なぜ現在のような大きな「どんぶり」を使わなかったのか。それは江戸時代には現在の「どんぶり」にあたる食器が普及していなかったからなのです。

江戸遺跡研究会世話人代表であった寺島孝一は、次のように述べます。

“今私たちが「どんぶり」という言葉で思いうかべるような器が、発掘調査でほとんどみつかっていない”(寺島孝一『アスファルトの下の江戸』)

我々が現在鰻丼に使っているあの器「どんぶり」は、江戸時代の地層からはほとんど発掘されていない、つまり普及していなかったのです。

民俗学者の柳田國男・直江広治も、どんぶりという器および鰻丼のようなどんぶりものは、明治時代になって生まれた新しい食文化であったと観察しています。

“どんぶりといふ器が飯椀に代つて、天どん牛どん親子どんなどの奇抜な名稱が全國的になつたのも、すべてこの時代の新現象である”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)

明治8年生まれの柳田國男は、どんぶりという大きな食器、天丼や親子丼という「どんぶりもの」というジャンルが普及するさまを、リアルタイムに体験していました。

江戸時代にどんぶりものが普及しなかった理由

それではなぜ、江戸時代にはどんぶりという器およびどんぶりものが普及しなかったのでしょうか?

柳田國男はその理由を次のように説明します。

“一膳飯はもと不吉な聯想(れんそう)があつて、御幣(ごへい)を擔(かつ)ぐ者にはいやがられて居たが、もうそんな事は構ふ人がなくなつた”(柳田國男『明治大正史第4巻 世相篇』)

日本にはかつて、「一膳飯」という非常に強力なタブーが存在しました。どんぶり一杯で満腹にさせる、おかわりなしの「どんぶりもの」は、一膳飯というタブーに触れる不吉な食べ物として忌み嫌われていたのです。

文明開化の明治時代になり、一膳飯のタブーという迷信から人々が解き放たれたために、どんぶりという器およびどんぶりものが普及したと、柳田國男と直江広治(『明治文化史第13巻』)は主張するのです。

一膳飯とは何か。民俗学者の瀬川清子は次のように説明します。

 “身内の者がなくなった場合には、生き残った者がこれに対して食い別れの式をする。葬送の出棺時のデタチの膳というのがそれで、一杯きりの飯を食ったり、一本箸で食ったり、わかれのおみきといって椀の蓋で酒を飲んだり、ふだんは決してしない食べ方で死者のまわりで食事をして、今まで同じ火で炊いた同じ鍋の飯を食った死者に対して、もはや共食者でないことを宣言する”

 “こういう時には一膳飯を食べたり温かい御飯におつけをかけたり一本箸で食べたりするので、常の日にそんなことをするのを嫌うのは、それが死者との絶縁のための作法だからである”(瀬川清子『食生活の歴史』)

かつての日本では、葬式の時に一杯だけご飯を食べて死者と別れるという儀式が広範囲に行われていました。そのために、普段の食事においておかわりをせずに一杯だけのご飯で済ますことは、葬式を連想させる行為として非常に忌み嫌われていたのです。

居候(いそうろう)三杯目にはそっと出し、という川柳があります。

タダ飯を食べさせてもらっている居候は肩身が狭いので、ご飯のおかわりをするにも遠慮がちになるという川柳ですが、なぜ2杯目ではなく3杯目なのかというと、2杯目は一膳飯のタブーを回避するための義務なので、堂々とおかわりすることができたからなのです。

その居候を描いたのが上方落語家林家染二の「湯屋番」ですが、居候にはなるべくご飯を食べさせない主義の大工の女房も、一膳飯はだめだというので2杯目まではおかわりを出しています。

この一膳飯がいかに強力なタブーであったかについては、民俗学の研究成果および様々な実例を拙著『牛丼の戦前史』に載せていますので、興味のある方はご覧ください。

鰻飯から鰻丼への変化

明治時代のベストセラー小説、明治36年出版の村井弦斎『食道楽』に、鰻飯の「大丼」というものが登場します。従来の小さな丼鉢入の鰻飯に加え、大きな丼に入れた鰻飯があらわれたのです。

容器が変わるとともに名称にも変化が起こります。拙著『牛丼の戦前史』では様々な資料における名称の推移を記録していますが、明治時代中頃に現れた「鰻丼」という名称は、昭和時代になると多数を占め「鰻飯」を圧倒するようになります。

その背景には、人々が一膳飯のタブーから開放され、おかわりなしのどんぶりものに慣れていったことがありますが、もう一つ理由があると思われます。ウナギの養殖です。

明治時代に始まったウナギの養殖ですが、昭和10年には養殖物のウナギが総供給量の70%を超え、天然物を上回るようになります(増井好男『ウナギ養殖業の歴史』)。

大人のウナギを使う鰻丼が普及

かつて鰻飯に使われていた安い子供のウナギは、養殖用として買われ値段が上がり、昭和時代になると銀座の竹葉亭などの高級鰻店の料理となります。

一方で大人のウナギの値段は、養殖の発展により手頃になっていきます。こうして高価になっていった子供ウナギを使う鰻飯は次第に廃れ、現在のような大人のウナギを使った鰻丼が普及していったものと思われます。

(近代食文化研究会 : 食文化史研究家)