広島の元エース川口和久が鳥取で農業に励む理由〜カープ入団の経緯と飛び込み営業の思い出
川口和久インタビュー(前編)
広島の左腕エースとして1986年から6年連続2ケタ勝利を挙げるなど、一時代を築いた川口和久氏。広島、巨人で過ごした18年間のプロ野球生活で通算139勝をマークし、98年に現役引退。その後はコーチ、解説者として活躍していたが、2021年10月に故郷である鳥取に移住して、米づくりに励んでいるという。なぜ、鳥取への移住を決めたのか。また、激動の現役時代についても語ってもらった。
故郷の鳥取に移住し、米づくりに励んでいる川口和久氏
── 現在、生まれ故郷の鳥取に移住して米づくりに励みつつ、県内の高校を巡回して指導もしているとうかがいました。鳥取に移住を決めた理由、そして経緯を教えてください。
川口 きっかけは、コロナ禍における母の死でした。まさにコロナの渦中だったので、面会もままならなかったんですけど、それでも女房と一緒に、当時住んでいた川崎から鳥取まで片道640キロを何度も通いました。結局、母は亡くなったんですけど、納骨の時に女房から突然「鳥取でお米でもつくろうか?」って言われたんです。
── 奥様からの提案だったのですか?
川口 女房は東京の日野市出身で、鳥取とは何も縁はないんです。でも、以前から何度も鳥取に通っているうちに、少しずつ魅了されていたようでした。納骨の時のことですけど、たまたまお墓の前に休耕田があったんです。それを見て女房が「これからはお米づくりもいいかもね」と言いました。そして、これもたまたまだったんですけど、僕のおじさんがその田んぼの持ち主と知り合いで、「興味があるなら紹介するぞ」ということで、とんとん拍子で話が進んでいきました。
── もともと「いつかは故郷に帰ろう」という思いはあったのですか?
川口 具体的にイメージしていたわけではないけど、「そろそろ自分の好きなことをやって、スローライフな生き方をしたいな」という思いはありました。僕は男3兄弟の末っ子で、長男はすでに他界しているんですけど、次男が鳥取で米づくりをしていましたので、兄貴に手伝ってもらいながら本格的にスタートしました。そこで川崎の自宅を売って、鳥取に家を買うことを決め、2021年の10月に引っ越しました。
── 還暦を過ぎてから、まったく環境の違う新しい世界に飛び込んでいくことに対する不安はなかったのですか?
川口 僕は「野球」という世界で39歳まで現役を続けて、その後は指導者として、解説者として、やはり野球の世界で生きてきました。その間、広島に住み、関東に住みました。でも、還暦を迎えて、そしてコロナという非常事態を迎えた時に、僕も女房も関東での生活に何らかの違和感を持ったんです。そんな頃に、母の見舞いで鳥取に何度も行っているうちに、地元の人たちの優しさだったり、魚や野菜の美味しさだったり、物価の安さだったり、いろいろな魅力に触れて決断しました。だから、僕としては新しい世界に飛び込む不安はなかったですね。
── 川口さんが育てているのは、鳥取のブランド米「星空舞」だとうかがいました。お兄さんからのアドバイスがあるとはいえ、未経験者がいきなりつくれるものなのですか?
川口 米づくりを決めた頃に、平井伸治県知事から「とっとりへウェルカニスポーツ総合アンバサダー」に任命され、その時に「ぜひ星空舞をつくってほしい」と言われたことがきっかけでした。休耕田だったので、土地に栄養があったのはいいんだけど、逆に育ちすぎてしまっていろいろ苦労しました。耕地面積は二反三畝(約690坪)なんです。普通はそれぐらいの広さなら1100キロぐらい穫れるそうなんですけど、1年目は800キロの収穫でした。
── 元プロ野球選手へのインタビューというよりは、お米の生産者の方にお話を聞いているような錯覚を覚えます(笑)。
川口 お米をつくるにはトラクターと田植え機とコンバインがあればいいんです。この3つを新車で買えば300〜400万円はするんですけど、トラクターは兄貴のものを借りて、2年目の今年はひとまずトラクターと田植え機を買いました。去年は真っすぐ田植えすることはできなかったけど、今年は真っすぐ整然と植えることができました。何事も初めて経験することは楽しいですよ。
【金田正一からの直電】── 鳥取での暮らしについてまだまだお話をうかがいたいのですが、そろそろ野球についておうかがいします(笑)。鳥取城北高校時代、当時ロッテの監督だった金田正一さんから熱心に口説かれたという話を聞きましたが、詳しく教えていただけますか?
川口 たぶん、スカウトから話がいったんだと思いますけど、金田さんから直接お電話をいただきました。いきなり「金田と言います」ってかかってきて、「えっ、金田さんですか!」っていう感じでした(笑)。「川口くんをドラフト1位で指名しようと思うんだけど、うちに来る気はあるか?」って。
── それで、何と答えたんですか?
川口 「僕は体力的にも精神的にも、まだプロのレベルではないので、社会人で経験を積んでから誘っていただけないでしょうか」と言いました。「それが君の気持ちなんだね」って言ってもらったんですけど、「でも、もしも考えが変わるといけないからドラフト6位で指名する。もちろん、1位と同等の契約金を出すから、ぜひ来てほしい」と言われました。でも、当時の規定だと一度指名されると3年間はプロに行けないので、僕としては指名してほしくなかったんですけど......。
── しかし、1977年ドラフトではロッテから6位指名を受けました。
川口 それでも、やっぱりプロでやっていく自信はなかったので、鳥取西高校出身の監督が率いるデュプロに進むことにしました。デュプロというのは印刷会社なんですけど、全然野球に専念する環境ではなかったですね。昼間はカタログをカバンに詰めて1日30件の飛び込み営業。夕方5時の終礼までに会社に戻って、その日の報告をしてから、ようやく屋上の部室でユニフォームに着替える。当時、会社は大阪だったんですけど、天神橋筋六丁目から中之島公園までランニングをして、会社屋上のブルペンで投げて......。
── 恵まれた練習環境というわけではなかったんですね。
川口 たしかに、恵まれてはいませんでしたね。で、ようやく大会1カ月前になると尼崎か枚方のスポーツセンターを借りて、半日は会社の仕事、もう半日は練習という生活になります。この時点ではプロというのは遠い世界になっていて、「やっぱりロッテに行けばよかったかな」という後悔もちょっとはありました。でも、そんな思いでいるときに鳥取に戻ってなじみのスポーツ店に顔を出したんです。ここの店主が、当時の広島・古葉竹識(たけし)監督の右腕だった小林正之さんの大学時代の後輩で、古葉さんに紹介してもらうことになったんです。
── その結果、どうなったんですか?
川口 小林さんから古葉さんに話がいって、「あぁ、川口なら知ってるよ」ということで、「じゃあドラフトで獲ってあげるよ」ととんとん拍子で話が進みました。それが社会人2年目の夏だったんですけど、そこからヤル気が出てきましたね。目標が見えたことでトレーニングにも熱が入ったし、試合でも投げれば勝つという感じでしたから。当時の大阪は日本生命、松下電器、住友金属が強くて、その下にデュプロがいたんですけど、そういうチームにも負けなかったですから。
── 目標が定まったことで、すべてが好転したんですね。
川口 そうです。すべてがいいサイクルにハマっていった感じです。四国大会があったんですけど、このときプリンスホテルに入団して話題になっていたデレク・タツノという日系人投手が投げたんです。プロの各チームのスカウトが、デレク・タツノ目当てに見に来ていたんですけど、彼が投げる別の試合で僕が完封したんです。そうしたら、「こいつ誰だ?」って注目されるようになった。で、広島から「あんまり目立ちすぎるな。ケガをしたことにして、もう投げないでほしい」と言われて、そこからは痛みをアピールして、ほとんど投げなくなりました(笑)。
── その結果、1980年ドラフト1位で広島から指名され、いよいよプロとしての第一歩を踏み出すことになりました。
川口 ドラフト当日、僕は会社で普通に事務作業をしていました。そうしたら、倉庫に先輩がやってきて、「川口、ドラフト1位だぞ!」と報告がきました。原辰徳さんのハズレ1位だったけどうれしかったですね。
後編につづく
川口和久(かわぐち・かずひさ)/1959年7月8日、鳥取県生まれ。鳥取城北高から社会人野球デュプロを経て80年ドラフト1位で広島に入団。左腕から球威のあるストレートと落差の大きいカーブを武器に、3年目の83年に15勝をマーク。86年から6年連続2ケタ勝利をマークするなど、広島のエースとして活躍。94年にFA宣言で巨人に入団するも、4年間で8勝と苦しみ、98年に引退。引退後はコーチ、解説者として活躍。2021年に鳥取に移住し、米づくりに励んでいる