葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」すみだ北斎美術館蔵(前期展示)展示風景(撮影:小川敦生)

江戸時代後期に風景画の世界を切り開いたことで知られる浮世絵師、葛飾北斎(1760〜1849年)は、富士山をはじめとして、山を実に多く描いた。興味深いのは、正面から大きく捉えた威厳のある山容はもちろんのこと、探さなければわからないほど小さかったり、人の姿に託していたりと、描いた山の姿が実に多様であることだ。

東京・墨田区のすみだ北斎美術館で、「北斎 大いなる山岳」と題した企画展が開かれている(8月27日まで。展示替えあり)。訪れると、北斎の「山の百変化」とでも呼ぶべき描画のバリュエーションが目を楽しませてくれる。では北斎は、はたして山で何を表現しようとしたのだろうか。同展の会場を歩きながら、北斎の思いに迫った。

「赤富士」と「黒富士」が見せる真逆の表現

富士山をテーマにした色彩鮮やかな錦絵シリーズ「冨嶽三十六景」(全46図)や、モノクロームの画集「富嶽百景」(3編全102図)の出版に携わったのは、北斎が70代に入ってからだった。錦絵や書籍の制作には版元(現在の出版社)の意向が大きくかかわるので北斎のみの意志でこれらが制作されたとは言い切れない。だが、作例の一つひとつを見ていけば、北斎が山の表現を得意としたのは自明である。富士山はいくら描いても描き足りない。そんな思いが心の中からあふれてあまたの絵画として世の中に現れたという想像は許されるだろう。

北斎が描いた山については、やはり「冨嶽三十六景」シリーズの中で「赤富士」と「黒富士」の異名を持つ2作、「凱風快晴」と「山下白雨」を外すわけにはいかない。


葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」すみだ北斎美術館蔵(前期=7月23日まで=展示。後期=7月25日から=には別摺りの同作品を展示予定)展示風景(撮影:小川敦生)


葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」すみだ北斎美術館蔵(前期展示。後期には別摺りの同作品を展示予定)展示風景(撮影:小川敦生)

2作を改めて比べると、構図がほぼ同じなのに表現の仕方が真逆であることがわかる。「凱風快晴」は平面的、「山下白雨」は立体的なのである。

平面的な表現は、大和絵などの日本の絵画の伝統の上にある。「凱風快晴」で北斎は富士山を幾何学図形のように扱い、鮮やかな色のコントラストを大胆に強調した。それは、目に極めて心地よい刺激を与えてくれる。

一方、「山下白雨」では、遠近感が巧みに表現されている。左に緩やかに流れた山裾の向こうにうっすらと別の山が見える。富士山の手前では、雷が落ちている。稲光は、山頂よりもずいぶん下に描かれている。つまり、山の下半分がどす黒く、裾野がぼやけているのは、雷雲がかかっているからであることがわかる。

そして、山容の上半分はその雲から顔を出している。富士山自体にも陰影表現と思しきものが施されている。雲も立体的だ。はたして北斎には、よほどの上空からでなければ見えなさそうなこうした光景を実際に目にする機会はあったのだろうか。北斎の想像力の豊かさが実によくわかる。

粉本と呼ばれる見本の画集を参考に伝統表現に従わざるをえなかった御用絵師の狩野派の絵師などとは違って、浮世絵師は伝統から解き放たれていた。むしろ、嗜好の定まった少数のパトロンのために描くのとは違い、町で数百枚から数千枚の錦絵を売る必要があった浮世絵師は、積極的に新奇な表現の開拓をしていた。

だから、長崎の出島経由でオランダから入っていた西洋の絵画表現なども大いに参考にしていた。「赤富士」と「黒富士」の2作を見るだけでも、北斎の心の奥底に根づいていたパイオニア精神のありようがよくわかる。

主役は富士山の手前に描かれた巨木


葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三島越」すみだ北斎美術館蔵(前期展示)展示風景(撮影:小川敦生)


「冨嶽三十六景」シリーズには、富士山以外のモチーフを主役にした絵が多数ある。それを表現のバリュエーションとして見ていくのは、かなり楽しい。たとえば、「甲州三島越」。存在感を放っているのは、富士山の手前に立つ巨木だ。画面下に小さく描かれた旅人たちは、手をつないで巨木の幹の太さを測ろうとしているらしい。

彼らは、旅の途中で巨木が眼前に現れたことに驚き、好奇心をあらわにしているのだ。こうした描写は、浮世絵を手に持って雑誌のように楽しんでいた江戸時代の多くの庶民の関心を、旅の世界に向けたことだろう。


「富嶽百景」初編より「木花開耶姫命」すみだ北斎美術館蔵(通期展示)(撮影:小川敦生)

「富嶽百景」のある頁に、女性をモチーフにした絵があった。画面左上に「木花開耶姫命」という文字が小さく書かれている。「このはなさくやひめのみこと」と読む。富士山の御神体である浅間大神(あさまのおおかみ)と同一視されている女神だという。北斎がただ風景として富士山を描いていたわけではないことがわかる。

富士山を信仰する「富士講」が広まっていた北斎の時代、富士山は女人禁制だったという。その富士山の御神体である「木花開耶姫命」が女神だったというのは、なかなか興味深い。神話の時代までさかのぼれば、ジェンダーについての意識も変わってくるのだ。

起伏に富んだ山は造形美の宝庫


葛飾北斎「諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふりの滝」すみだ北斎美術館蔵(前期展示)展示風景(撮影:小川敦生)

「諸国瀧廻り(しょこくたきめぐり)」は、滝を描いた名シリーズだ。滝は多くの場合、山にあるので、この企画展にも確かになじむ。シリーズ8作のうちの1作「下野黒髪山きりふりの滝」は、奇矯な形を好んで描いた北斎の頭の中を覗かせてくれる。北斎はおそらく、ちょっと面白そうな形を見つけては、クローズアップしたり誇張したりして、造形感覚を磨いたのではなかろうか。起伏に富んだ山は、その素材となる「形」の宝庫である。

日本ではいにしえから滝も信仰の対象だったが、この絵に小さく描かれた旅人たちは素直に滝の豪快な姿を鑑賞しているようにも見える。日光東照宮への参詣の道すがら、実際にこの滝を眺める旅人は多かったという。

江戸後半は旅が盛んな時代でもあった。伊勢神宮や日光東照宮への参詣などの目的があったとしても、旅先で居住地とは異なる風景を楽しむ機会が増え、知らず知らずのうちに「観光」という概念が芽生えていたのではなかろうか。山を描いた北斎の浮世絵は、そうした時代の動向を映す。


葛飾北斎「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」すみだ北斎美術館蔵(前期展示)展示風景(撮影:小川敦生)

2人の人物が山間の吊り橋をまるで曲芸師のように渡る様子を描いた「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」もまた、北斎の半端ではない造形力の産物だ。山を歩けば橋はたくさんあったはずだ。

とはいえ、手すりもなく人間が載ると大きくたわんだこのような橋が実際にあったとは思えない。だからこそ、この絵には凝視させる力がある。迫真性を伴いながらも鑑賞者の心を揺るがす空想力と、北斎ならではのすぐれたデザイン力が、この絵には同居している。山は北斎の空想を大きく羽ばたかせる空間でもあったのだ。

「冨嶽三十六景」の意外な解釈

さて、ここまで見て北斎の山岳描写がいかにすぐれているかがわかったのではないかと思うのだが、「冨嶽三十六景」シリーズの中で意外な解釈に出会ったのでお伝えしたい。


葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」すみだ北斎美術館蔵(前期展示)展示風景(撮影:小川敦生)

富士山を遠望する手前に職人が桶作りをする様子を大きく描いた「尾州不二見原」、通称「桶屋の富士」に配されている山が実は富士山ではない、というのである。この作品は、富士山が桶の枠のはるかかなたに極めて小さく描かれているところに、北斎の卓越した機知を感じる。

一方、この「不二見原」という場所は現在の名古屋市中区富士見町と考えられており、そこに立っても150キロ以上先にある富士山は見えないことが、1970年以降の調査で明らかにされているという。富士山に似た形の南アルプスの聖岳を富士山と誤認したのではないかというのだ。北斎はこの地域を実際に訪れたことがあるそうだが、誤認の可能性はやはり捨てきれない。

その説が正しいとすれば、そもそも「不二見原」という地名に誤認の素があったのかもしれない。しかし、勘違いで描いたとしても、北斎には富士山の姿をかすかに見える形で描き出すこと自体に意義を見つけていたと考えたい。

北斎は、「形」の宝庫である山とさまざまな視点で向き合い、表現のバリュエーションを思う存分楽しみながら多くの絵画制作に没頭したのではないだろうか。

(小川 敦生 : 多摩美術大学教授)