日米の金融政策への思惑が交錯(写真・ロイター)

ドル円相場は6月末に一時145円を突破して以降、すぐに反転し、140円も割り込んできた。円高が進む背景についてはさまざまな理由が取りざたされているものの、7月に入ってからの材料はどれも決定打に欠く印象だ。

筆者は7月初頭、顧客向けレポートで「円安が円高に反転するとしたら『売られ過ぎたから』くらいしか理由が見当たらない」と述べてきた。7月2週目以降に起きている円高はまさにそういうことではないかと理解している。

「売られ過ぎ」調整後の行方を占う

7月2日時点で、IMM通貨先物取引に見る対ドルでの円の売り持ち高は、152円を記録した2022年10月よりも高水準にあり、円安が進むにしても利益確定のためのポジション調整が必要という状況にあった。

調整を経て、その後、どのような展開を探るかという大局観で相場を評価するべき時間だろう。

大局観をつかむには、需給環境を丁寧にみる必要がある。

この点、7月10日に財務省から発表された本邦5月国際収支統計では、経常収支が1兆8624億円の黒字となり、ニュースのヘッドラインでは「4カ月連続黒字」や「前年同月比2.4倍」という前向きな表現が躍った。そもそも経常収支や貿易収支(しかも原系列)を変化率(や倍率)で表現することに意味があるとは思わないが、経常収支が改善傾向にあることは事実だ。

しかし、国際収支統計が公表されるたびに筆者が思うことは、いまだに「経常黒字である」という事実一点をもって、強い安心感を持ちたがる論調が根強いことだ。

具体的には、経常黒字を見て「去年は『悪い円安』と言っていたのに」とか、「去年は『成熟した債権国』としての危うさが話題だったのに」とかといった論調である。こうした論調は極めて表層的と言わざるをえない。国際収支と為替の現状について真摯に向き合っていないともいえる。

確かに、経常収支は赤字よりも黒字のほうが安堵感を覚えるだろうが、名目・実質双方のベースで円安が続き、実質ベースの国内賃金も下落する中、なぜ経常黒字であることにそこまで万能感を覚えられるのか。

経常収支について、黒字か赤字かという「符号」の議論に拘泥してしまうのは、ひとえに経常収支にまつわる実務的なキャッシュフロー(CF)について理解が不足していることが原因だと思われる。

経常黒字でも2022年のドル円は大幅下落

まず、経常収支と相場環境を簡単に見ておきたい。

確かに経常収支は4カ月連続で黒字を記録しているが、7月10日時点で年初来の円相場は対ドルで7.2%、対ユーロで10.5%下落している。言うまでもなくG10(主要先進10カ国)通貨の中で最弱だ。名目実効為替ベースでは2.2%、実質実効為替ベースでは3.3%下落しており、「円全面安」と言って差し支えない。

もっと言えば、2022年通年で経常収支は11.5兆円の黒字だったが、円は対ドルで最大30%以上、通年でも約15%下落している。こうした状況を踏まえる限り、日本の経常黒字が、その符号が示唆する通りの円買い圧力となっていない可能性を疑うのが自然だ。

しかも、2022年11月から足元までの間にFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の利上げが0.75%から0.25%まで縮小され、いったん見送りまで決定される事態に至っているのに、円安は進んでいる。それは多くの識者にとってだいぶ想定と違う展開だったはずだ。

その理由の1つを考えるうえで、経常収支に象徴される需給構造の変化を考察する余地はないだろうか、というのが筆者の問題意識である。

経常黒字拡大を受けて、2022年の円安最悪期が終息したかのようにはやし立ててしまうのは、経常黒字か経常赤字かという符号や、黒字水準の増減だけに目を奪われ、経常収支に伴って発生するキャッシュフローの実態に関心を持っていないからである。あまり深く考えていない、とも言える。

着目すべきは「貿易サービス収支」

2022年、経常収支と為替の関係が騒がれたのは、経常赤字という日本経済の歴史に照らせば極めて珍しい事象が起きていたからというのもあるが、「巨大な第1次所得収支(海外投資から得た利子・配当など)の黒字を食ってしまうほど大きな貿易サービス赤字」が歴史的円安の主因だったからだ。経常収支の符号それ自体が本質的に重要だったわけではない。

経常収支と為替の関係を考察するうえで重要になるのは、「実務的にどのようなキャッシュフローが発生しているか」である。

あくまで為替市場への影響を考えれば、アウトライト(売り買いを単独に行う取引)の売買が発生する貿易サービス収支に着目するのが王道である。

なお、サービス収支から漏出する外貨の経路も現在では多岐にわたっており、これも構造変化の一端を示す議論として重要なのだが、それは別の機会に解説したい。

ここではキャッシュフローを加味した第1次所得収支、ひいては経常収支の実態を示してみたい。

例えば2022年の第1次所得収支を受け取りベースで見ると、2022年は約50兆円あった。

このうち証券投資収益は18.5兆円、直接投資収益は27.6兆円、その他投資収益は3.7兆円である。証券投資収益のほとんどは債券利子と配当金であり、普通に考えれば外貨のまま再投資される公算が大きい。また、直接投資収益のうち約半分の13兆円は再投資収益である。これは確実に円転されない。

第1次所得収支黒字はそのまま「円買い」にならない

まとめると第1次所得収支(受け取り)の50兆円のうち、7割相当の約31.5兆円(18.5兆円+13兆円)が円転されていない恐れがある。裏を返せば、3割相当の約18.4兆円しか実際の円買いにつながっていない可能性が推測される。

これらは受け取りベースの議論なので、より正確を期すならば支払いベースでも同じ議論をして、収支の仕上がりを評価する必要がある。

支払いは約14.7兆円あり、このうち証券投資収益は約8.2兆円、直接投資収益は約4.4兆円、その他投資収益は約2.0兆円であった。上記の日本の例に準拠し、証券投資収益(8.2兆円)と直接投資収益の中の再投資収益(約1.7兆円)は外貨に転じられない(円のまま残る)とすると、支払いベースでは約4.8兆円の円売りになる。

以上をまとめると、2022年の第1次所得収支黒字における本当の円買い部分は約13.6兆円(18.4兆円−4.8兆円)というイメージになり、これがキャッシュフローベースの第1次所得収支黒字である。

第1次所得収支の公表値である約35兆円とはかなり乖離があるが、「2022年の経常黒字が11兆円あっても、大幅な円安が進んだ」理由として考える1つの仮説としては有用だと思っている。

少なくともドル円相場で起きていることの森羅万象を日米金利差だけで整理しようとするムードに対し、こうした論点が付け入る隙は十分あると筆者は2022年以来、考えてきた。

このうえで2022年を例に取れば、貿易サービス赤字は約21兆円を記録し、このほとんどすべては円売りとして為替市場に現れていたと思われる。先述の通り、キャッシュフローベースの第1次所得収支黒字が約13.6兆円しかないのだとすると、キャッシュフローべースの経常収支は9兆円ほどの赤字だった疑いがある。


ヘッドラインの経常黒字はあくまで「会計上の黒字」であって、それらすべてが円買い圧力になっているわけではないことがわかる。

CFベースで経常赤字だった年は円安

ちなみにキャッシュフローベースの経常収支が2022年と匹敵するほど赤字(9兆円以上)だったのは2013年と2014年だが、いずれの年も円は対ドルで10%以上下落している。

当時は、異次元緩和に象徴されるアベノミクスが最も取り沙汰されていた時代であり、「円安は日銀の金融政策に起因するもの」という言説が支配的だったが、本当にそうなのか。もちろん、無関係とは思わないし、FRBの正常化プロセスへの転換や欧州債務危機の終焉といった外部環境の改善もあったはずだ。

しかし、日本の対外経済部門に目をやれば「円を売りたい人のほうが多い」というシンプルな需給が整いつつあったのが2013〜2014年頃だったという考え方も捨て置けないものである。

もちろん、これらは筆者の仮説であるし、絶対真実だと言うつもりはないが、ドル円相場の方向感を日米金利差だけで語ろうとしたり、株高のムードにかまけて円安の弊害をなかったことにしようとしたりする論調にはあまり賛同できない。

歴史的と呼べる円安局面はもう1年4カ月以上続いている。


歴史的な相場を前に、歴史的な(そして、おそらくは構造的な)変化の可能性を考えるのが真っ当な分析姿勢ではないか。

(唐鎌 大輔 : みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト)