夏目漱石(写真: masamasa2 / PIXTA)

誰もが知っている文豪たちにも、仕事や勉強、家族や借金取りから逃げた過去があります。しかし逃げた先で、歴史に残る名作が誕生しています。著述家の真山知幸氏の新著『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』を一部抜粋・再構成し、夏目漱石のエピソードを紹介します。

日本を代表する文豪といってもよいだろう。『吾輩は猫である』『こころ』『三四郎』……。夏目漱石による名作の数々は、時代を超えて読み継がれている。

しかし、漱石は若い頃から才能が認められて、前途洋々の青春時代を過ごしたわけではない。小説家デビューしたのは38歳と、後世に残した実績を考えれば意外と遅かった。

その紆余曲折ぶりを知ると、漱石もまた「逃げの姿勢」があったからこそ、道が開けたといえそうだ。

生まれてすぐに里子に出される

漱石は、江戸の牛込馬場下、現在の東京都新宿区に、名主の夏目小兵衛直克(なつめこへえなおかつ)の5男として生まれた。時は1867年と、ちょうど慶応から明治の元号に移り変わる頃。まさに激動の時代である。

名主だった父も大きく状況が変わったのだろう。貧しさからか、漱石は生まれてすぐに古道具屋の夫婦のところへ、里子に出されている。その夫婦は、赤ん坊の漱石を小さなザルに入れ、古道具と一緒に夜店の大通りに晒した。何という赤ちゃんの扱い方……。発見した姉が、あまりに不憫なので実家に連れ戻したとされている。

姉に助けられて、人生初の「逃亡」に成功した漱石だったが、3歳のとき、今度は父と同じく名主をしている塩原昌之助のところへ養子に出された。以後、漱石は実家と塩原家の間で行き来している。要は、どちらからも厄介者扱いされたのである。

ある日、漱石が養家を訪れたときには、こんなふうに言われた。

「もうこっちへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」

漱石はこのときすでに、「なんでも長い間の修業をして、立派な人間になって、世間に出なければならない」という思いを強くしていた。

給仕になんてさせられてはたまらないと、実家に逃げ帰っている。大人の都合に振り回された漱石だった。

逃げ帰った実家から小学校に通った漱石は読書好きで、12歳のときには回覧雑誌に楠木正成を題材にした短編『正成論』を書いている。次第に「自分も文学をやってみよう」という思いを強くしていく。

西洋の小説を読むようになり、大学では英文科に進学。英文学を学んだうえで、英語で文学作品を発表して、世界を驚かせようと考えたのである。

しかし、英文学に関する資料は当時まだ少なく、漱石は苦戦する。結局、英文学が何たるかがわからぬまま卒業を迎えてしまう。それでも就職はしなければと、高等師範学校の英語教師になるも、どうにも教師には向いていない気がしてならない。

「教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました」

気分はつねに塞ぎがちだった

またこの頃から体調を崩し、肺結核の初期と診断される。やがて全快するが、大学同窓の正岡子規に宛てて「風流を楽しむような余裕などは全然ない」と書いているように、気分は塞ぎがちだった。

東京から逃げるように学校を辞職すると、松山や熊本に英語教師として赴任。その後、文部省より命じられたロンドン留学で、漱石はいよいよ鬱積(うっせき)を抑えられなくなった。

なにしろ「ロンドン留学」という華やかな響きとは裏腹に、その生活は悲惨そのもの。政府から支給された額では、ろくな下宿先にも住めず、食費も切り詰める必要があった。

また、欧米人にまぎれているうちに、窓に映る自分の姿が醜く見えてきたようだ。

「往来の向こうから、背が低く妙にきたない奴が来たと思ったら自分だった」

周囲のイギリス人みんなからバカにされているのではないか――という被害妄想に陥った漱石。留学した当初こそよく街へ繰り出していたが、大学を休んで部屋に引きこもるようになった。留学生仲間とも会わなくなり、真っ暗な室内で泣いている姿を下宿先の大家に目撃されている。すべてから逃避せずにはいられなかったのだろう。

そんなとき、文部省に送る報告書を白紙で提出したことから、日本では「漱石は発狂した」とまで噂されて、帰国を促されている。


実際のところは『文学論』につながる壮大なテーマに取り組んでおり、研究のメドがまだついていなかった。それにもかかわらず、報告書を求める文部省に漱石が反発。白紙で送ったところ、思わぬ騒ぎになったようだ。

「ロンドンで暮らした2年間はもっとも不愉快な2年間であった」

漱石はロンドン留学時代をこう振り返ったが、帰国しても鬱屈が消えることはない。東京帝国大学で職を得た漱石に、親戚から経済的な援助を求められるのも、ストレスの種となる。

人間不信が募る漱石に、転機が訪れる

人間不信はひどくなるばかりで、家族にもきつくあたるようになった。

もはやどこにも逃げ場がないかのように思えた漱石。だが、友人の高浜虚子が「気晴らしに小説でも書いてはどうか」と誘ったことで、人生が一転する。

筆をとった漱石によって書かれたデビュー作こそが『吾輩は猫である』だった。

つらい現実から物語の世界に逃げ込むことで、漱石は38歳にして天職を得たのである。


(本書より引用)

(真山 知幸 : 著述家)