池上彰さん(撮影:ヒダキトモコ)

新聞を読む人が減っています。そうした中、池上彰さんは「新聞を読む人が減ったことで、新聞を読んでいるだけで他人に差をつけることが可能になった」と言います。

池上さんの新刊『新聞は考える武器になる 池上流新聞の読み方』よりそのメッセージを抜粋してご紹介します。

自分が読みたい記事とは関係ない記事

新聞の魅力は何でしょう?

私は「ノイズ」だと思います。

新聞を広げて読んでいると、自分が読みたい記事とは関係なく、勝手に目に飛び込んでくる記事があります。

「これ何だろう? 初めて見た」

「世の中こんなことになっていたのか!」

などと興味を持ち、ちょっとネットで調べてみようということもあります。

ネットでは、多くの人は基本的には自分の興味のあることを検索し、読みたいと思っている人のツイッターをフォローします。SNSでつながっている人は、感性も趣味も似ているのではないでしょうか。

すると、目に入ってくるのは、特定の分野の似たような情報ばかり。タコツボ化していくばかりで、世界が広がっていきません。

一方、新聞では、いやおうなしに、興味のない記事も目に入ります。そこから興味関心が広がっていきます。思いがけない出合いを楽しみにして、私は毎日、新聞を読んでいるのです。

新聞を読んで興味や関心の幅が広がれば、専門分野以外のことでも、人と話せるようになります。たとえば営業担当にとっては、欠かせないスキルでしょう。

新聞で仕入れた知識で「いい質問」をし、「この人はちょっと違うな」と信頼を勝ち取れるかもしれません。

時間が許せば、紙面の下のほうに控えめに載っている「ベタ記事」にも目を通したいですね。

記事が小さいからといってバカにできません。後々大きな問題に発展し、重要性に気づくこともあるのです。

新聞からは「伝える」コツを学ぶこともできます。

新聞は見出しやリードだけで、あらましを理解できるように作られています。

見出し→リード→本文という流れは、忙しい読者が効率的に情報を入手できるよう洗練されてきた構造です。

本文も5W1H(Who、When、Where、What、Why、How)をストレートに伝えているだけではありません。起承転結という流れではなく、いきなり結論から入ったり、衝撃的な証言を冒頭に持ってくることもあります。つまり、出だしの部分、いわゆる「つかみ」に工夫がこらされています。

新聞には知識を蓄積していくインプットの力はもちろん、アウトプットの力も磨けるヒントが詰まっているのです。

今から50年くらい前、私が学生だった頃、『◯◯新聞』という題字を隠してしまえばどこの新聞だかわからないと言われたものです。つまり、新聞が違っても、書いてあることはどこも同じというわけです。

たとえば、1959〜60年、1970年の二度にわたって行われた、日米安全保障条約の改定をめぐる政治闘争、いわゆる「六〇年安保」のときの新聞報道です。デモ隊が国会議事堂に突入し、機動隊と衝突して、一人の女子学生が死亡しました。

新聞ごとの論調の違いはどのように出てきたのか

この事件について、在京新聞7社が「暴力を排し議会主義を守れ」と、まったく同じ文言の社説を掲載しました。この「7社共同宣言」は地方紙にも広まりました。

この事件が起こるまで、日米安全保障条約をめぐる社説は、新聞によって主張が異なりました。それが突然、まったく同じになってしまったのですから、当時は大きな議論を呼びました。

現在はどうでしょう?

憲法改正、原発再稼働、沖縄の基地問題など、新聞によって論調が分かれていることが多いのではないでしょうか。

大雑把にいえば、「朝日・毎日・東京」がリベラル・左、「読売・産経」が保守・右、真ん中に「日経」があるといった構図でしょう。

ただし、昔からずっとそうだったわけではありません。時代によって、新聞社の体制によって、論調は変化してきたのです。

たとえば、かつて読売新聞は「反権力」色の濃い新聞でした。1950年代から60年代にかけて、社会部が大きな力を持っていたからです。

しかし、今ではすっかり政権寄りの新聞とみなされています。政治部出身の渡邉恒雄氏が社内で力を持ったことが理由のひとつです。

主体的に判断する、自分なりの基準を身につけて

日本の多くの新聞社では、政治部が出世の最短コース。経済部、社会部と続きます。社内政治によるパワーバランスが、新聞の論調に大きな影響を及ぼしています。

かつて新聞ごとの論調の違いは、社説で論じられていました。各紙とも社説で意見を戦わせていました。しかし近年では、記事にも各紙の論調が明確に現れるようになってきています。


たとえば、憲法改正について、朝日新聞・東京新聞には、反対集会や批判的なコメントが多く取り上げられ、賛成する人のコメントは目立ちません。逆に読売新聞・産経新聞には、賛成する意見ばかりが多く掲載される傾向があります。

それぞれの新聞に個性・特徴が出てきたのは、けっして悪いことではないと、私は思います。もちろん、裏づけのある事実を伝えなければなりませんが、伝え方が異なるのは当たり前です。れっきとした民間企業なのですから、個性的であってかまわないのです。

一方、テレビやラジオは事情が違います。放送メディアは中立の立場を守らなければなりません。電波という限られた資源を使っているため、国の免許事業となっているからです。放送法という法律で「政治的に公平であること」などと定められています。

新聞は自由に持論を展開でき、伝え方を選べます。だからこそ、受け手の姿勢が大切です。新聞の個性に引っ張られるのではなく、読者として主体的に判断する、自分なりの基準を身につけていきたいものです。

(池上 彰 : ジャーナリスト)