私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第22回
日本一のサイドバックを目指した男の矜持〜加地亮(1)

「みんな、すごいなぁ〜」

 2002年日韓W杯。稲本潤一や小野伸二らが画面の向こう側で躍動している姿を見て、加地亮はそう思っていた。

 加地は、稲本や小野らと1999年ワールドユース(現U−20W杯)ナイジェリア大会で準優勝という快挙を遂げたU−20日本代表のメンバーであり、多彩なタレントがそろっていた「黄金世代」のひとりだ。U−20代表の指揮も執ったフィリップ・トルシエが率いる2002年W杯に臨んだ日本代表メンバーには、その世代の選手たちが数多く選出された。しかし、加地はワールドユースのあと、A代表に招集されることはなかった。

「その頃は単純に、自分に実力がなかった。ワールドユースに出たあと、『海外でプレーしたい』って代理人に言ったら、『おまえ、アホか。実績もないし、どこに海外に行ける実力があんねん』って言われて......。(試合に出るために)『J2(のチーム)に行きます』って感じだったので(苦笑)。

 ワールドユース後、自分には代表に入るとかの感覚は一切なくて。W杯は、第3者的に見るもんやと思っていました」

 ロシア戦など日本代表が勝っていくなかで、加地は自分がそのピッチに立ったら「何ができるんだろう?」と考えたが、答えはいつも「無理や、個で戦われへん」だった。メンタル的にも、あの重圧には耐えられないと思い、活躍する稲本らに対して「マジで尊敬する」と思っていたという。

 日本代表は憧れではあったが、この時は自分が(そのメンバーに)入って、みんなと一緒にプレーしたいという気持ちには、とても至らなかった。

「2002年の頃は(J2の)大分トリニータから(J1の)FC東京に移籍したばかりだったんで、実力を上げてチームのなかでの地位を確立したいという気持ちのほうが強く、代表に入りたいとか、W杯に出たいとか、まったく考えていなかったですね」

 そんななか、代表入りへの意欲が徐々に芽生え始めたのは、2003年シーズンの途中からだった。FC東京の強化指定選手になった徳永悠平と右サイドバックのポジションを争っていた頃だ。

「(当時)徳永がスタメンで出たら自分はベンチ外。徳永が大学(の試合)とかで出られない時は自分がスタメンで出ていたんですが、出られない時こそ、(自らのレベルアップのために)いい練習をしようと思っていました。

 スタメンで出ている選手は、自分のための練習がなかなかできないので、その間、クロスの精度やフィジカルなどの練習をやって、(自らを)追い込んで(試合に出た時の)準備をしていく。それが、すごく楽しかった」

 全体の練習をこなしながら、なおかつ個人練習で足りないものを強化した。そこまで追い込んで練習していたのは、加地が考える理想のサイドバック像があったからでもある。

「自分には、サイドバックの理想形があったんですよ。3つの必要な要素があって、ひとつは90分間、アップ&ダウンできる超人的なスタミナ。ふたつ目は1対1の強さ。3つ目がクロスの精度。ブラジル代表のロベルト・カルロスやカフーが目標だったんです」

 そうして、地道にコツコツと練習していた加地のプレーを、日韓W杯後に日本代表監督に就任し、味の素スタジアムに視察に来ていたジーコがたまたま見た。ジーコはすぐに加地を代表に招集。アフリカ・ヨーロッパ遠征の初戦、チュニジア戦(10月8日)でスタメンに抜擢した。

 代表初招集で、いきなりスタメン出場。加えてアウェー戦での起用とあって、加地は「心臓がバクバクした」という。

「緊張しましたね。すべてが"初"だったし、中盤は欧州組のヒデさん(中田英寿)、俊さん(中村俊輔)、そしてシンジ(小野)とイナ(稲本)の『黄金のカルテット』と呼ばれた4人でしたしね。

 正直、走った記憶しかない。タイミングよく前に走って、一生懸命(守備へ)戻る。単純なことでしたけど、自分の仕事はできたかな、と。しかも、1−0で勝ったんで『これは次もあるかな』って思いました」

 その後、加地は代表の常連メンバーとなった。4バックでは山田暢久、3バックでは西紀寛とポジション争いを演じ、2004年5月末のイギリス遠征からはレギュラーとして定着した。

 ただ、2004年のアジアカップ中国大会で優勝し、W杯最終予選へと向かっていくなかで、加地には不安に思っていることがあった。守備について、だ。

 ジーコは攻撃面では指示を出すが、守備についてはほぼ選手に任せる感じだった。そのため、守備のやり方においては、攻撃の選手と守備の選手との間で、常に意見の食い違いがあった。そして、それがまとまることはなく、ずっと先送りになっていた。

 その結果、2005年5月のキリンカップでは、ペルー(0−1)、UAE(0−1)相手に連敗。危機的な状況に陥っていた。

「(ジーコジャパンでは)攻撃面における中盤の連係はよかったんです。でも、守備が不安定だった。攻撃陣とかは『もうちょっと後ろが押し上げてくれよ。前から(チェックに)行こう』と言うんですが、守備陣は『いや、一度構えて、相手の出方を見てからやろう』と言うんです。

 その意見のすり合わせはなかなかできなくて、時間だけがすぎていきました。『あのことはどうなったんやろ?』と思うんですが、答えはいつも見つからない。結局、どっちつかずで、フワッとした空気感で守備をしていました」

 キリンカップ直後、W杯最終予選のアウェーでのバーレーン戦の前には、中田英と、宮本恒靖、福西崇史らがピッチ上でかなり激しく意見をぶつけあった。だが、そこでも解決策を見出せぬまま、W杯予選、コンフェデレーションズカップなどを経て、2006年ドイツW杯へと突入していくことになった。

 ドイツW杯の開幕前、日本はドイツと親善試合を行ない、加地は3−5−2の右ウイングバックで出場した。右サイドでテンポよく上下動を繰り返していたが、前半39分、背後からシュバインシュタイガーのタックルを受け、右足首を巻き込まれた状態で転倒した。

「あれは酷かった。(時が経っても)シュバインシュタイガーだけは絶対に忘れへん。背後からきているのを感じていたけど、思いきりバチーンとやられた。右足首はグニャって感じで曲がって......。痛くて、歩くのもしんどいくらいだった」


W杯直前のドイツとのテストマッチでシュバインシュタイガー(左)に背後からタックルを受けて負傷した加地亮(右)

 加地は負傷交代。代わって駒野友一が出場し、試合は2−2のドローに終わった。

 試合後、加地はケガの治療をしたが、状態は最悪だった。W杯メンバーの最終登録期限が迫るなか、加地には決断が迫られていた。

 ドイツ戦の前には、W杯メンバーとしてドイツ入りした田中誠が練習中に肉離れ。プレー不可と判断されて、数日前にチームから離脱したばかりだった。加地はその光景を目の当たりにして、田中の悔しさも理解していた。

 自らも今、同じ状況になりかけていたが、加地は「ここで日本に戻るわけにはいかない」と思った。

「マコ(田中誠)は、筋肉系のケガ。世界と戦ううえではスプリントが必要なので、さすがに無理だった。でも、(自分がケガをした)足首は誤魔化せるんですよ。

 それにこの2年間、(周囲から)いろんなことを言われながら予選を戦ってきて、やっとつかみ取ったW杯のピッチが目の前にある。そこに立てるチャンスを得ながら、自分から降りることはできなかった。ここでやめたら、必ず後悔する。意地でも『出たい』と思ったんで、駒ちゃん(駒野友一)に『あとは頼むわ』とは、よう言えんかった」

 メンバーの最終登録をする前、ジーコが加地の状態をチェックすることになった。ジーコがサイドに出したパスを追いかけてクロスを上げる、というプレーだ。これができなければ「違うメンバーを入れる」と言われた。

「(負傷した右足首は)めちゃくちゃ痛かったけど、ここまできたら『やらなあかん』って思って、痛み止めのクスリを飲んでプレーした。ジーコさんに『OK』と言われた時はホッとした。

 でも、そこからもキツかった。試合前のアップの際には右足を引きずって歩いていたし、ヤット(遠藤保仁)とパス交換をしていた時も、余りにも痛くて(ボールを)蹴れず、『おまえ、大丈夫か?』と言われたし......。

 とにかくめっちゃ痛いし、自分のことで精いっぱいだった。そのせいか、W杯での緊張はなかった。もし普通の状態で試合に出ていたら、(初戦の)オーストラリア戦ではガチガチに緊張していたと思います」

 そのオーストラリア戦、加地はベンチから戦況を見守った。代わって、先発出場したのは駒野だった。

 ケガの状況から「初戦の出場は不可能」とドクターに言われていたが、それでも自分のプレーするポジションに他の選手が座することに、複雑な心境を抱いていた。

「正直なことを言うと、ちょっと嫌な感じだった。駒ちゃんが嫌いとか、そういうことじゃなくて、(駒野に)ここで活躍されたら、そのままのメンバーでいく可能性が高まるじゃないですか。日本のためにがんばってほしいけど、『自分が出たい』という気持ちが強かったんで、そこはすんなり受け入れられなかった」

 試合は夏の日差しが差し込むなか、中村俊輔が先制ゴールを決めて、日本が優位に試合を進めていた。後半も厳しい暑さに耐えながら、日本は1点リードを守っていた。

 だが、オーストラリアの指揮官フース・ヒディンクは、後半8分にティム・ケーヒル、16分にジョシュア・ケネディ、30分にジョン・アロイージと攻撃的な選手を次々に投入。ロングボール主体の攻撃に転じると、形成は逆転した。

「これは、ヤバいな」

 加地はベンチに座りながら、そう思っていた。

「後半、ベンチから見ていてもわかるくらい、みんなの足が止まり出した。そこに(オーストラリアは)ケネディとか高さのある選手を入れてきて、セカンドボールを拾われて、という展開が続いた。『このままいくと(日本は)耐えられへんのちゃうか』って見ていました」

 加地の読みどおり、後半39分から日本は崩壊の一途をたどることになる。

(つづく/文中敬称略)柳沢敦の「急にボールが来た」発言の真相を加地亮が明かす>>

加地 亮(かじ・あきら)
1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。滝川第二高卒業後、セレッソ大阪入り。以降、大分トリニータ、FC東京、ガンバ大阪、チーヴァスUSA、ファジアーノ岡山でプレー。1999年ワールドユースで準優勝を果たした「黄金世代」のひとり。その後、日本代表でも活躍し、2006年ドイツW杯に出場した。国際Aマッチ出場64試合、2得点。